ひとひらの善意
「あ、落としましたよ」
生まれもっての善性と良心に突き動かされ、ナマエは目の前に落ちてきた紙を拾い上げ、落とし主へ声をかけた。
それは下校中の道でのこと。通行量の多い駅前の道でのこと。
パッと顔を上げた先には学ランの背中があった。肩に引っ掛けたスクールバッグは豪快に口が開いていて、紙はそこからこぼれ落ちたものである。
しかし、男子はナマエの声に気付いておらず、振り返る素振りすらない。彼女は手元の紙とその背中に視線を往復させて「えっと、」と少し戸惑い。彼が横断歩道を渡り始めたのを見て「あっ」と思い。しかも、信号は点滅しだして彼が小走りになったのを見て「ああっ」と焦り。
「あっ…。あの、おと、落としましたよ、あの、」
紙を手に、その背中を追いかけた。ブルーグレイのスカートをひらめかせ、ナマエも横断歩道を急いで渡る。
男子は一向に振り返らないばかりか、歩幅も歩くスピードも違いすぎて彼女はついていくのがやっとだった。彼が2歩進むうちに彼女は3歩小走りで進まなければならない。
加えて、彼は人混みを歩き慣れていて人の合間をスルスルとうまく抜けていくが、背後の彼女は障害物に出くわす度にたどたどしく避けてタイムロスが発生。
みるみるうちに息があがって「あの、」「すみません」「落とし物…」という声は小規模になる。
男子は依然として前しか向いていない。その上イヤホンを耳に突っ込んでお気に入りのロックバンドの楽曲を爆音で流している。よって、背後のちまこい娘の存在に気付くわけがなかったのだ。
その光景は親鴨についていく子鴨のようであり、野良猫を追跡する幼児のようであった。
「あっ……あのっ」
「おわ、」
ナマエが追いかけ始めて約8分、声をかけ続けて12回目。
男子はようやく足を止めて振り返った。ついに彼女が彼のスクールバッグをくん、と引っ張ったのだ。結局物理で止めるしか道はなかった。
ナマエがこの強硬手段に出たのは、男子の足が明確に繁華街の入り口へ向かっていたからだ。
二人がいるここは、ファストフード店やゲームセンター、大型ディスカウントストア、ドラッグストアなどが立ち並ぶライトなエリアである。だが、2本も通りを過ぎれば、キャッチが呼び込みをする居酒屋やギラギラピンクの店、油ぎった煙が機関車のようにもうもうと換気扇から排出される飲食店ばかりが立ち並ぶ。
つまり、お嬢様学校に分類される女子校に通うナマエには、途轍もなく縁遠い場所ということ。
そんなエリアに入る前になんとか用事を終わらせたい、その一心で彼女は見ず知らずの男子の鞄に手をかけたのだった。
男子——もといエースは、振り返った先にいた小柄なセーラー服姿のナマエを見て真っ先に「迷子か?」と思った。
だって彼女は友人知人でもないし、ナンパ目的のギャルでもないし、婦警でもない。なにやら息を切らしていて、必死そうで、困っている感じ。誰でもいいから道を尋ねたかった人、と考えるのが最も自然なくらい、エースには縁もゆかりもなさそうな雰囲気の女である。
なので、彼は心の底から「なんだろう?」という顔をして、ひとまずイヤホンを外して音楽を切る。そして、20センチ以上低い位置にある丸い頭を見下ろし、彼女の出方をうかがっている。
「これ、落としましたよ……」
「……えっ!」
よれよれのナマエが差し出した紙を見て。エースは肘を真横に上げ、脇を覗き込むようにしてスクールバッグを確認した。
ぱっくりと口が開いた鞄に、エースは己の過失と彼女の親切を瞬時に理解。オーバーリアクションぎみに「うわ、わざわざすんません」と素直に謝り、なんのプリントだか知らないが、せっかく届けてくれたのでとりあえず受け取る。
学校行事の案内のようなプリントだったらあとで捨てようと内心思っていたが、紙の内容を見てエースは再び「あっ!」と声をあげた。
「まっ……じで助かった。拾ってくれてありがとうございました」
「あ…いえ……お届けできて良かったです」
「おれ授業サボりすぎて、これ出さないと単位もらえねェんだ。本当にありがとう。おかげで留年しなくて済む」
「りゅ……そ、そうなんですね……」
