忘れじの行く末


大学生になってから本格的に化粧をするようになって、そしてスカートを履くようになった。シフォンのスカート。ずっと憧れてた女の子らしいアイテム。鏡に映ったその姿はまるで自分じゃないみたいで、ちょっと照れる。慣れるまで何度も何度もただジッと頭のてっぺんから足の先まで見つめていた。

(…脱皮した蝉みたい)

可愛くなった自分に贈る言葉ではないけれど、蝶と自身で口に出すのは照れた。私はどちらかと言えば、蝉なのだ。

ーー そんな蝉の抜け殻は、夏とともにあの場所に置いてきた。



「名古屋はね、ブランド主義」
「そうなの?」
「そうそう。市内の有名女子校に中学から大学まで通ってる子は『純金』。あと別の学校でも同じような感じで『一本杉』とか言われてんだよね」
「へぇ、すごいね」

大学入学して間もなくのオリエンテーションで知り合った友人の話を真剣に聞く振りをしながら、私は手元のフラペチーノをズズッと啜る。冷たさに、思わず顔を顰めた。でもちょうどいい。本当は冷房の効いている店内で涼みたかったけれど、この暑さで空いてる席がなかったのだ。

ターミナル駅に隣接された高層ビル。商業フロアとオフィスフロアの境界線。十三階のコーヒーチェーン店のテラス席。強い日差し。下を覗き込めば、車の川。蟻のような人の行列。進学とともに新天地に引っ越してきて、約四ヶ月だ。生まれ育った地よりも西にある、地方都市。
まだ慣れたとは言えないけれど、それでも引っ越してすぐの眠れない日々が続いていた頃を思うと幾分マシになったように思う。

「東京はそういうのなかった?」
「あったのかなぁ。あんまりそういうの興味なかったから」
「ふうん?」

首を傾げられると共に「意外」と目を丸くされた。

「祥子って絶対お嬢様って感じなのに」
「そんなことないよ」

友人の言葉に肩を竦める。父親は普通に一般企業に勤めるサラリーマン家庭だし、なんだったらわりと下町育ちだ。高校はそれなりに名の通った私学に通っていたけれど、『お嬢様』からは程遠い。手持ちのブランド品といえば、両親が大学進学祝いに買ってくれた皮財布ぐらいだろうか。
そんな私だけれど、可愛い恰好は好きだった。実家からの仕送りをやりくりして、自分好みのコーディネートをファストファッションでいかに安く手に入れるかっていうのが、最近の趣味。

「そもそもなんで東京からこっちの大学進学したの?」

東京の方がいっぱい大学あるじゃん、と。友人の言葉はもっともだ。私自身も自分で決めたこととはいえ、今この場所にいるのはなんとなく夢心地。

「新天地で頑張ろうかなと思って」
「へー」
「名古屋は部活の遠征で何度か来たことあったし」
「部活?」
「うん」
「何部?」
「…野球部」
「えー、意外。マネージャー?」
「うん」

頷く私に、友人は「意外!」と言葉を重ねる。ここまで驚かれると逆に居心地が悪い。頬にかかるコテで巻いた髪の毛を掻き上げる。新しく夏用のネイルを施した爪が、チラリと視界の端に映った。

「うちの高校の野球部も結構強かったよ」

学校がバス出してくれてみんなで応援行ったもん、という友人の言葉に相槌を打ちながら、私はプラスチック容器の底に溜まるクリームを啜る。甘いそれ。味わって思い出すのは、今日みたいな暑い日。夏の終わり。耳の奥に蝉の声が今もこびりついて離れない。

「今日の合コン、祥子も話が合いそうで良かった」

安堵する友人の声が、遠い。腕時計を確認してそろそろ行こうと席を立つ彼女につられて、私も立ち上がった。履きなれなかったヒールにも、だいぶ慣れた。今はふらつくこともない。ぼんやりする思考で、先を行く友人の背を追いかける。揺れるシフォンのスカート。ひらひら揺れる。私は可愛くなった。自分で自分に言い聞かせる。

(彼氏できるといいな)

