02


 どうやら文字通り空から突然降って湧いた私をこのお兄さんが見事に受け止めてくれたらしい。
 お兄さんの腕の中から半ばずり落ちるように降りた私は自分でも笑ってしまうくらい腰が抜けていた。顔面蒼白という言葉なら今まさにこの私にこそお似合いの言葉だ。

 船は徐々にスピードを落とし、青海の真ん中で止まった。ゆったりとした波の揺れがここは海上だと嫌でも悟らせる。
 どこから落ちてきたのか、というお兄さんからの質問にも答えず、私はしばし呆然と海を見つめた。痺れを切らしたお兄さんが私の横に腰を下ろして顔を覗き込んでくる。ちょっと顔が近いがそれどころではない。

「おーい、聞こえてんのか?なァー」
「う、海です、ね……?」
「? おう、海だな」
「えと、あ……っ、助けてくれてありがとうございました……」
「こりゃどうもご丁寧に。どういたしまして」

 ぺこり、ぺこりとお互いの頭を垂れる。いやいやいや、海の上で我々はなに頭を下げあっているのか。
 夜のバイト帰りに階段から落ちたと思ったら、真っ昼間の海に瞬間移動してました、というのが今の状況だが、自分で言ってて相当な突っ込みをいれたくなる。
 まァ怪我がなくて良かったじゃねェか、とお兄さんはオレンジ色のテンガロンハットに手をやりながら立ち上がった。
 よくよく見ればこのお兄さんは上裸に肩掛け鞄1つというとんでもない軽装である。この船だって大海原を渡るには心許ないものに見える。360度見渡しても島影ひとつ見えないこの状況…もしや……。

「……も、もしかして遭難、とかしてるんですか……?」

 お兄さんは目をぱちくりとさせ、ひと呼吸置いてから腹を抱えて笑い出した。私は訳が分からず、つい眉間に皺を寄せてお兄さんを見上げる。目尻に溜まった涙を拭ってお兄さんはヒーヒー言いながらなんとか口を開いた。

「遭難なんかしてねェから安心しな。しっかし、グランドラインともなると人が落ちてきてもおかしくはねェってことか?」
「ぐらんど……?え?なんですか、それ……?」
「え?」
「え?」

 ざざんと波が船を揺らす。

「この海の名前さ。聞いたことくらいあンだろ?」
「ないですないです。え?ここ太平洋とか日本海とかじゃないんですか?どの辺の海なんですか?」
「タイヘーヨー……?あー、どの辺かって言われりゃあ……」

 お兄さんは何とか私に場所を説明しようと色んな島の名前?を出してくれたがひとつもピンとこなかった。話が噛み合わない……。お兄さんもなにかおかしいと思ったのか、説明を諦めて口をつぐむ。
 沈黙が流れ、私の心臓がじわじわと冷えていく。

「い、今からする質問に簡潔にお答えいただけますか?」
「お前、おれの質問には全然答えねェくせに……」
「いーから!」

 お兄さんはへいへい、とマストが立つ船尾に腰かける。

「日本はここからどっちの方角にありますか?あなたは何者ですか?漁師さん?この船、オールもエンジンも積んでなさそうですけど動くんですか?」
「質問が多い……」
「いーーから!!」
「わァったよ」

 んー、と頭をがしがし掻くお兄さんの返答を固唾を飲んで待つ。頼むから納得できる答えがひとつでもあってほしい。

「まず、ニホン?なんて島は知らねェ。聞いたこともねェし、たぶんこの辺りにもない。おれはエース、ポートガス・D・エース。海賊だ」
「は……?海賊……?」
「そんで、船はこうやって動かす」

 お兄さんの足が突然燃え上がる。風がないどころか、帆が畳まれた状態の船が突然進み出した。

「おれはメラメラの実を食った炎人間だ」
「わーーー!!船!!!燃えちゃう!!!」
「うおああ!!??海水をかけるな!!やめろ!!!」

 私の懸命な消火活動はなぜか一喝されたが、お兄さんもといエースさんの足元の火は無事収まる。
 何が起こったのか。エースさんは火傷とかしてないんだろうか。

「な、何したんですか!?こんな狭い船で火遊びなんかやめてくださいよ!」
「どうやって動かすのか聞いたのはそっちだろ!?」
「大体海賊ってなんの冗談ですか!?このご時世にそんなのいるわけ……っ!」

 ない、と言おうとしたがそれはエースさんの鋭い眼光で阻まれた。ぐっと口をつぐむと今度はエースさんが口を開いた。

「なァ、お前の名前は?」
「……ナマエ、です」
「ナマエ、お前がニホンとかいう島の世間知らずだってこたァ分かった」
「世間知らずって……」
「だけどな、グランドラインは確かに存在するし、この世には海賊なんざごまんといる」

 エースさんの肩に陽炎が揺れた。


「おれのこの炎を見て、まだ火遊びなんて言うか?」


 ゆらりと炎を纏って不敵に笑うエースさんが、この何もかも馴染みのない世界が本物だという何よりの証拠だった。

 事実は小説よりも奇なりとは言うが、なんかもうそれどころではない。炎人間と名乗った通り、エースさんの身体の一部は炎と化している。

「熱く、ないんですか……?」
「おれはな。でもナマエが触れば火傷するれっきとした炎だ」

 熱気がすごいもの、わかるわかる。炎を収めたエースさんが信じたか?と笑った。

「とりあえず船を出すぞ。おれはいま食糧調達の旅の途中でね」
「え、あ、どうぞ?」
「これから行く島は、そこそこ栄えた島だからそこまで乗っけてやるよ」
「いいんですか?助かります……」
「海に捨ててくわけにもいかねェからな」
「怖いこと言わないでくださいよ……」

 ニシシと笑ったエースさんの炎を原動力に船は大海原を進みだした。
 島への道中、エースさんは色々教えてくれた。ここがグランドラインという名の海であること、悪魔の実とその能力者のこと、自分は白ひげ海賊団の一員であること。
 そして何より時間を割いて語ったのが、エースさんが尊敬してやまない"オヤジさん"と大切な"家族"のことだった。身振り手振りを交えて語られる白ひげ一味の冒険譚は聞き飽きることはなかった。
 最初こそ半信半疑だったが、こうも目の前で燃え盛るエースさんを見てしまっては信じざるを得ない。

「なーんか、私が知ってる世界とかけ離れてて現実味がないですねー……」

 船頭の先に広がる水平線を眺めて私は呟いた。
 でもこれが現実だと言うなら、私はこれからどうやって生きていくんだろう?島に着けばなんとかなるだろうか?そもそもどうしてこんな世界に来てしまったんだ?帰り方は?私がいた世界は今どうなってる?
 ああ、頭がパンクしそう。

「かけ離れてるっつーか、ナマエは違う世界からきたんじゃねェか?」
「いやいやいや、そんなまさか……」

 私の力ない否定に会話は途切れる。

「……ナマエ、島に着いたら何か美味いもんを食おう!」
「え?」
「ここで会ったのも何かの縁さ。島にいる間くらい、一緒にいてもいいだろ?」

 島まで乗せるという約束を自ら反故にしてエースさんは、な?と笑って私を見つめる。私を元気付けようとしてくれてるのかな。胸に広がる温かさと安堵に私は膝に乗せていた拳をきゅっと握った。

「……はい、ありがとうございます」
「うん、お前笑ってる方がいいな!」
「そ…そりゃどうも……」

 慣れないストレートな褒め言葉にどぎまぎする。照れて視線を逸らした私をよそにエースさんは「肉くいてェな肉!」と腹の虫と食事の相談を始めていた。