それは数学の課題のプリントであり、彼の今後に大きくかかわるプリントであった。首の皮繋がったー、と嬉しそうにペカペカ笑ってエースはプリントを鞄にしまった。今度こそ鞄の口もしっかり閉める。
たかが紙切れ一枚。赤紙でもあるまいし、見ず知らずの他人が落とした紙など捨て置けばよいものを。それでもナマエがこうして一生懸命追いかけて届けてやったのは、このプリントに「要提出」と赤ペンででかでかと書かれていたからだ。その文字には鬼気迫るものがあったし、わざわざ丸で囲われ強調されていた。
教師にここまで書かせるとは、なにか重大な課題なのだとさすがに彼女にも察しがついた。
ナマエは「役に立てて良かったな」と思う一方で、「早くここから立ち去りたいな」とも思う。ここがあまり馴染みのない享楽的な区画だったのもあるが……何より、相対してみるとエースは見た目よりも大きく見えて、ちょっと怖かったから。
彼の黒髪は人混みから頭ひとつぶん飛び出ていたので、背の高さは追いかけている時から何となく分かっていたけれど、体の厚みが違うのだ。電車で見かける他校の男子は身長があってもどこかヒョロッとした印象を受けるのに。
なにかスポーツでもやってるのかしら…とナマエは思いつつ、ぺこっと頭を下げてそそくさと去ろうとした、が。
「礼をさせてくれ。おれのバイト先、ここから近いんだ。なにか奢るよ!」
エースはペカペカの笑顔で「こっち」と前方……すなわち繁華街を指差し、さっそく歩き出してしまった。ナマエは立ち尽くして、右を見て左を見て……エースを見る。
彼は先ほどと同じように前しか向いておらず、快活な足取りでまたも彼女を置き去りにしつつある。彼女がついてきていないことには1ミリも気付いていない。
エースとナマエの距離がぐんぐん開いてゆく。彼の後ろ姿をほかの通行人が隠してゆく。
赤紙でもあるまいし。踵を返してソッと立ち去ってもよいものを。しかし、生まれもっての善性と良心は不義理を良しとせず。
結局、ナマエは困り眉のまま、セーラー襟をはためかせてエースの大きな背中を追いかけてしまったのだった。
***
「どれでもいいぜ。奢りだ」
「えっと……」
「多かったら残してもいいし。おれのおすすめはこの赤ってやつ。辛くて旨い」
エースが千円札を投入すると、券売機のすべてのボタンが光った。
店内の入り口横に設置された券売機の前で、ナマエは迷い、というかほぼ困り……でも斜め後ろにはエースがニコニコと食券の購入を待っていて、おうちに夕飯があるので食べませんとは言いにくい。彼女は迷いに迷って一番シンプルな「ラーメン」のボタンを押した。
エースは受取口に出てきた食券と釣り銭を取って、再び千円札を券売機に投入した。またすべてのボタンがパッと光る。ナマエがキョトン…としている後ろで、エースは待ちの姿勢に戻る。5秒黙り込んでから、彼女はゆっくりと不思議そうにエースを見上げた。
「……?」
「え?ライスとかトッピングとか要らねェの?」
「えっ、い、いいです、大丈夫です」
「いや遠慮しなくても」
「ほ、本当に。本当に、大丈夫ですから」
「そうか……?」
追加メニューを選ばせてくれる気だったらしい。エースはナマエの返答にちょっと驚きつつ、券売機から千円札を回収して財布にしまった。
それから、カウンターの一番端の席へナマエを案内する。彼女は固定式の丸椅子にチマ…と所在なさげに座り、スクールバッグを抱きかかえるように膝の上に乗せた。
「ちょっと待っててな。着替えてくる」
そう言い残して、エースは客席脇の従業員用通路の向こうへ消えていった。
エースは店に入って早々、「お疲れさまでーす。この人、おれの連れなんでおれ作りまーす」と厨房のスタッフたちへ断りを入れていた。すぐに先輩と思われるスタッフから「あーい」とも「うーい」ともつかない曖昧な発音で気だるげに了承があったので、彼女はいま、ポツネンとエースを待つしかなかった。
エースのバイト先は、家系ラーメンの店だった。
店内は豚骨醤油の豊かな香りで満ちている。テーブルや壁紙は赤と黒を基調とし、壁に貼られたメニューの類はすべて筆文字で雄々しい。ディナー帯には少し早い時間なので客の姿はまばらだが、店内には案の定男性客の姿しかない。