別にすごくその存在が欲しいわけではないけれど。意地みたいなものだろうか。店内に戻る前に、私はもう一度テラス席から強い日差しの青空を見上げるのだ。…あの日も、こんな風に太陽は私を照らしていたように思う。どうしてだろうね。抜け殻はあの場所に置いてきたはずで、私は新しく生まれ変わったはずなのに。結局心はいつまでも「あの日」に囚われてる。
未練がましい自分に嫌気がさして、私は大きく溜息を吐き出すのだった。







「相田は論外」

私はその言葉を聞いた瞬間、思わず手に持っていたボトルを落としかけた。指先に力を込めて、しっかりと抱き留める。途端に空気が薄くなったような感覚。呼吸がうまくできなくなって、何度か息を吸っては吐いた。

「お前ら仲いいだろ」
「だからそれはフツーに友達としてっていうか。部員とマネージャーなんだから当然じゃん」
「結構可愛いって評判だけどな、祥子」
「…やだよ、あんなオトコオンナ」

それは聞きたくもない言葉だった。どういう話の流れだったのか詳しくは知らないし知りたくもないけれど、私が密かに想いを寄せていた男に拒否されたことだけは理解る。彼が口にした言葉は間違いなく悪口だった。本当に心底嫌そうなその口調に。私は俯いて自分のスニーカーの爪先を見た。履きつぶしたそれ。身を包むジャージも、首に掛けたタオルも、化粧っけのない素顔も、後ろでひっつめた髪の毛も、その全部が芋くさい。…理解ってた。理解ってたはずだった。だけど改めて自分のことを『オトコオンナ』とそう形容されてしまうと、身体の芯から指先に至るまでどこもかしこもが冷えた。

「……悪かったね」

自分でも驚くほど低い声だったように思う。みんなで団子になって話し込んでいたその明るい髪色に掛けた言葉。私の存在に驚いたように振り返った、部員たち。場違いかもしれないけれど笑ってしまったのは、普段は勝気な彼の瞳が、見るからに動揺しているのが理解ったからだ。
…なんでアンタがそんな顔するわけ?
腹が立って、思わず眉を顰めた。

「私もやだよ、成宮みたいな我儘な子供」

その言葉を口にした瞬間。場の空気はとんでもなく凍り付いた。周囲の部員たちの視線が、私と成宮の間を行ったり来たり。

「無駄話してる暇あったらさっさと練習すれば?」

そんな風に吐き捨てて、成宮に持ってきたボトルを押し付けるように手渡す。我ながら可愛げのない態度に、成宮もまた眉間に皺を寄せた。

「そーだね」

口調はいつも通りなのに、声音は不機嫌。お前が言い出したことだろって思う。なんで私に対してそんな態度がとれるんだ。蝉の声が、煩い。日差しが痛い。普段気にしないことが、今とても気になってしまう。きっと現実逃避だ。
結局、原田先輩が仲裁に割って入るまで私たちの睨みあいは続いた。


成宮鳴と私は、そんな風に時折雰囲気を悪くしたけれど、基本的には高校三年間ずっと友人だった。成宮だけじゃなくて、カルロスも白河も、山岡も矢部も、福ちゃんも、同級生の野球部員みんなとは甲子園を目指す同志。そこに色恋など存在していない。まさに野球に青春を捧げた三年間。辛いこともたくさんあって何度泣いたか数えきれないけれど、でもそれ以上に幸せだった三年間。

それを置き去りにしようと決めたのは、三年生の夏。私たちの夏が終わった直後のことだ。あの日もやっぱり暑かった。


「相田」

数日前から続いている後輩マネージャーへの引き継ぎを終えて帰宅しようと寮を出てすぐのこと。声を掛けられ、振り返ったらそこには私を追いかけるように小走りでやってくる成宮の姿。私は改めて足を止めてその顔をマジマジと見つめる。

「なに?」
「駅まで送る」
「……珍しい」
「まあ暇だしね」

確かに近頃の成宮は暇そうだった。彼の進路はプロ一択だ。指名は確実と言われているから、大学受験の勉強も必要ない。怪我防止の観点から過度な練習も禁じられている。

「相田は進路どうすんの?」

肩を並べて歩く帰り道。こんなことは今まで三年間片手で数える程度だ。だから柄にもなくドキドキした。成宮にそれを気づかれたくなくて、ずっと下ばかり向いていた私。そんな私にごく一般的な世間話といった様子で問いかけた成宮。私はそこでようやく顔を上げた。

