春よこい


君に預けし 我が心
頼むぞと 千里香に 心寄せ


1914年、春。
歳若き男女が、石段を登っていた。一人は白地の羽織を肩に掛けている。裾にかけて火が燃えるような模様があしらわれた其れ。其の下の学徒のような襟爪の隊服に身を包む彼の身体は、長い段を踏んでも息が上がることもない。鍛えられた体躯に、陽に輝く淡い金色の髪。深緋に染まった毛先が、歩くたびに軽やかに動く。
そんな背中を見つめながら、その後ろを静々と歩くのは、絣模様の紬に身を包むうら若き乙女。手には風呂敷包みを持ち、ふうふうと息を吐いた。

「あと少しだ」
「はい」

振り返った彼の肩越しに、鳥居が見える。穏やかな黄金色が女の帯あたりを愛おしげに見つめた。

「杏寿郎様」
「どうした」

女が呼び止め、男は歩みを止める。

「杏寿郎様」

女が、緩やかに微笑む。
その瞳は、どこか儚い。
そして何度もその存在を確かめるように、男の名を紡ぐ。
そんな彼女の声は、ふたりの隙間に吹いた風の中に儚く消えてしまった。







嗚呼、夜明けだ。
山並みの淵が光り出し、木々の輪郭を昇日がなぞった。

「竈門少年」

死の淵に片足を踏み入れ己の死期を悟った青年が、語る。弟への言葉、父への言葉。そして後輩たちへの言葉。胸を張って生きろ、と。自分がそうしたように。心を燃やして強くなれ、と。そうして命の襷を繋ぐのだ。
左目は潰れ、肋骨は砕け、右腹部に空いた穴からは、ぼろりと傷ついた内臓が飛び出している。だけれども、不思議と辛くはなかった。

命をも
  惜しまざりけり
                         梓弓

そんな句が、ふっと頭を過ぎる。
青年は、最期の力で己の懐から小さな護符を取り出し、向かい合う少年にそっと差し出した。

「これを、       に渡してはくれないだろうか」

少年は、こくこくと頷いて、受け取った其れを大事そうに抱え込んだ。頭を下げて涙を拭う少年のその向こう側。牡丹の模様があしらわれた着物に縞模様の帯を絞めた妙齢の女性が、彼をじっと見つめている。右目がそれを確かに捉えた。

(母上)

齢二十歳の青年は、亡き母の幻影に問いかける。母の教え。やるべきことは出来ただろうか、と。

(立派にできましたよ)

その言葉に、彼はほっと安堵の息を漏らす。
その綻んだ表情はあどけない、年相応の其れであった。

或る年、或る月、或る日、或る場所で。
晴々とした空の下、ひとりの男がその短くも熱い人生を終えた。彼自身、己の人生に後悔はない。そういう家に産まれてきた身だ。

だが、ひとつ。

そうだ、ただひとつ。
ひとつ心残りがあるとすれば、
それはーー




2019年、令和、首都東京。
新しい年号に代わり、約1ヶ月ほど経った水無月のこと。昼間に降った大雨がアスファルトを濡らしたまま夜が更ける。残業続きで肩を落とした相田祥子は、片手にドラッグストアのレジ袋を引っ提げ帰宅の途に就いた。緑色の袋には、ティッシュボックスや深夜の晩酌用の缶チューハイやスナック菓子などが雑多に放り込まれている。

「…ああーーーー」

濁音まじりの溜息が、祥子の口から漏れた。
三十路に差し掛かり、社内では中堅と呼ばれる立場にある彼女は部署の使えない新入社員に頭を悩ませていた。もともと多忙な部署である。それに加え、ひとつひとつ指示を出さないと動かない後輩たち。頭の固い上司。言うなれば板挟み。

(もうここで煙草吸っちゃおうかなあ)

なんて。重い足を引きずりながら、ピンヒールがカツカツとコンクリートを削る。がさごそ、とビニール袋から目的の其れを探る。通りかかった公園、足はふらりとそちらの方へ。薄暗い街灯の下で指に挟んだ煙草にライターを点け、ほぉっと息と共に紫煙を吐き出した。

先程語った仕事の忙しさとは別に、祥子にはここ最近悩みがあった。それはここ一ヵ月ほど続けて就寝中に見る夢のことである。
朧気ながら覚えているのは、穏やかな春の陽の元ーー祥子は誰かと神社の石段を登っていた。身を包んでいたのは、着物である。そして前を歩く男の服は学生服のような兵隊服のような、そんな類のもの。そして彼は不思議な羽織を身に纏っていた。なんとなく戦前か戦時中のような時代の空気を肌に感じていたが、それは女の知っているそれではなかった。でも案外史実は選ばれた記録であって現実はそんなものだったのかもしれない、と。思ってしまう程にはリアルな夢だったのである。
あれは実際に『誰か』が経験した現実の記憶だったかもしれない。根拠はないが、祥子はなんとなくそう感じていた。