つまり。お嬢様学校に通うナマエには似ても似つかぬ区画の、似ても似つかぬ店に、彼女は見事招待されてしまったわけである。
せめてもの救いは、客たちは目の前のラーメンに真剣で、彼女に意識を向ける者がいないことだ。明らかに浮いている自分に、ナマエは居心地の悪さを抱えながらも、初めてのザ・野郎向け家系ラーメン店が物珍しくて店内をチラチラと見回していた。
「お待たせ」
「!」
程なくして、学ランから黒のTシャツに着替えてきたエースがカウンターの向こう側に現れた。先ほど購入した食券を千切って半分を彼女へ渡し、「んじゃ、ラーメンのお好みありますか?」と店員らしくオーダーを尋ねる。
「このみ?」
「ん。これ」
「あっ、えと、……普通でお願いします」
「全部?」
「は、はい。ぜんぶ」
「かしこまりましたー」
ナマエはエースが指差して教えてくれた卓上のポップをまじまじ見て「へー」と口を丸く開けている。麺の硬さとか選ぶんだ…と初めての注文システムを学ぶ姿はほとんど社会科見学のようである。
その初々しすぎる姿に笑いを噛み殺しながら、エースはさっそく調理に取り掛かる。
そうして出てきた一杯に、彼女は慄いた。
「おおお……」
おそらく彼女がこれまで生きてきた中で一番巨大なラーメンだった。すり鉢かな?と思うくらいずっしりと重たい器に麺と具材がこんもりと盛られている。
ナマエは目をパチパチさせて湯気の立つラーメンを見つめた。
「美味いから食ってみ」
「は、はい」
「味玉いるか?」
「いいです」
「追加のチャーシューは?」
「大丈夫です」
「……ほうれん草なら?」
「お気持ちだけで……」
「うーん、欲しくなったら言えよな」
巨大で慄くボリューム感だが、確かに食欲をそそる香りである。
ナマエはなにだかドキドキしながらパキン…と割り箸を割り、「いただきます」と人生初の家系ラーメンに果敢に挑んだ。
「おおお……」
おそらくエースがこれまで見てきた中で一番トロい飯の食い方をする女だった。絶対に汁はねをしてはいけない戒律でもあるのかな?と思うくらいトロい……マァ正しく言えば、お上品な食べ方だ。
ナマエはズゾゾと豪快に麺を啜ることなく、丁寧にチマチマ食べている。出来立てのラーメンが熱くて食べづらいという点もあろうが、単純に彼女の一口は小さく、一度に箸で持ち上げる麺が少量なのだ。麺にふうふう息を吹きかけて冷まし、一生懸命に・真面目に食べている。
おそらく彼女が4分の1を食べ進める頃には伸びた麺が2倍になって、食べ始めた当初よりラーメンが増えるというミラクルが見られることだろう。
しかし、味は気に入ったらしく、一口目の直後に「美味しい…!」とキラキラした顔で呟いて以降、箸が止まることはない。見る人によってはイラつくほどのスローペースだが、彼女なりにエースが作ってくれたラーメンを堪能していることはよく分かる。
「悪い、うち紙エプロンとかはねェんだけど……取り皿いるか?」
「んぐ…も。もらえますか……」
「あいよ」
ナマエは油でテカる唇にゆるく握った拳の側面を当て、一生懸命に咀嚼しながら言った。頬はほんのり桜色になっている。
エースはこの店に唯一ある子供用取り皿を出してやった。
けろけろけろっぴがプリントされたそれは、店長の友人が完全なるネタで開店祝いとして贈ったものだ。いつか小さい子でも来られる店になるといいね、と願いを込めて。歓楽街のすぐそばに居を構えた、ザ・野郎向け家系ラーメン店と知っていながら寄越してきた。店長はゲラゲラ笑って友人の頭を引っ叩き、しかし今もこうして店の食器棚に一応置かれている。
マァ、客に出すのは今日が初めてだが。
「ほい」
「わ、ありがとうございます」
「チャーシューいるか?」
「いらないです」
ナマエはほくほくと取り皿を受け取り、いそいそ麺を取り分ける。熱さが緩和されて食べやすくなるのが嬉しいようだ。熱いのが美味いのになー、とエースはカウンターに肘をついて、まどろっこしいまでのその所作を眺めて思う。マ、人の食べ方にとやかく言う気はない。
取り皿に分けたラーメンを食べ、うっすら額にかいた汗を拭ってナマエはエースを見上げた。
「美味しいです」
