赤裸々
サボは引くほど手汗をかいていた。
しかしそんなことを自覚する隙間もない。
とりあえず…と腰掛けたベッド、膝頭をつかむように置いた手には力が入りっぱなしだ。無意識に肩が上がっているせいで背中の筋肉が変に痛い。
しかしそんなことを気にする余裕もない。
まとまらない思考が頭皮の浅いところをぐるぐると周回していた。誰に命令されたわけでもないのに姿勢を少しも変えられない。視線は一点に落とされ、息は極限まで潜め……でも唾だけは何度も嚥下した。
心臓が強く鳴っている。
サボ16歳。
数時間後、彼は非童貞となる。
サボの初めてのカノジョは革命軍の女の子だった。
歳はひとつ上。サボと同じく身寄りのない子どもで、ドラゴンさんに拾われた少女である。名はナマエ。
ナマエはほかの戦士たちがそうであるように賢く勇敢な娘であった。そうでなければ革命軍に、それも戦士として居残ることはできない。居残れるようにそう育ったとも言える。
二人が知り合ったのは最近で、きっかけは渡航訓練だった。その名の通り、少年少女たちだけで海を渡りきる訓練だ。訓練には監督役の戦士が乗った船が随行し、海中にはハックを始めとする魚人の戦士がもしもの時のサポートについている。
少数精鋭で任務に臨むことが多い革命軍では、全員がどのポジションの仕事もできなければならない。中でも船の操縦は基本中の基本。航海士もコックも戦闘員も雑用係も、これができなければお話にならない。
帆を張る、航海士の指示を受けて的確に舵をきる、素早くロープを結んで固定する……ひとたび嵐に見舞われれば数メートル先の視界も霞む不安定な甲板で、怯むことなく休まず駆け回れる人間が要るのだ。
訓練の最中、辺りを見回して手が必要そうな場所にサボが駆けていくと、決まってナマエがいた。数手先を読んでナマエが向かった先には、必ずサボがいた。
鉢合わせるたび二人は驚き、感心した。同じ思考回路で動いてくれる人間がいるおかげでやりたいと思っていた作業は何倍もスムーズに進んだ。
仕事ができる男はいつの時代も人を惹きつけるものだし、賢い女はどの世でもひと際輝いて見えるものだ。
二人きりでゆっくり話したことはないけれど、なんとなくお互いを目で追うようになり、目が合えば簡単にときめいた。風鈴のような涼しい音がキリリンと耳の後ろで鳴った気がして……。
「ねえサボ、私たち…付き合わない?」
「えっ」
こうくれば十代の思考とは単純なもので、ちょっとの特別視がたちまち恋になる。
歳上のお姉さんらしく大人ぶった彼女はサボに告白したし、サボは戸惑いながらもドキドキと了承した。
ものは試し、何事も経験、ともっともらしい・ガサツな・斜に構えた理由をつけてサボは頷いたのだ。それが逆に子供っぽい態度であるとも知らず。
それから二人は限られた場所と時間をやりくりしながら順調に逢瀬を重ねた。
ナマエの笑った顔はあまりにかわゆく、サボは直視できず彼女の耳たぶの形ばかりを見ていた。初めて手を握った日、その柔らかさと小ささに混乱した彼は、コアラに懇切丁寧にその感激を解説し、あまりのしつこさに窓から放り投げられたりもした。
食堂でナマエと向かい合って食べる3度の食事が楽しみで、彼女に会えない日はそれだけで色褪せた。おそるおそる抱きしめた時の頬に触れた髪の冷たさを覚えている。腕を回した細い背中の熱も。
毎日1番におはようを言いたくて、彼女の1日の最後におやすみをいう人間が自分だったらいいなと思った。
思春期真っ只中、サボは春色のむずがゆさと興奮とキラメキを日々堪能し。
「……〜っ!」
そしてついに迎えたハジメテの夜。
サボは冒頭の通り、ガチガチに緊張していた。
先輩戦士たちから指南された紳士的マナーのいろはを脳裏で反芻しつつ、ナマエがシャワーから戻ってくるのをこの薄暗い部屋でジッと待っている。
革命軍の若者の中でも前途有望な出世株であるサボだが、この手のことは平々凡々。そこらの島にいる青年となんら変わりないのだった。
いざ始まってみれば——……白くて薄ぺっらいナマエの体を見下ろして、サボは彼女の殺し方ばかりを考えていた。