「一応大学進学するつもり」
「ふうん。大学でもマネージャーやんの?」
「…どうだろ」
「やればいいのに、勿体ない」

成宮のその言葉尻は、意外にもとても柔らかかった。それがまるで私の今までの仕事ぶりを褒めているように思えて、頬に熱が集まる。…成宮らしくない。そう思った。だからだろうか。私も気づけばらしくない言葉を吐いていたのだ。

「…でも大学には、成宮がいないでしょ」

それは紛うことなき私の本音。野球は勿論大好きで、これからも関わっていたいと思っているけれど…私はこの稲実で成宮鳴と出会ってしまった。多分これからの人生、彼以上の逸材に私が出会うことなんてないんだろうって思うのだ。それほどまでに彼の存在は強烈だった。光り輝いていた。
ーー恋を、していた。
誰にも打ち明けてこなかった自分の気持ち。…少しぐらい顔を覗かせても、もういいだろうって思ってしまったのは私たちの夏が終わったからだ。

「……俺、彼女できたって知ってる?」

しばらくの沈黙を経てからの、一見すると話の流れからなんの脈略もない報告。だけど理解する。成宮が私の恋に終止符を打った。もう終わりだと言われているのだ。始まってすらなかったけど。

「知ってる。こないだみんなに自慢してたじゃん。去年のミスコンの、準ミスの子でしょ」
「そ!すげー可愛いよ」

成宮の声は、馬鹿みたいに明るかった。その声が、蝉の鳴き声と一緒になって私の耳の奥底で溶ける。成宮の色素の薄い髪が目に痛い。見ていられなくて顔を背ける。
チクチクと心臓を刺されるような、感覚。

「相田とは全然違う」
「………アンタってほんと、最悪」
「…うん、ごめん」

泣きそうになってしまったのを誤魔化してずっとそうしてきたように低い声で彼を詰れば、成宮は何故か珍しく謝罪した。…だからなんで私を傷つける彼自身がいつもそんな風な表情をするんだろう。そんな思いで顔を顰めていた私の頭に、突然ポンと熱いぐらいの温もり。思わず顔を上げる。

「……相田にはさ、ずっとこのままでいて欲しい」

その言葉を聞いた瞬間。私の血潮は途端に巡り、そして気づけば顔を真っ赤にして成宮のその掌を振り払っていた。馬鹿にされたとしか思わなかったのだ。ずっと触れて欲しかった彼の温もりを感じる現実に、酷い言葉を吐かれた事実。私は唇を噛んで、成宮の顔を睨みつけていた。

「絶対嫌だ」

そんな捨て台詞を吐いて、私の足は気づけば駆け出していて。後ろは振り返らなかった。履きつぶしたスニーカーで、ジリジリと太陽の熱に熱されたアスファルトを蹴り上げる。駅までの道のりでとめどなく思い浮かぶのは、三年間の記憶。良いことも悪いことも。そのすべての中心に成宮がいて、キラキラ輝く私の宝物。だけどこの瞬間とてつもなくそれを捨ててしまいたくなった。
とめどなく溢れ出す涙を掌で拭いながら、とにかく私は最寄り駅まで走る。
…成宮は追いかけてこなかった。

それきり私は卒業まで成宮と口を聞かなかったから、同級生達には酷く心配をかけたように思う。時折校内で成宮と彼女を見かけるとやっぱり胸が痛んだ。それを誤魔化すように受験勉強に集中して見て見ぬふり。時折カルロスあたりが「いい加減仲直りしろよ」と私に発破を掛けたけれど、私はそれに首を振った。だって私たちは別に喧嘩したわけじゃない。

今でも耳の奥でこびりついて離れない蝉の声。目蓋に焼きついている眩しいほどの夏の日差し。
あれから初めて迎えた夏は、場所は違えどやっぱり暑くて。捨ててきたとは言え、思い出すのはやっぱり成宮のことで。

私の心は相変わらずあの夏に囚われている。みんなで目指していた甲子園のテッペンを取れなかったことよりも、彼に拒否されたことの方がよっぽど私は悔しかった。









ターミナル駅から地下鉄で二駅。途中で今日の合コンを主催してくれた別大学の人と合流した。私の友人とは高校が一緒のその人は、ふたつ年上。部活の先輩だったらしい。はじめましてだけど気さくな人で、「えーめっちゃ可愛い!」と私のことを褒めてくれた。そんなこと今まで言われたことなくて頬を掻いて頭を下げる。