ほにゃっと真っ直ぐに笑いかけられ、エースも「そうかよ」とつられて笑う。
「礼になったようで何よりだ」
「お水ください」
「セルフだっつーの。水差しあんだろ、そこ」
「あ…す、すみません」
「アハハ。味玉いるか?」
「……どれくらいの大きさですか?」
「こんくらい」
「ム……」
「あー、半分、半分に切ってやっから」
「!ありがとうございます」
元々半分に切られているので結局4分の1サイズになったちっこい味玉が彼女のラーメンに追加される。
腹が膨れていくにつれて警戒心と緊張が解けたナマエは、他の客と同じように目の前の一杯に真剣になっていった。
その様子を見てエースも自分の仕事に戻っていった。ちょうど先輩に「いい加減はたらけ」の意を込めてケツに軽い膝蹴りをされたところだったし。
しかし。彼女が巨大ラーメン(彼女比)の半分を過ぎ、ほかほかになった顔を手であおいでフゥと顔を上げたときである。
何気なく店の外へ目を向けた途端、ナマエはつつかれたカタツムリのようにヒュッと体を縮こまらせた。その怪しげな挙動に気付き、エースも店の外を見てみるが、特に何の変哲もない。
「どうした?」
「あ…ええと、学校の先生がいた気がして……」
「はあ?」
「……うちの学校、買い食いとか寄り道とか禁止なんです……」
「はーん……」
「見つかったら大変……」
困り眉でしおしおとつぶやく。
難儀な娘だ。校則をやぶっているこの状況に律儀に肝を冷やしているらしい。両脚をそろえてぴたりと閉じ、ブルーグレイのセーラー襟の胸元をキュ…と掴んで可憐な背中を縮こまらせてハラハラしているのだ。
エースにはまったく分からない心境である。
腹が減った時に飯を食って何が悪いと言うのか。エースの学校にはそういう思考回路の人間しかいないし、むしろこんな区画で教員の姿を見つけようものなら「え何、せんせー行きつけのピンサロでもあんの?(笑)」「なんか見ちゃってごめんね?プライベートなのに(笑)」「感想聞かせてよ。大人になったら参考にするから(笑)」とよってたかってイジり倒すのが常の連中である。
校則ごときにビクビクするなんて、確かにエースには分からない心境だが、彼女にとっては一大事なのだろう。
お礼のために連れてきたのに、こんなに青ざめさせては元も子もない。
何よりも、せっかくリラックスして食べていたのにもったいないなと思う。
エースは「うーん」と首筋をポリポリ掻きながら店内をぐるっと見回し、営業が落ち着いているのを確認してから。
「ちょっと待ってな」
と、小走りでバックヤードへ消えた。
ナマエはなんだろうな、と思いながら、できるだけ体をちいちゃくしてラーメンの続きを食べ始めるが、エースは思ったよりもすぐに戻ってきた。
客席側に回った彼はまっすぐナマエの背後へやってきて、バックヤードから持ってきた自分の学ランを彼女の肩にかけた。
ナマエの華奢な両肩にでっかい学ランがバサッと乗っかる。それはエースの長身を包めるとあって、ずっしりと重たい布の塊であった。
思いがけない展開に彼女は目を白黒させる。戸惑いながらも肩からずり落ちる学ランの裾が床についてしまわぬよう、慌てて胸元を手繰り寄せてエースを見上げる。
「あちーかもだけど、バレるかもってビクビクしながら食うよりマシだろ」
学ラン越しにぽんぽんと背中を叩かれる。
なるほど、これでナマエのセーラー服はエースの学ランでスッカリ隠れた。ぱっと見ただけではきっとどこの学生かなど分かりゃしないだろう。
「あ……ありがとう、ございます」
「んじゃ、ごゆっくり」
「ふふ、はい」
彼の気遣いが嬉しかった。
ナマエは学ランを肩に掛け直し、食事を再開した。エースも彼女の顔から強張りが抜けたのを見届けて仕事に戻る。
エースの学ランに埋もれながら、ナマエは身も心もほかほかにしてラーメンを食べるのだった。
「ごちそうさまでした」
「おっ、食えたのか?全部?」
「ふふん。はい、食べられましたよ、ぜんぶ。お腹苦しいですけど」
ナマエは満足げにスープだけになった器を見せた。ペーパーナプキンで口元を拭いて、器はこのままでいいのかな、と周りをチラと見ているので「こっちで片すからいいよ」とエースは声を掛けてやる。