首なんか簡単にひねれる。腹を強く圧迫すれば臓器のひとつも潰れるだろう。どこの骨もあっさり折れてしまいそう。……
体中に熱をこもらせながら、延々と・とろとろとそんなことばかりを考えていた。もちろんそんなことしないけど。
少し間違えば殺されてしまいそうな彼女と、少し間違えば殺してしまいそうな自分。その境界線は曖昧で、咳でもした拍子に簡単に超えてしまいそうだった。
……体の中に直接繋がる穴がこんなにノーガードでいいんだろうか。
数センチで胎内だ。神経が密集していて、壁は粘膜で数ミリの膜の下には血管が通っている。
口も目も粘膜と隣り合わせの穴と言えば穴だが、そこには穴を閉じるための筋力が十分にあるし歯という武器もある。鼻や耳は閉じられないけど穴自体が非常に狭い。
じゃあここは。
ひょっとして、ものすごく拷問に向いてる部位なんじゃねェの…いや男だって急所をぶらさげてると言われればそれまでだけど。……
連想ゲームのようにつらつら続いていく思考は、カノジョとの記念すべき初めての情事のソレとは程遠い。
どうしてこんなに無防備に腹を出せるのだろう。ああ、そうか、この子はおれのことが好きなんだっけ。だからこんな急所や弱点、泣きどころばかりを無邪気に晒しているのか。無抵抗にすべてをこちらに委ねて、目を閉じて息ばかりをしているのか…。
何度も不思議に思って何度も納得して、しかし何度も忘れてまた不思議に思う。理解できたようでなかなかできない。
愛という名の現実味のない事実をひたすら反復した。
初めて対峙する同年代の裸体を前に、セックスとはどこまでも相手を信頼してないとできない行為なのだと静かに衝撃を受けた。そして、自分は体を開いてくれた相手を体格や腕力でどうにでもできる。文字通り、どうにでも。その途方もない暴力性もサボはこのとき自覚した。
女の子の体というのは男と違ってどこもかしこも柔らかくて、か弱くて、大事にしてやんなきゃいけないんだ。
この結論に至るまでのプロセスはめちゃくちゃだったが、サボは正しくそう理解したのだった。
二人並んでくったりと横たわったベッドの上、「大事にしなきゃなァ…」ともう一度誓うように思った。ナマエの綺麗な白桃の横顔をほとんど閉じそうな目で見つめ、サボはゆるゆると眠りに落ちた。
「サボ、別れよう」
「えっ」
初めて枕を交わして一ヶ月、しかしサボはフラれた。
理由はデリカシーがなさすぎるから。その問いに慌てて「なんで」「どこが」と聞いてしまったせいで彼は己の言動への自覚のなさを再度露呈、ナマエの目はさらに冷めたものになった。
しかもナマエはベティ率いる東軍に着任し、3日後にバルティゴを発つという。戻ってくる予定は当面ない。
ここでサボが食い下がれば良かったのかもしれない。まだ自分は君のことが好きで、こんな別れ方は嫌だ、もう一度チャンスがほしい。みっともなくても縋りつけば結末は変わったのかもしれない。
ここでナマエも何が嫌なのかストレートに怒れば良かったのかもしれない。自分はサボのこんな言動に傷ついたのだ、私だってまだ気持ちはあるけど、遠距離ではこの先続けていける自信もない。面倒臭い女になろうと素直に吐露すれば結末は変わったのかも。
しかし、二人はそれができなかった。
自分の気持ちに手一杯で、これ以上苦しい思いをするのは怖かった。任務や作戦についての口論はできても、情を絡めた喧嘩はどうやってすればいいのか分からなかったのだ。
このままサッパリと別れるのがオトナなのかも。初恋は実らないとよく言うし。……
若さゆえ短絡的な解決へ逃避し、こうして二人の関係は幕を閉じた。
初めての破局は、サボの心にそれなりのキズをつくった。
彼は決して泣かなかったけど、落ち込んでいる空気は隠しきれておらず、コアラはパンケーキやラーメンをひたすら奢り、ハックは延々と鍛錬に付き合った。ドラゴンさんはすれ違いざまにわしわし頭を撫でた。
そうしてサボは周りにちょっとずつ肩を叩かれ、ナマエもまたサボの知らないところで周りに励まされ、若人たちは経験という砥石で磨かれていく。