「野球部のマネージャーやってたらしくて」
「あ、ほんと?じゃあ丁度良かったぁ」

なにが丁度良かったんだろうか。友人もここに来る前に、話が合いそうで良かった、とは言っていたけれど。本日の飲み会の場所に三人で向かいながら、私はひとり心中で首を捻っていた。合コン興味ある?と友人に声を掛けられて頷いて今日を迎えたわけだけれど、実のところ相手側がどういう人たちの集まりなのか知らされていなかった。知ってるのは、男側の幹事である友人の先輩の彼氏が職場の人を連れてくるらしいってことぐらいだ。

(相手の人たち…野球部とかだったのかな)

そうであるなら共通の話題があって少しは気が楽になる。何度かこう言った合コンにも参加していたけれど、私は見た目と趣味嗜好のギャップが大きすぎるらしい。外見が変化したらしたで面倒くさいことを痛感したのは、わりと最初の頃だ。お茶とかお花とかやってそうと言われて苦笑い。生憎そんな習いごと一切したことない。休みの日は大学近くにあるこの地方の球団のファーム球場に足を運ぶのが最近の日課だった。

「ここだよー」

案内された店は、地下鉄の駅から地上に昇ってわりとすぐの場所。市内有数の歓楽街の一角。路地の奥に入ればクラブやキャバクラ等々がひしめきあっているその場所だけど、案内された店は大通りに面した居酒屋だった。チェーン店ではない個人経営のような店構え。人ふたりぶんぐらいの横幅の階段が地下に続いている。木目の落ち着いた色合いに隠れ家っぽい雰囲気。
私は自然と最後尾になって、階段を下りる友人の背中を追いかけた。
どうやら相手側は既に到着しているらしい。平日、店のオープン直後ということもあり店内は静かだ。黒いTシャツとエプロン姿の店員さんに奥の座敷へと案内される。

「お待たせー」
「おー!ようやく!」

靴を脱いでいる間に、中からそんな声が聞こえた。相手側も三人だ。和やかな雰囲気が伝わってくる。
幹事ふたりが付き合っているのだから今日の飲み会は実質私と私の友人の為に開かれたようなものだ。いい人でありますように、なんて細やかな願い。
履いてきたパンプスを下駄箱に入れて、部屋の敷居を跨ぐ友人の後に続いた。

「こんばんはー」

私なりの猫っかぶりで挨拶して、個室をぐるりと見渡した瞬間。
見慣れたアーモンド型の瞳と視線が交わった。…お互いに一瞬、ポカン、と口を開く。

「え、知り合い?」
「……いや…」

隣に座る幹事役の人に尋ねられ、彼が否定の言葉を吐いた。だから私もそれに思わず追随するように、

「…まさか…!だって、…まさか成宮選手がいるとは思わなくて。ちょっと驚きました!」

約四ヶ月ぶりに会った同級生に対して初対面を装ったのだ。馬鹿みたいに明るい声で、ニコニコと。それを苦々しそうに見つめる顔はきっと私しか知らない。

私が大学進学でこの地を選んだただひとつの理由が、そこに存在していた。
ーー成宮鳴。
そして彼はやっぱりふたりで過ごしたあの場所から遠く離れたこの地でも、私の存在に眉を顰めるのだ。



最初こそ、私と成宮にとってはちょっと不穏な感じで始まった飲み会という名の合コンだったけれど、お互い素知らぬフリを通すことによってそれなりに穏やかな場となったように思う。
友人の先輩の彼氏は、成宮と同じ球団の二軍選手だったのだ。その流れでこうしてこの場に駆り出されたらしい。彼女はいいのか、と呆れてしまった。
そんな私の疑問に答えるように、先輩の彼氏がズバリ一言。

