キューピッドは赤いコート


 
⚠︎微ホラー
 
 
 
 
 ソレはいつも自動販売機の横に立っていた。
 煌々とした人工的な白い光がアスファルトを照らしている。その明かりを半身に受け、輪郭だけが浮かび上がっているのだ。
 夜分、この道はほぼ人通りがない。
 ソレはいつも肩を丸め、深く項垂れている。
 首だけがカクンと落ちるように直角に曲がっている。常人ならやらない深さで折り曲げられた首は異様である。
 好き放題に伸びた髪は手入れがされておらず、その顔に垂れて表情を覆い隠している。
 梅雨明け間近の蒸し暑い時期だというのに、服装はグレーの冬物の上着だ。濃いグレーの上着にズボン、靴……年季の入った衣服はどれも常闇からぬるりと生まれ出てきたような湿っぽさがあった。
 わずかに体を傾けたソレが、毎夜、ナマエの帰路の途中に突っ立っているのである。

「…………」

 ナマエはその自動販売機が近づくと、少しだけ歩調を早める。
 この手の怪異は、誰かが気づいてくれるのを待っていると聞く。見つけて欲しくて立っている。自分を助けてくれる相手を求めて永遠の待ちぼうけをしてるのだと。
 だから彼女はソレに気づいたと気づかれてはいけないと固く誓って、なるべく何でもない風を装って通り過ぎるよう努めているのだ。
 自動販売機に差し掛かる。
 ナマエが自動販売機の明かりにくっきりと照らされる。
 自動販売機とソレを素通りして、真っ直ぐ歩いていく。
 すると。

「…………」

 ズリ、ペタ…ズリ……。と背後から靴を引きずるような音がする。そして「ギィエエェエェーーー……」と鳥を絞め殺したような奇声がつづく。
 ソレはいつも奇声を上げながらナマエの後ろをついてくるのだ。
 彼女は体中に鳥肌を立てて、しかしなるべく歩くスピードを一定にたもったまま家へ向かう。
 足が悪いのか靴を引き摺る音は規則的で、奇声以外の言葉はない。しばらく歩き続けて3つ目の十字路を曲がる頃には十分距離を稼いで引き離すことができて、靴音も奇声も聞こえなくなる。
 本当はすぐにでも走り出したいが、ソレも走って追いかけてきたらと思うと怖くてできない。
 振り返るのも恐ろしい。振り返った先、鼻先数センチにソレがいる光景を想像して口の中がカラカラに渇く。
 とにかく家に帰りたい。安全な我が家に逃げ込みたい。
 その一心でナマエはショルダーバッグの持ち手を強く握り、呼吸を浅くして足だけを懸命に動かすのだった。

「……っはぁ、は、…はあ……」

 家に着いて扉を閉めた途端、ナマエは玄関先にずるずると座り込んだ。
 肩にかけたままのバッグの中でスマホが震える。
 見れば恋人であるエースからのメッセージ通知であった。
 『明日会えそう。メシのあと、新居見に行ってもいい?』という何でもないメッセージが強烈に日常を感じさせた。

「うー……っ」

 エースの名前を見ただけで涙が出るほど安心し、スマホにおでこをくっつけてナマエはしばし沈黙する。
 ナマエがここに引っ越してきたのはつい1週間前だ。別支店へ異動になって通勤が大変になったので引っ越すことになったのだが。
 あの怪異は初めての帰り道からずっといる。毎日いる。毎日あそこに立っていて、なぜだか彼女の後ろをついて歩く。
 彼女が越してくる前からずっとあそこにいたのだろう。
 物件を決める前に、夜道も確認するべきだった。まさかあんなのがいるなんて。
 長く深いため息をついて、彼女はようやく顔をあげ……とりあえず、エースからのメッセージに『いいよ』と、返信をぽちぽち打ったのだった。


***


 翌日、仕事終わりのエースと合流し、二人は食事に出かけた。
 最近はお互いに仕事が忙しく、ナマエが引っ越してから会うのは今日が初めてだった。
 学生時代から交際が続いているエースとの時間はいつも通り楽しくてあっという間だ。行きつけの居酒屋でだらだらと愉快に飲み、やはり彼といると落ち着くなあとビールジョッキに口をつけながらほっこり思った。
 そうして店を出て。