酸いも甘いも知って、彼らは大人になっていったのである。
***
サボは引くほど呑んだくれていた。
背骨がアルコールでほぼ液状になってしまって、バーカウンターに半ば突っ伏す体勢になっている。しかしまだ酒を飲む意志はあるので右手にはしっかりと大の樽ジョッキが握られていた。ジョッキを支えにしてなんとか完全に伸びないでいるだけだ。
「長い話だったが、これで全部だ」
サボは深く首を垂れていて、ほとんど天板に話しかけているようだった。そのすぐ隣の席で長い脚を組んだベティは、正面を向いたまま「ほう」と一言、涼しげにタバコの煙をふいて応えた。
ここはつい一昨日、東軍の支援を受けて長きに渡る悪政を跳ね除け、自由を勝ち取った島だった。国は無くなり、ここにいるのは笑顔と誇りと希望に満ちた人間たちだけである。島で一番大きなこの酒場にて、祝杯は明日の夜まで続くという。
別の任務に近くの海を航行していたサボは、祝いの酒と食糧を持ち寄るついでに今回の活動報告を聞いたり情報交換をしたりするために、急遽予定を捻じ曲げてここへやってきた。
より正しく言えば、そういった真面目で公明正大な目的が半分、もう半分は淡い期待と下心であった。
前者の目的をあらかた果たし、酒も進んだ頃。サボはバーカウンターでスコッチを飲むベティの隣に腰掛けた。
「ベティ、ちょっといいか」
「なんだサボ。ずいぶん飲んでるじゃないか」
「そりゃ、まあ……。ンン゛ッ…、えーと、これからするのは仕事の話じゃないんだけど…聞いてくれるか」
そうして始まった話は冒頭の話だった。サボに初カノジョができてフラれるまでの長いようで短い話。複雑なようで簡単な話。さすがにセックスの部分は多少割愛したが、どれだけサボが彼女にメロついていたかはじゅうぶん伝わったはずだ。
サボは話している間もばかすかジョッキを空けていたせいで、ベティの隣に座った時点では半ゲル状だった背骨も話が終わる頃にはすっかり液体になっていたのである。
マ、こんな野暮ったいティーンの恋愛話など、酒の力を借りないとまともにできるわけがないのだ。
「……ナマエは、元気か?」
話し終えたサボは痺れを切らして聞いた。
昔話を聞かされただけのベティはつまらなそうにツンと前を向いたまま、なんの感想もくれない様子なので。
ベティは頼り甲斐のある女だが、しかしそれと同じくらい軍人然とした厳しい女である。はっきりと要件を言わず、そちらが察してくれとばかりに漫然と頼ろうとしてくる者にはにべもない。
「ナマエ?元気さ。いつもひとにやさしく、素晴らしい働きをして、頼もしい戦士だ。いい女だな、アイツは」
「そうか……」
「お前は新しい席をもらったそうだな。なんだった、参謀総長だったか?サボ」
「ああ。まだ色々まとまっちゃいないが…とにかく情報戦だ、忙しくなりそうだよ」
「そりゃそうさ。実質ドラゴンの次席だからな」
「よしてくれ。軍隊長たちの力も、ほかの戦士たちの力も、みんな借りてようやくって感じだぞ」
「フ、出世は男の本懐だろう。力を買われてのことだ。胸を張れ。お前なら大丈夫だ」
ベティはグラスのふちに赤い唇を引っ掛けたままハンサムに笑った。
サボは自分の左前腕に顎を乗せてその横顔をチラと盗み見る。そして、わざとだ、と心の中で少し苦い顔をする。
ナマエの話を振ったのに、サボの話にすり替えられた。彼女の話をしたいなら自分から積極的に聴き続けろということだ。酒で気持ちが大きくなっていても簡単にこの解にたどりつける程度にはサボの思考回路は冷静だった。だから参謀総長に任命されたのだろう。
マァ問題はない。最初にあれだけ恥ずかしい話をし尽くした彼にいまさら恥などないのだ。開き直って、さらに尋ねる。
「おれの名前は東軍でもよく聞くか?」
「まあな。お前の噂はよく聞くよ。良いものも、悪いものも」
「えっ…悪……!?わ、悪いものってなんだよ」
「要件人間だとか、敵の根城を全壊させただとか、やり方が雑すぎるだとか」
「あ…ああ……全部覚えがある……」