「…げっ」

火をつけたばかり、まだフィルターまで随分と長い煙草にひとつ染みが出来た。上を向くと化粧で武装した頬にぽつりぽつりと降り注ぐ雨粒。祥子は慌てて煙草の火を靴底で消すと、目についた公園の四阿へと駆け出した。また降り出してきてしまった。屋根を叩く雨音を聞きながら、中央に設置されたベンチに腰掛けた祥子は一度きょろきょろと周囲を見渡してから、シガーポーチから新しい煙草を取り出した。そしてそれにライターで火を点ける。
誰も見てないからいいだろう。普段後輩らに厳しく指導する彼女も自分に甘い時はとことん甘い。あまり褒められた性格でないことは自覚していた。
一度甘やかすと手がつけられない。どうせしばらく此処を離れることは出来ないのだから、と祥子の手はビニール袋の中の缶チューハイとスナック菓子を取り出した。晩酌のはじまりである。

先程の夢の話だが、あれには更に続きがあった。ここ一週間は、少し違う夢を見ていたのだ。最初は違う類のものだと彼女は考えていたが、『登場人物』が一緒だったものだから、同一の夢なのだと気づくに至った。

鍛えられた体躯に、陽に輝く淡い金色の髪。深緋に染まった毛先。太陽のような男の最期の瞬間に、女は夢の中で立ち会っていた。どのような戦いであったかは知らない。いつも彼女が夢に見るのは、全てが終わった後ーー彼が息を引き取るその時のことだ。

あの夢は、自分になにかを伝えようとしているんだろうか。祥子はここ数日そんなことばかり考えていた。…考えていたが、どれだけ頭を傾げても、答えは出てこない。祥子はどちらかといえば現実的な思考の持ち主で、所謂心霊現象だとか不思議な出来事には懐疑的な性格だった。だがそんな彼女をもってしてでも、なにかおかしい、と思ってしまう連日の夢。

プシッと開けたプルタブの小気味いい音を聞いてすぐ、祥子は缶をぐびりと呷った。雨は止む気配を見せない。しばらく雨宿り。曇天の暗闇で、ひとり晩酌。侘しいとは思わないが、きっと今の状況を警察官に見られたらきっと職質案件なんだろうな、と。そう思いつつ、スナック菓子を摘まむ手は止まらない。
そんな祥子の耳に、フッと足音が届く。バシャバシャと地面に溜まる水溜りを跳ねのけ、こちらに向かってくるように大きくなるそれ。同じように雨宿りを求めてのことだろうか。薄ぼんやりとした闇、目を凝らして眺めていれば、人の形が見えてくる。それは祥子と同じぐらいの背丈、若い男だ。よくよく見れば学生服を着ている。こんな時間に、と思わず腕時計に視線を落とした。二十二時過ぎ。まあ最近の若い子は、塾やらで忙しいから仕方ないことなのか、と瞬時にそんなことを考えた祥子である。

その時。
ほんの一瞬、雲が流れて月明りがふたりを照らした。
祥子の視界に、その姿がありありと映り、
その瞬間。
彼女はハッと息を呑んだのだった。

脳裏に駆け巡るのはーー、



「祥子」

穏やかで優し気な声音は、どこか憂いを帯びている。
神社からの帰り道。女は、隣を歩く男の肩越しに揺れる豊かな毛先を眺めながら、首を傾げ、ゆっくりと口を開いた。

「いかがなさいましたか、杏寿郎様」
「……いや」

男は、深く思慮しているようだった。単純そうに見えて、実はそうではない彼のことだ。女はよく理解している。

「……感傷的になるのは、よろしくありません。私が言えた義理ではないですが」

女が苦笑を零せば、男もまた苦笑い。夫婦は同じ時を過ごす中で似てくるという話を聞いたことがあったが、彼らは最初から何処か似通っていた。お互いに強い信念を持って生きている。それは生まれた家柄故ということもあるだろうが……核が同じなのだ、と女は口癖のように言った。

「杏寿郎様は杏寿郎様の使命を果たしてくださいませ。私にとってはやはりそれが一番の望みなのです」
「……」
「煉獄家に嫁ぐと決めた時に、覚悟は致しました。夫婦とはいえ、それぞれに天命があり、使命があり、そして寿命があるのです。人の命は永遠ではありません。例え杏寿郎様がごく普通の家系に生まれ私と夫婦になったとしても……別れは必ず訪れます。それが早いか遅いかの違いなのですよ」