「んじゃ。ナマエの新居でも拝みにいこうかね」

 と、エースが居酒屋の軒先でぐーっと伸びをしながら言った言葉で「アッ」と思い出す。
 体に心地よく回っていたアルコールがつま先に向かってザーッと落ちていく感覚がする。脳みその奥でキーン…と音がして、自動販売機の蛍光灯が頭の中で明滅した。
 明滅する影の中には、アレがいる。

「どうした?」
「えと…」
「あ、分かった。部屋散らかってんだろ。いいぜ、いまさら気にしない。2枚でも3枚でもパンツ干しとけよ」
「ちがくて……」
「えー……?……コンビニ寄った方がいいか?」
「別に切らしてないし……」
「じゃあなんだよ」

 エースは首を傾げ、急に顔を青くしたナマエへ向き直る。
 彼女はなんと説明したらよいものかと迷ったが……これ以上ひとりでこの恐怖を抱えていることもつらくて、「あのね…」と口を開いたのだった。



 ナマエの最寄り駅に着いた。
 エースには移動の電車の中で「絶対に反応しないで」と釘を刺しておいた。歩き続けていれば追いつかれることはないから、と。
 彼女は明日からもこの道を通らなければならない身だ。アレを刺激したくなかった。実害が出ていない以上、じっと耐えて済むなら、今はそれがいい。
 エースは想像以上に怯えて話す彼女を見て、ひとまず彼女の指示に従うこととし、とりあえずその怪異とやらを見てから考えることにした。
 改札を出た途端、顔をこわばらせたナマエの不安に気づいて、エースは彼女の手を取った。

「……ありがとう」
「ン。行こう」

 例年、エースの体温が高いせいですぐに汗ばむからと手を繋ぐ頻度が減る季節だが、今日ばかりはナマエもその手をすんなりと受け入れた。
 いつもは一人の道だが、今日は隣にエースがいる。
 沈黙が流れないよう、エースは話を振り続けてくれた。適当に話していれば幾分か緊張がほぐれる。いつもより半歩ほど近い距離で歩いていたので肩や二の腕が何度も触れた。
 そうして、件の自動販売機が近づく。
 ソレはやはり自動販売機の横に俯いて立っていた。
 彼女の手にわずかに力が入ったのを察し、エースは自分が自動販売機側になるように立ち位置を交換して手を繋ぎ直してそのまま歩いていく。
 自動販売機に差し掛かる。
 エースが自動販売機の明かりにくっきりと照らされる。ナマエは彼の体で幾分か影になっていた。
 自動販売機とソレを素通りして、二人は真っ直ぐ歩いていく。
 すると。

「…………」

 ズリ、ペタ…ズリ……。と背後からいつものように靴を引きずるような音がする。そして「ギィエエェエェーーー……」と鳥を絞め殺したようなあの奇声がつづく。
 ナマエの心臓は恐怖でキュー…と縮み上がる。
 エースは彼女の言いつけ通り、反応を示さなかった。
 確かに異様な姿のソレを見て内心ウワッと思ったけれど、表情には出さないし、歩調も緩めない。通り過ぎざまに一番距離が近づいたときも見事に素通りしてみせた。ずっと喋って歩いてきたので、会話もそのまま続けていた。
 しかし。
 ズリ、ペタ。ズリペタ。ズリペタズリペタ……。ギィエ、エ、ェェー…。イイィーー…。
 いつもより追いかけてくるスピードが早い。奇声が近いところから聞こえている。
 靴音でそう気づいたとき、彼女の後頭部は冷たく重たくなった。
 絶対に反応するなと言ったのはナマエなのに、彼女は無意識にエースの手をギュッと強く握って肩をすくめて「は、は、」と呼吸を浅くする。
 どうしよう。今日はついてくる。どうしよう。家までついてくるかも。いやそれより、追いつかれるかも。どうしよう。どうして。なんで。
 アスファルトをジッと見つめたまま、恐怖で染め上げられた脳でナマエはガタガタ考える。
 パチン。と音がした、途端。