「まあ基本的にはサボのおかげで重要な拠点を制圧できたとか、でかい密売ルートを潰せただとか、良いものの方が多い。安心しな」
「ならいいけど……」
「あとは……面白いものでいうと、そうだな、男色だとか」
「はあッ!?」
「アハハハッ!」
信じられない!ありえない!とたった1秒で分かるリアクションをしてサボはベティを振り返った。その焦りきった様子に彼女は白い喉を晒して爆発的に上機嫌な笑い声を立てた。
隣で聞くには大きな声だが、この酒場の喧騒には馴染む声量だった。
「サボ。貴様、恋人はいないと事あるごとに触れ回ってるらしいじゃないか。言い寄ってくる女は掃いて捨てるほどいるだろうに……そうくれば、そういうシュミかと勘繰られてもおかしくないぞ。意外と軍人には多いからな」
「くそ……だからか、確かにたまに言われる。すげー気を遣った様子でな」
「ククク、なんと返すんだ?」
「返すも何も、こう、目を見てさ、頭をわし掴んで…ぐーっとだよ」
「最悪の弁明方法だ!」
「みんなよく理解(わか)ってくれるぜ?」
ベティは手首の付け根に額を押し当ててヒイヒイ笑った。サボは分かりやすいように再現して見せた、親指・人差し指と中指・薬指と小指の3パートに分けて大きく開いた手を引っ込める。
のちに出る「人間の頭蓋骨くらい卵みてェに握り潰せる」というおそろしすぎる発言の根拠はこの辺りの経験からきている。さすがに実際に握り潰したのは賊だけだが。
「……あっ、まさかナマエもそう、思っ、てる……?」
「さあな。フッた男のことを気にかけ続けるほど女は暇じゃない。そんな暇があればネイルカラーを選ぶのに時間をかける」
「う゛っ……」
「そもそもなぜフラれたのか、内省は済んでいるのか?」
「……うん。答え合わせはできてねェけど……」
「聞いてやる。言ってみろ」
自分で流した「フリーです」の噂が見事に裏目に出ているサボがあまりに面白く、ベティは機嫌を良くして耳を傾けてやることにした。
サボはこれから自身の傷を抉る覚悟をするために、カウンターの向こうにいたバーテンダーに「ッおかわり!」と空のジョッキを突き出した。バーテンダーはチラッとベティを見てから、無言でザブザブと彼女と同じスコッチを注いだ。ジョッキサイズで飲むものではないが、サボの様子から強い酒が大量にいるということはなんとなく理解したから。
サボは注がれた酒を大きく喉を鳴らして飲み下し、食道が焼けていく感覚を大きく息をつくことで紛らわした。ベティはわずかにサボ側に体を傾け、頬杖をついて次の言葉を楽しげに待つ。
「デッ……デリカシーがねェから」
「具体的には?」
「お、思ったこと、すぐ言っちまう」
「そんなことないだろう?サボは思慮深い方だ。考えなしのバカでもない。大事だと思うことこそ多角的に見て考えて言葉を選ぶ人間だ」
「そ、その範囲が限定的なんだ。会議や作戦にはできるけど、その…日常的な部分というか……おれの意識の中で素になる部分になると、……途端にダメ、なんだ」
「たとえば?」
「……よ、余計なこと、とか、無意識に言っちまってんだと、思う」
「『思う』?ずいぶん控えめだな。内省できているんじゃなかったのか?まさか何を言ったらデリカシーがないのか理解できていないのか、このたわけ」
「ううう……!コアラには散々そう文句を言われてきた……!」
「コアラ、コアラね……フン、コアラと付き合いたいならそれでいいんじゃないのか?」
「〜〜……ッ!」
ベティは新しいタバコにシボッ!とオイルライターで火をつけて、斜め下に煙を吐き出した。
サボはこの数分にも満たない地獄の口頭試問に体感5リットルの汗を掻き、ジョッキの酒はすでに半分にまで減っていた。もはや酒の刺激がないと息もできなかったからだ。それほどまでにベティの試問はサボにはよく効いた。
「まあいい、よく話してくれた」
「……」
「サボ」
「……はい」
「0点だ」
「…………」
容赦なく落第点をつけられ、サボはゴチ…と天板に額を打ちつけて撃沈した。