「こいつ最近彼女に振られたばっかりだからさ」
「えーそうなの?」
「それ今言います?」

烏龍茶を飲みながら、テーブルの向こう側のやりとりを眺める。散々世話になった原田先輩にすら敬語を使わなかった成宮が、礼儀正しく話してる姿を見て思わず面食らった。…社会人なんだな、と思い知らされる。私は烏龍茶を飲みながら、ツマミに手を伸ばした。もはや成宮がいる時点で合コンというよりはただの食事会になってしまった。彼の前で、もうひとりの参加者である男性(この人は先輩の彼氏の高校の同級生で野球部)に愛想を振りまく気分にもなれなかった。
そんな感じで約二時間。参加者の半分が未成年ということもあって、健全に合コンは終了。ぞろぞろと店を出て、階段を上って地上に出た。二軒隣がカラオケの店舗ということもあって、なんとなく二次会という雰囲気になったその時。

「すいません、俺、この子と帰ります」

突然、成宮の左手が私の右手を掴んだのだ。

「えっ?!」
「マジ?」

会話らしい会話をしていなかった私たちが『カップル成立』となったものだから、皆が驚いた表情になった。だけど誰も意義を唱えない。だから成宮は私の手を掴んだまま、頭を下げて歩き出す。私は助けを求めるように後ろを振り返って友人に視線を送ったけれど、「良かったね〜」と手をひらひらと振られるだけだった。

(…全然良くない…!)

平日とはいえ人出が多い繁華街。その流れをすいすい掻き分けて進む成宮の背中。ずっと見てきた、彼の小さくて大きな背中。掴まれた腕が熱い。シフォンスカートが揺れる。

「成宮、ちょっと、待ってよ」

再会して初めて彼の名を呼んだ。だけど成宮は振り返らない。どこに行こうと言うのだろう。帰ると宣言したのに成宮の足は地下鉄の駅には向かわなかった。横断歩道を渡り、先ほどまで滞在していた店とは大通りを挟んで対面に存在している商業ビルへと向かう。エレベーターに乗って三階へ。勿論会話なんてない。成宮は私の顔を見ない。でも彼の手は私の腕を掴んだまま。

そんな成宮がようやく私の腕を開放しそしてその硬く結ばれた口を開いたのは、ふたりでビルに併設された観覧車に乗り込んでからのことだった。

「…なにその恰好」

向かいに座った成宮は、私を頭の先から爪先までジロジロ見つめて不機嫌そうな表情。私はその態度に思わずカチンときてしまった。

「久々に会って、言うことってそれ?」
「だって全然相田らしくないじゃん」
「そんなの私の勝手でしょ。だいたい二軍で燻ってるくせに合コンなんて余裕ですね。だからこないだのファームの試合だって…」

売り言葉に、買い言葉。だけどそこで私はハッと気づいて口を掌で覆った。…私は今とんでもない墓穴を掘ってしまったような気がする。それを勿論成宮も気づいたのだろう。彼の行動は早かった。あっという間に私の隣に座っていた。ゴンドラがゆらりと揺れた気がして、ひやりと肝が冷える。抗議の声を上げる前に、彼は再び私の手を取っていた。硬い掌が私の口元の手の甲を撫でる。成宮の指先が、可愛いネイルの爪に触れた。近い。身体の距離が、とんでもなく、近い。頬に熱が集まる。

「なんでこっちの大学選んだの?」
「…っ」
「俺がいるから?」

成宮の青い瞳が私を捉えて離さない。吸い込まれそうなそれ。私はやっぱり声が出なくて、目を伏せた。だけど、彼の掌が私の頬に触れて、その行動を許さない。

「答えろよ」

この男はいつだって自分本位だ。だけどそんな成宮をいつだって許してきたのは私自身で、そして彼が言ったことは紛れもない事実だった。ドラフト会議で名古屋の球団が成宮の交渉権を獲得するまで、私の志望する大学が都内だったことは否定しない。……両親に頭を下げて名古屋に行きたいとお願いした。その理由を今この場で口にすることは、とんでもなく恥ずかしい。だけど…多分はっきり口にしないと成宮は私を開放することはないだろう。一度私を突き放してるくせに、なんでこんな風に翻弄するんだ。じんわりと視界が滲む。成宮の明るい髪色の向こう側に量販店の馬鹿みたいに明るいネオンの光が見える。お店のイメージキャラクターである大きなペンギンの看板も。