「ウブッ、ァ…!」

 突如振り返ったエースが、ソレを勢いよく殴った。
 彼に殴られたソレは、その男は、あっけなくひっくり返って地面に倒れ込んだ。
 男の手から落ちた折りたたみナイフを蹴って遠くに弾いてから、エースは男の胸ぐらを掴んでもう一発顔を殴る。
 呆然とするナマエをよそに、エースは男をうつ伏せにして両腕を背中側に捻り上げ、体重をかけて押さえ込む。その体勢のまま速やかに通報。スマホを耳に当てて首を伸ばして周りを見渡し舌打ちをした。

「あ、すんません。刃物持ってた変質者捕まえたんで、ひと寄越してください。あー…えー、っと……ナマエ。ワリ、ここの場所説明してくれるか」
「え、あ…う、うん……」

 エースからスマホを受け取り、ナマエはお巡りさんに現在地の説明をする。すぐにこちらへ向かってくれるらしく、電話を繋いだまましばらく犯人を取り押さえててくれとのことだった。

「ったく、ホンモノじゃねェか……」

 エースが押さえつけているのは、生きた人間だった。
 季節外れのグレーの上着を着て、年季の入ったズボンと靴を身につけた男だ。ザンバラ髪の隙間から焦点の合わない濁った目が見える。黄ばんだ歯を食いしばって、口の端に泡を溜めてしつこくウーッウーッ唸っていた。
 ナマエはその光景に動揺しつつも、電話口で警察に現在の状況や怪我人の有無などについて答える。
 しばらくすれば、警察が到着した。不審者を引き渡し、エースとナマエは別々にその場で事情聴取を受けて、何かあった時のために連絡先を伝えて解散となった。
 ナマエの家に着いた二人は、ソファにドサッと座り込んでしばしボーッとした。

「なんつーか……おつかれ」
「……」
「幽霊よりも生きた人間がこえーってのはマジだな。マ、お前になにかある前でよかったよ」
「……う、うう…」
「ん。怖かったな、こっちこい」
「ううう゛ーー」
「うん、今日は泊まる。大丈夫だよ」
「エ゛ーズ、ごわがっだあー…っ」
「おれも内見とか付き合えばよかったな。ごめん」
「ううう」

 ナマエは心から安堵して、エースのあたたかい腕の中でグスグス泣いた。
 完全に怪異と思い込んでいたアレは生きた人間であった。近所では有名な変質者であるが、異様に俯いて立っている以外は実害がないため、地域では放置されていた男だ。
 しかし、いつどこでナマエを見つけたのか。目をつけられてしまった彼女はあの男に静かに付き纏われていたのだ。
 何時に会社を出てもあの道にいたのは、単純にあの男が夕方からずっとあそこに立って待っていたから。
 彼女の後ろをついて歩いたのは、やはり執着していたから。
 しかし声もかけず積極的に追いつこうともしなかったのは、異性へのまともなアプローチ方法を知らないから。
 毎夜毎夜、ただ彼女の後ろ姿を見えなくなるまで追いかけるのがあの男のこの1週間の生きがいになっていたのだ。
 放っておけば何年でも何十年でも続くだろうという具合の粘度のある眼差しを向けていた。
 だが今夜の彼女は、仲睦まじくエースと手を繋いで歩いていた。それが許せなかったらしい。
 ナマエの人間関係に口を出せる権利なんかもちろん持っているわけがないのに。裏切られた!と一方的に怒りをたぎらせて追いかけ、目を血走らせていつもポケットに入れている折りたたみナイフまで持ち出した。
 エースも男を一目見て「うげ、ホンモノだ」と思ったが……彼女の話では実害はない。家までついてきたことはないし、ただ道端に突っ立っていて、彼女が通り過ぎたタイミングで“たまたま”歩き出すだけ。これだけでも女一人の帰り道では十分に耐え難い恐怖だろうが、これだけじゃ警察も動いてくれないだろうなァ…と思っていた矢先の刃物だ。
 刃物を持ち出されたことでエースは一気にキレた。誰の女に手ェ出そうとしてんだ、と素晴らしい瞬発力で男をワンパンで地に沈めたのであった。
 さめざめと泣いたナマエはようやく顔を上げ、涙をぬぐって眉を下げて笑った。