ベティはそんなサボから視線を外して、体勢も正面に戻した。彼女の伸ばされた背筋は凛と美しく、一輪挿しのバラのような気品があった。
「言っただろう、サボ。お前は思慮深い人間で、考えなしのバカじゃない。サボの言葉や行動には意味がある。それは昔からそうだ」
「……」
「言いすぎなんじゃない、言わなすぎなんだ。何を考えているのかもっと話すべきだ。言葉が足りないんだよ、愚か者め」
最後につけられた言葉は罵倒のはずなのに、響きばかりはやさしかった。
「——して、なぜナマエの皿に肉を置いたんだ?」
「え?」
「食事のたびに必ず肉や魚を置いていっただろう。なぜだ?」
「に、……え?あ…?」
「答えろ」
ピシャリと言われ、サボは思わず慌てて体を起こした。先ほどの声とは打って変わって、ベティの声は硬質で尋問に似た色があったからだ。
ベティはいま、サボとナマエが付き合っていた頃の話をしている。そして当時取った行動の意味を問うている。サボは酒漬けの脳みそを必死に動かして、なんとか答えをまとめる。
「えと、少しでもメシ食ってもらいたくて」
「太ってほしかったと?」
「太……う、うん、そうだな、太ってほしかった」
「細身な体に不満があったと?」
「ふっ、不満なんてバカな!そんなんじゃねェよ、あるわけない!ただ…本当に細くて、あ、あいつ、すげー細かったんだ。体、ぜんぶ!腰なんかこんなんだぞ!?」
「細くちゃ悪いのか」
「悪かねェけど……腹とか腕とか、おれいつか折っちまいそうで……おれ力加減バカだし」
「……それで、ナマエに肉がついて喜んだわけか」
「え?あ、ああ……うん……」
「ベッドの上でそれを?」
「ベッ……、う、そう、だったかも…あれ、おれそんなこと言ったかな……」
「このバカタレ。途方もない阿呆め。いっぺん死ね」
「ええ!?」
ベティは物凄い勢いでサボを罵倒した。
傷心の当時のサボを励ましたのがコアラやハックだったように、当時のナマエを励ましたのはベティやあひるだった。だからベティは彼女がサボの何に傷ついたのか知っていた。
当時、ナマエはサボが自分の体に満足していないのではないかと不安を抱いていたのだ。
初めての夜、行為の最中のサボは恐ろしいほど無言だった。最低限の言葉はあれど、基本的には黙々とキスや愛撫が続けられた。しかしぎこちないなりに、痛くないように、負担がないように気遣ってくれているのは分かった。ドロッととろけたぼんやりとした眼差しが退屈や無関心とは正反対の懸命を意味していることも。
は、初めてだもんね……と不安と緊張と多幸感の中、ナマエはそんなサボを受け留めたのだ。
だが翌日。
「やる」
「え?うん…?」
サボは当たり前のように自分の皿から手付かずのミートボールをコロンと分けた。
なに?と聞きたかったが、目の前に座っているサボはミートボールを分けたことなどもう忘れたかのように食事を再開している。その姿を見ると、ナマエはなんだか黙ってしまった。情事の翌日にいつも通りの会話をするのは、乙女の恥じらいが邪魔をして彼女にはなかなか難しかったのだ。
だからハテナを浮かべながらも、ナマエは小さな口でサボがくれたミートボールをちまちまと食べた。
そして、サボは食事のたびに肉や魚を寄越すようになった。通路ですれ違えば慌ててポケットをひっくり返して、たまたま持っていたキャンディひとつでも「やる!」と渡された。おやつの時間ともなれば甘味まで。相変わらずハテナを大量に浮かべながらも素直に受け取る彼女に、サボは真面目な顔で「ヨシ」とひとつ頷いてそれきりだった。
このように親鳥が雛に餌を与えるように、サボは彼女に食糧を与え続けた。
このような給餌の一方で、夜伽のサボは相変わらず無口だった。
行為中の会話は控えめで、でも手つきだけは常にやさしかった。しかし胸はあまり触らない。体をほぐすためにある程度触ってくれるが、消極的だった。
その違和感は回数を重ねれば確信に変わった。確信に変われば、当然不安が湧いた。