女の言葉は淀みなかった。だからこそ本心と理解る。男は彼女の口振りに、チリリン、と風鈴の音を聞いた。それは、幼い頃に対峙した母の姿と重なり、凛々しい眉を下げる。女は更に言葉を続けた。

「杏寿郎様は強い方です」
「……」
「守るべきものが増えたのですから、その分も、貴方様は強くなってくださると……私は、そう信じています」

女は自身の腹部にそっと手を添えて、男の顔を見上げて微笑んだ。穏やかな笑み。既に母親の顔だ。男の脳裏にそんな言葉が過ぎる。

「それにきっと…もし、私たちが今世で生き別れとなったとしても、…杏寿郎様はきっといつの時代も私のことを探し出してくださるでしょう?」

芯の強い正論ばかりを口にしていた女が、ふいにそのような夢想を披露したものだから、男は思わず面食らって目を見開いた。しかしいつもと大して表情が変化しかなかったのは、彼自身の目玉が生まれつきぎょろぎょろしているからだろう。何処を見ているかわからないと言われるそれ。彼女もきっと気づいていない。だからこそ、どこかうっとりとした様子でやはり自身の腹を撫でている。

……愛しい。

男は、ただそれだけを思った。
そしてやはり生きたい、と。
家族の為に自身の天命を全うし、その生を懸命に生きたい、と。そう思った。

男は女の掌に、ゆっくりと自身のそれを重ねた。普段刀を握る手は、硬く、厚く、肉刺だらけだ。沢山の鬼を切ってきた手だ。強く生まれた故に、良いものを沢山沢山救ってきた手だ。

「約束ですよ、杏寿郎様」
「……ああ、約束だ」

だから、祥子も忘れてくれるな、と。
男は穏やかな笑みを浮かべて、そんな言葉を彼女に送るのだった。






「……杏寿、郎…様…」

祥子は無意識にその名前を口にしていた。だがそのあとすぐに、口を閉じて首を振った。今しがたまるで走馬灯のように頭の中を駆け巡った映像が、まるで脳味噌に焼きついたように離れない。どうして忘れてしまっていたんだろう。どうして忘れてこれまでの人生をのうのうと生きていたんだろう。心が産声を上げたように、叫ぶ。雨の中、男は傘もささずに立ち尽くし、そして四阿で同じように立ち尽くす祥子の姿をじっと見つめていた。見開かれた目。でもきっと普段からそうなのだろうとわかる。この瞳を知っている。知っているのだ。祥子の心は叫んだ。きっと彼もそうだ。彼も知っている。知っているから、

「祥子」

初対面だと言うのに、男は優しげに彼女の名前を呼んだ。その瞬間、祥子の瞳には涙が溢れ、頬を伝う。愛しい人。二百人の乗客を救い、鬼との壮絶な死闘を経て、黄泉の国へ旅立ってしまった夫。愛する妻とまだ見ぬ子へ、と。遺書に認められた文を思い出す。あの手紙を持ってきてくれた少年の名前を今は思い出せないけれど、それでも確かに"自分"が経験したことなのだ、と。祥子の記憶が、訴える。

がくり、と祥子は膝から崩れ落ちるように地面に蹲った。浅い呼吸を繰り返し、コンクリートで舗装された四阿の地をぼんやりと見つめる。バシャバシャとまた足音が聞こえた。
それからほんの数秒の後、彼女の肩には温かな掌の温もり。そして、あっという間に身体を強く強く抱きしめられる。

「あまりに見知った顔が周りに多いものだから、お前もそうであると思っていたが……随分と早く産まれてしまっていたんだな」

どうりで見つからないはずだ、と。そんな耳元で囁かれた言葉だけで、男が、自分のことをずっと探してくれていたことを知る。祥子は彼の胸に顔を埋めながら、鼻を啜った。そうしてゆっくりと……確かめなければいけないことを、口にする。

「……あなたは、今、いくつなんですか…」
「16歳だ!」

相変わらず威勢のいい声と、その年齢に、祥子は絶句したけれどもーー、それでも。

「あと2年したらまた一緒になれる」

男の、杏寿郎の、気持ちは今世でも揺るぎないと。そう思い知らされるから、化粧が落ちることも気にせずに、祥子はただ彼の胸の内で、泣き続けるのだった。


「イメージソングのようなお話を」ということで書かせていただきました。映画が公開されまして、その勢いで書き上げたものになります。「もし無限列車時点で、煉獄さんに身重の妻がいたら」というコンセプトから着手いたしまして、リクエストにあるように「前前前世」らしく生まれ変わりの話になりました。煉獄さんなら約束も忘れないし、絶対に探し出してくれるだろうな、と。ある意味作者の願望詰め合わせですが、共感していただけたら嬉しいです。
改めて、匿名希望ちゃん様。リクエストありがとうございました!気に入っていただけると幸いです。