想定通りの驚異のトロさだったが、店が混雑する時間帯の前だからセーフである。
「家系はスープまでまくってこそだが……ま、しゃーねェな」
「まくるってなんですか?」
「飲み干す、ってこと」
「…………」
「いい、いい、飲むな飲むな、やめとけ。吐かれても困る」
「なっ……そ、そんなことにはなりません」
「いやほんと、やめとけ。そもそもうちの店、中学生の女子の胃袋向けには作られてねェんだから」
「……?私、高校生です」
「えっ?」
「中学生じゃないです……さっきのプリントの問題だって解けます」
「…………マジ?」
驚かれたことに驚いて、ナマエは目を丸くしたまま、コク…とうなずく。
エースは3秒ほどフリーズし、やがて「あー……」と言葉を濁しながら斜め上を見る。
「悪い、けろっぴの皿出しちまった。次はクロミちゃんにする」
「っふふ、あはは」
「女子はクロミちゃん好きだろ」
「人によります……ふふ、じゃあハンギョドンがいいです」
「あー……あの青魚?変なシュミだな?」
「あ。でも私、さゆりちゃんの方が好きです」
「誰?」
「ハンギョドンのお友達」
「誰?」
「いつもニコニコしてて可愛いのよ」
「…………え誰?」
「上着、ありがとうございました。お返しします」
「あ、おう……え、え、さゆりって誰だ?アイツそもそも友達いたのか?」
え、どんな奴?何色?と、すっかりさゆりちゃんのことが気になってしまったエースはカウンター越しに学ランを受け取りながら尋ねるが、ナマエは「赤です」とクスクス笑うだけである。
美味しいラーメンが食べられたし、最後に楽しいお喋りもできた。上機嫌で退店しようとした彼女をエースは慌てて呼び止めた。
「裏、店の裏回れ。外出たら、すぐ左側の路地抜ければ回れるから」
「?」
言われた通り路地を抜けると、店の裏口から出てきたエースとちょうど出くわす。まださゆりちゃんのことが気になるのかしら、とナマエは呑気に思ったが、彼の片手には霧吹き型のボトルが。
エースは壁際に重ねられた酒ケースに軽く腰掛けてナマエに向き合う。
「はい。手ェあげろ。真横に。ティーの形」
「え、え?こう、ですか?」
「そう。回れー」
「まわ……?」
「ファブるから。すげー“良い匂い”すんぞ、お前」
にっと笑ったエースが“良い匂い”と言って指差した先は、店の壁から生えた換気口である。さすがの彼女もア…!と気づいて、ティーの格好のまま、彼の前に一歩出る。
「……お願いします」
「ワハハ。よし、じゃあいくぞー」
「はい」
ナマエはティーの格好のまま、その場で少しずつ回って全身に消臭スプレーをかけてもらった。一周する頃には彼女はしっかりファブられて、少しだけ制服がしっとりしている。
「道わかるか?」
「はい」
「プリント、本当にありがとな」
「いえ。ラーメンと味玉、ごちそうさまでした」
「今後ともどーぞご贔屓に」
「ふふ、はい」
店の表でバイバイと手を振って、二人は別れた。
ついぞ二人はどちらも名乗らぬままだったが、互いにひとひらの善意を持つ人ということは知れた。連絡先も知らないから再会は偶然に任せるしかないのに、また会えるだろうなと無根拠な自信と信頼がなぜだか胸の内にある。
お夕飯を食べられない言い訳を考えながら、ナマエは家路についた。
そしてその日、仕事を上がって学ランに着替えたエースは、更衣室で愕然とした。
「……なんか、良い匂いがする……」
「は?ファブる?」
「ファブんねェっす……」
先輩の提案を秒で断り、女子の甘い香りがする不思議な学ランを着てエースも家路についたのだった。
後日、別の曜日。
「アイツ、タコか」
「わっ……ぁ、えっと……さゆりちゃん…?」
「おう。確かにニコニコしてたわ」
「可愛いでしょ」
「フハ、人によるだろ」
同じ駅前で、ナマエは再びエースに遭遇する。
今度はエースが掛け持ちしているバイト先の焼肉屋に連れて行かれ、彼女はまたもや店内で大浮きするものの果敢に一人焼肉をし、店裏でファブられるのであった。
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