「……そうだよ」

心の中で白旗をあげてずっと心にしまい込んでいた秘密を打ち明けたけれど、それを認めたところで一体何になるというんだろう。成宮はなにも言わない。ただじっと私の顔を見つめている。

「……」
「……」
「……」
「…気持ち悪くて、ごめん」

気まずい沈黙に耐えられなくなって、私の方から謝罪した。だけどその瞬間。私の体は強い力で引っ張られて、気づけば成宮の腕の中。強い強い力で抱きしめられていた。

「相田」

耳元で成宮の声が鼓膜を揺らす。ほんのりと薫る香水の匂いが鼻腔を擽る。五感のすべてで成宮を感じて仕方がなかった。

「なんでそんなにずっと俺のこと好きなんだよ」
「……っ」

改めて言葉にされてしまうとどうしようもなく恥ずかしい。息を呑む。ずっと気づいていて素知らぬふりをしていたのは成宮自身なのに、なんで今更そんなことを聞いてくるのか。それすらも嫌がらせのような気がしてくる。だけどじゃあなんで私は彼に抱きしめられているんだ。いつだって成宮は何を考えているかわからない。そうやって私を翻弄する。
ーーもういい加減、開放して欲しかった。
蝉の声からも、あの照りつけるような日差しからも。

「…成宮がいたから私の夏はずっとずっと続いたの」
「……」
「私の心の中にはいつだって成宮がいて、…先に進めない。アンタのこと追っかけるようにこっちに進学しちゃったけど…でも別にどうこうなりたいとか、…そういうことじゃなくて、……ただ、見守ってたかっただけ。…それに、今日だって成宮が来るなんて勿論知らなかった、んだよ……。…気持ち悪くて、ごめん。もう、やめるから。私は、…似合わない化粧して可愛い恰好して…早く、成宮のこと忘れるから。…新しい恋を、するから…」

途切れ途切れながら紡いだ言葉。我ながら、とてつもなく重い。これで本当にさよならだ。最後に思い出に浸るように、成宮の胸板に頬を寄せた。するとふっと頭に感じる温もり。いつか感じたものと同じそれ。理解して、途端に頬に熱が集まった。きっと今、私は茹蛸のように真っ赤な顔に違いない。

「相田が可愛いことなんて、とっくに知ってる」

成宮の掌が、また私の頬を撫でた。上を向かされて、再びあの青に囚われる。やっぱり私は逃げられない。

「だからずっとあのままでいて欲しかったのにさ」
「……そんなの、」
「なに?」
「好きって、言ってるような、ものだよ…?」

消えそうな声で呟いた。とんだ自意識過剰だっていつもみたいに笑って欲しかった。それで終わりにしたかったのに。

「好きだよ」

その言葉はまっすぐに私の心を射抜く。

「だから誰にも気づいてほしくなかった」

成宮の左手の親指が、私のグロスの光る唇をなぞる。

「お前のこと可愛いって知ってるのは、俺だけでいいんだよ」

スッと細められた青い宝石。私の心に焼き付いたあの青空のようなそれ。

「誰にも触れられないようにあの夏に閉じ込めておきたかったのに」

先に私のことを悪く言ったのは成宮で、
先に彼女をつくったのも成宮で、
先に私のことを突き放したのも成宮なのに。

「………やっぱり成宮は、我儘、だよ…」

だって、そんなこと言われてしまったら、私はもう戻れない。
…だけど…きっと、戻らせるつもりもないんだろう。成宮の目の奥に静かに燃える炎。それは確かにそこにあって、私をジッと見つめている。

「そんな俺が好きなんでしょ」

そうして成宮は勝ち誇った顔で、生まれ変わった私の唇に自分のそれを重ね合わせるのだった。


相変わらず「成宮こういうところある〜」というようなお話になりました。個人的な趣味で名古屋を舞台にさせていただいております。成宮が中日に来てくれたら私は絶対ナゴヤ球場とドームに通います(真顔)。両片思いを書くのは楽しいですね。タイトルは新古今集の「忘れじの行く末までは難ければ今日を限りの命ともがな」より。訳は「私のことを忘れまいとおっしゃる、その遠い将来のことまでは頼みにするのは難しいので、愛されている今日を限りに死んでしまいたいことです」。
夏を感じられるイメージソングを指定していただいた椎名様、改めてリクエストありがとうございました!