確かに私の胸は大きい方じゃない。もしかしたら、サボは私の体に満足していないのかも。触っても楽しくないのかも、だから——……最近やたらと私にものを食べさせるのはそういうこと?太らせて胸も大きくさせようとしてる?……いやまさか。でも、じゃあ、なんで?…あ、そういえばご飯くれるようになったの、初めてした次の日からだ。……
不安は疑念に化けて、乙女の心を簡単にブルーにした。しかしこんなことを聞けるわけもない。もし素直に真相を尋ねて「そうだよ」と言われたら立ち直れない。初恋の男の子にバストサイズでジャッジされていたなんて思いたくない。たとえ、たとえそうだったとしても、こんな遠回しな方法で不満を解消しようと画策されているとしたら。
「……」
デリケートな悩みを一人で抱えた彼女は、結局考えるのをやめた。こんな風にサボを疑うのは良くない。きっと私の思い過ごしだ。無理やり前向きに目を瞑って逃避しようとした矢先。
「あっ、」
ベッドの上でサボが喜色を滲ませた声をあげた。服の裾から忍び入ってきた彼の手が、ナマエの脇腹に添えられたときだった。めくれた服からはへそが覗いていて、サボの給餌のおかげで最近できた柔らかでささやかな贅肉があった。そこに、ふに、と指を沈められたのが分かった。
目の前が真っ赤になる心地だった。
「ふ、太ったって言いたいの…」
「えっ?」
サボは嬉しそうな表情のまま無垢に聞き返した。本当に喜びに気を取られて聞いていませんでした、という顔だったし、事実そうであった。
ナマエはこれに恥ずかしさと怒りと悲しさでいっぱいになり、サボの体を押し除けた。訓練の予定があるのを忘れてた、と嘘をついて部屋を出たのだった。
そしてその翌日、サボに別れを切り出した。
ベティはこうしたナマエ側の事情を知っていた。そしていま、サボ側の言い分も聞き、ベティの中で状況の擦り合わせができた。
その結果、この男の言葉の足りなさ・感情を出すタイミングの悪さ・数年かけてたどり着いた0点回答に呆れ返って。
「私が世界の司法を司る身であれば、貴様のためだけに新たに死刑法を作っているところだ」
「すげー怒ってる……!」
心からの罵詈雑言が出たのだった。
話し合わなかったという点では双方に非があるものの、細っこい彼女の体を思ってとはいえ、一方的に飯を与え続けて太ったら喜ぶなんて、貴様、おのれ。といった具合だ。世の乙女がどれだけ必死に自分で一番と思えるプロポーションを保つために努力しているのか分かっているのか、と。
「なぜせめて睦言のひとつも言ってやらなんだ。どんな気持ちで女が好いた男に体を開いていると思う!」
「お、おれだって必死だったし、…そのっ、すげーかっこ悪いけど余裕なかったんだよ!毎回死ぬほど緊張してた…」
サボは目を逸らす。情事の際の心境を話す恥ずかしさというより、この期に及んで言い訳をしているようで気まずかったのだ。
ベティは不機嫌極まりない面持ちではあるが、ひとまずサボの言い分も聞いてやることにする。言葉足らずがこの男の長年の欠点なら、まだなにか言っていないものがあるのだろう、と。
ベティが聞く姿勢をとってくれたので、サボはグッと残りの酒を煽ってえいやとすべてを話した。
初めての夜以降もサボが無口だったのは、前述の通り、シンプルに毎回ありえないほど緊張していたからだ。そして、その緊張の理由は、目の当たりにするナマエのかわゆさに毎回新鮮に感動していたことも大きかったが、やはりうっかり殺してしまいそうなほどのその華奢さにあった。
決して彼女を傷つけてはならぬと、サボは毎度神経を尖らせて己の本能的性衝動と戦っていたのだ。おっぱいなんて視覚的破壊力の最高峰だ。柔らかでまっちろなおっぱいなんか自由に触ってみろ、そして可愛い桃色の声なんかで喘がれてみろ。大暴走は必至である。ただでさえ竜爪拳を習い出してから握力は右肩上がりで、自分の手はほぼ凶器なのだ。性器なんてなおのこと。常に医者並みの集中力が求められた。
だから、優雅に睦言を囁いてやれる余裕は16のサボにはなかった。
そんなもん、カノジョのおっぱいなんて触りたいに決まっている…十代の健全な男子なのだ……しかしそんな我欲は二の次にして、目の前にいる大事な女の子をいかに傷つけず気持ちよくしてやれるか、それだけがサボにとっての最優先事項で最大の関心事だったのである。