「ぐす…エースありがとうね、これでもう安心だよ……」
「いやダメだろ」
「……あ、逆恨みとかそういうこと……?」
「それもあるけど。女の方、取り逃がしちまっただろ」
「……?」
「カップルなのかね、ありゃァ。そろってストーカーたァ、ちっとイカれてるよな」
「お…女……?」
「おう。赤いコートの、ギィギィ喚いていた方。男取り押さえてる隙にどっか行っちまったんだよなァ」
「…………」

 女。
 そんなもの、ナマエは見たことがない。
 ナマエが怯えていたのは、あの男だけだ。異様な角度で俯いて足をひきずって後ろをついてくる……。
 奇声をあげていたのは、男ではなかったのか?
 赤いコートの女なんて、いたら絶対に気づく。
 ナマエはぴたりと固まって、エースを見上げる。彼女の背筋は再び冷え切っていた。
 エースは、男の逆恨みも念頭におきつつ、取り逃がしたもう一人の変質者の件も懸念してこれから毎日家に送るか、いっそうちに住まわせようかと策を考えて難しい顔をしていた。

「エース……」
「ん?」
「私と一緒に住んでください……」
「えっ!おっ、おう。喜んで」

 その日のうちにナマエは荷物をまとめ、エースの家に移り住んだ。
 これが二人の同棲のきっかけであり、結婚への大きな一歩となる珍事であった。



「す、すごい話ですね……」

 二人の挙式を担当するウェディングプランナーのお姉さんは、半ば圧倒されながらこの一連の話を聞いていた。
 お姉さんは話を聞きながら取った自分のメモに目を落として、「この濃すぎる馴れ初めは、どうやってまとめたらいいのかしら……!」と真剣に悩むのであった。




◆余談。ブルックに除霊してもらう話。

 マしかし。怪異に関する不安というものは、住む場所を変えただけでは完全には晴れない。
 幽霊は人に憑いてくるということがままあると聞く。
 なのでエースは後日、弟の友達のブルックという男に連絡をとった。
 なんでもこの男、黄泉の国の人間が見え、対話したりもできるというので、一度ナマエを見てもらえないものかと。
 彼は事情を聞くと「えーっ!私もおばけこわいんですけど!?」と全力で怯えながらも、熱心に頼み込めば会う約束をしてくれた。
 面会場所に指定された場所は、ブルックのレッスンスタジオだった。
 ナマエを見るなり「アララ」と言い、背後の何もない空間に向かって「ちょっとあなたねェ」とオカマバーのオカマと同じくらい頼もしく話し始めた。
 が、しばらく話し突然「ンモー!」と憤ったと思ったら、自前のバイオリンのケースからバイオリンの弓を取り出し。

「えい!」

 と、ナマエの後ろの何もない空間をひと突きした。
 何もないはずなのに、骨を突き刺すような強烈な冷気がドウッ!と溢れ出し、部屋を一瞬にして満たす。
 彼女もエースも目を丸くし、思わず黙り込む。
 ブルックはふん、と鼻を鳴らして弓を鋭く下に振り下ろして弓に纏わりつく冷気を払ってバイオリンケースに戻す。
 それは古の高貴な剣士がやるような、刀身に付着した血を払い落として鞘に収める仕草にそっくりだった。

「ヨホホ。お話の通じない方だったので、帰ってもらっちゃいました」

 ブルックは二人に向き直ってにっこりと笑うと、胸に手を当てて紳士的にお辞儀をしたのだった。
 それ以降、ナマエは怪異の影に怯えることはなくなった。
 これでようやく本当の意味で、エースとの幸せな同棲生活がスタートしたのである。


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