「は、話せるかよ、こんなかっこ悪ィ話……」
サボは話しながら、どこまでも青臭くてダサい16の自分にメッタ刺しにされていた。黒歴史だし、墓まで持っていきたいエピソードであった。穴があったら埋まりたくて仕方ない。あまりのダメージについにバーカウンターに完全に突っ伏してしまって顔も上げられない。というか最後に煽ったトドメの酒でサボの背骨はすっかり液体になって半分ほど気化してしまったため、もう体を起こすのは不可能だった。どうようもなくなって、辛うじて握っているジョッキをこめかみに押し付けてその冷たさだけで意識を保っていた。
「……そこまで苦悩していたとは。すまん、デリカシーがなかった」
「……いーよ。ダセェのは本当だし……」
人知れず漢気を見せ続けた男が、せめて躊躇いなく触れられる程度に肉をつけてくれと切に願った末の行動と知れば、もはやベティもナマエも怒りはしなかった。それを先に言えよ、と詰るのも酷である。
ベティは長い脚を組み替えた。バーカウンターの足元の壁につま先が当たってコン、と軽い音が鳴った。
呼吸がしづらかったのか、サボは片頬をカウンターにペタッとつけて顔を横に倒した。金色の波打つ髪が重力に従って流れる。
「おれさぁ、まだ好きなんだ、あの子のこと」
忘れらんねェ…、とちいちゃな声が酒場の喧騒にぽつねんとまろび出る。
心を千切ってつくったような、体の芯から生まれた本物の言葉だった。
「情けない話、未練たらたらだよ。もうずいぶん会ってないのに、まだ夢に見る」
サボは目を閉じていて、寝落ちする寸前の人間の喋り方だった。だからこそ、いま言っている言葉がすべて嘘偽りのないものだと分かる。
「おれ、照れてまともに顔見れないことが多かったから、そういう時はナマエの耳たぶばっか見てたんだ。耳の付け根あたりに小さなホクロがあってさ、……好きだったなァ……」
「……サボ」
「んー」
「明日、ナマエと話してみたらどうだ」
「……会ってくれっかな……」
「大丈夫さ。たくさん話すといい。お前らはよく似ているからな。今なら同じくらい賢い話し合いも、同じくらい馬鹿な喧嘩もできるはずさ」
「……ベティが言うと励まされるな」
「フ、それを期待してこの席に来たんだろう?」
サボは「バレてた」と一言ふにゃっと笑って、いよいよ撃ち殺されたように眠りに落ちた。
ベティはやさしく微笑んで彼の手からジョッキを取り上げ、自分のグラスを静かに傾けた。そして、コン、とつま先で足元の壁を軽く蹴る。
「男で泣くのはよせと言ったが……どうする?耳たぶにまで恋をしてくれる人間は稀だぞ」
「……」
バーカウンターの向こう側、その振動を壁越しに受け取ったナマエは、おずおずとバーカウンターから顔を出した。
その顔は真っ赤で、眉をハの字にして非常に困り果てた顔をしている。
カウンター内で酒の提供を手伝っていた彼女は、千鳥足でこちらにやってくるサボの姿に気づいて慌ててその場にしゃがんで隠れたのだ。三角座りで両手で口元を押さえ、じっと息を殺し……ついぞ逃げるタイミングを逸して今に至る。
つまり、サボの熱烈で赤裸々な告白の数々を、彼女はこのバーカウンターの下で丸ごと聞いていたのだ。
目の前でスヤスヤ眠る元カレに、ナマエはどうしようもなくドキドキしていた。何を隠そう、彼女が長年愛用している手帳には、綺麗に折り畳まれたサボの手配書がずっと挟まっているのだ。
彼女もまたサボが笑う時にできる目元の皺を忘れたことはない。
「ナマエ、明後日にはこの男をドラゴンに返さないとならないんだ。この機をゆめゆめ逃すんじゃないよ」
「……はい」
ナマエは酒で赤らんだサボの頬をそっと撫で、酔って全部忘れていたらどうしよう…と一瞬不安になったが。
そしたら今度は私から赤裸々に話そうと思った。
話したいことは、たくさんあるのだ。
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