オンステージ
「ふう……」
観劇を終え、劇場のロビーに出たナマエは満ち足りた表情をしていた。瞳も肌もツヤツヤだ。手には今しがた見終えた舞台のパンフレット。劇場入口横に設けられた特設アイテムショップであらかじめ購入していたそれをほくほく顔で見つめる。
船に帰ったらゆっくり読もう!と大事にニコニコ胸に抱いて一歩歩き出した彼女に「おう!」と声がかかる。
「観終わったのか?」
「うん、すごく良かったよ!」
「そうか、それは何よりだな!おれはスッカラカンだ〜!たすけて〜!」
「ギャハハ!幸運の女神が中指立ててお前を睨んでるぜ!」
「結局いくらスッた?」
「85000ベリー」
「所持金は?」
「20ベリー」
「船帰れ!!」
「や、一杯だけ!一杯だけ酒飲まして!!寝れないから!!」
「帰れーーッ!!」
声をかけてきたのは白ひげ海賊団2番隊の面々である。お互いの肩や背中をバシバシ叩いてギャハギャハ笑っている。酒ならもうすでに入っているのだろう。
彼らは同じ敷地内の地下にあるカジノバーへ行っていたようだが、結果は散々の模様。しかしそれも旅先での単なる笑い話である。所持金20ベリーの彼も、帰れコールをする彼も、「お前らうっせーマジで」とダウナーな薄い笑みを見せるクールな彼も、何ひとつ傷ついたり落ち込んだりした様子はない。彼らは真夏の海風のようにどこまでも開放的である。
急に一人の女の子を取り囲んだこの悪漢たちに、ロビーにいた客たちは一瞬ざわついたが、その真ん中でのほほんと笑っているナマエを見て「し、知り合いか……?困っては…いないのかな……?」とハラハラ見守るに留まる。
演劇を心から楽しめるだけの文明度のあるナマエと、真っ昼間からカジノに入り浸って大負けした話をゲラゲラ話す彼らとでは、住む世界が違うように見えるが、彼女も立派な白ひげ海賊団の一員である。
***
ナマエはもともと、とある島の小さな劇団に所属する女の子だった。
しかしある日、ナマエの住む島に寄港した白ひげ海賊団が、詳しく言えば2番隊が、より正しく言えばエースを筆頭とした2番隊が起こしたトラブルに巻き込まれて、彼女の人生は変わる。
劇団の活動だけでは食べていけないナマエは島のレストランで働いていた。安くて美味いが売りの大衆食堂にはさまざまな客が来る。賞金稼ぎも海兵も来るし、海賊も来る。
「白ひげなんざ大したことねェよ!」
高い木に実った葡萄を酸っぱいと罵るのと同じこと。到底狩れない獲物である大海賊・白ひげを酒の勢いで嘲った賞金稼ぎの男は、目にも止まらぬ速さで店の壁に叩きつけられた。
殴り飛ばしたのはもちろんエース。鼻と口から派手に血を流して突然の激痛に目を白黒させる男へ、エースは割れた皿と料理が散らかる床を踏みつけて無言で歩み寄る。
そして、片手で男の胸ぐらを掴んでつま先を浮かせ。
「ナメた口利いてんじゃねェぞ」
と、僅かに首を傾け、斬りつけるような眼光で絶対零度の真っ黒な声を出したのだった。
店内の空気が一瞬にして凍りつく。海兵たちは治安維持のため即座に抜刀しようとしたが、その相手が火拳のエースと気づいて慌てて動きを止める。民間人もいる狭い店内で約5億の賞金首相手に向こう見ずに戦闘を開始できるわけもない。
時が止まったようにみなが息を詰める店内で、エースと同じ卓についていた2番隊の男たちは、椅子の背もたれに肘をひっかけたりくわえたフォークをぷらぷら揺らしたりしながら、「あーあ」「やっちゃったよ」と半笑いでそれを眺めていた。
この言葉はエースに対してではなく、まったくバカな口を利いた賞金稼ぎの男に対してである。せっかく今日は白ひげの刺青をきちんと隠し、店の隅で大人しくメシを食べてお利口にしていたというのに。おれらに喧嘩売るなんてセンスないね、と。
我が隊長はご立腹である。自分たちのカシラがこうして先陣を切って喧嘩を買ったのだから呑気に見物を決め込む部下などいない。自分の信じたものを馬鹿にされて黙っていられる腑抜けも白ひげの船には存在しない。
2番隊の男たちがおもむろに立ち上がる。それだけで戦闘開始の意思を示すには十分であった。
このように居合わせてはいけない人間たちが居合わせた結果、店は大破した。
逆上した捨て身の賞金稼ぎたち、賞金稼ぎたちに加勢した海兵たち、そしてそれらを一掃する2番隊の大乱闘であった。
壁には大きな穴があき、天井は一部焼けて落ちていた。辺りには燻った匂いが立ち込めて、椅子もテーブルも棚も無事に残っているものを数える方が早い有様。
そんな荒れきった店で、ナマエは突っ立っていた。賞金稼ぎの男が壁に叩きつけられた時からずっと、カウンターの内側で銀のトレーを胸の前で抱きしめて。こわばった肩を限界まで上げて、浅い呼吸をふうふう繰り返しながら、大きく見開いた双眸で2番隊の大乱闘を特等席で見ていた。
「——……」
最初こそ恐怖で足がすくんで動けなかったのだが、彼らの大乱闘を見ているうちに、痛いほどに脈打つナマエの心臓は違う意味を持ち始めた。
大乱闘の中で見た光景が頭に焼きついて離れない。
目の前で美しく凶暴な炎が翻り、凄まじい熱量に全身が一瞬炙られる。目も開けていられないくらい巨大な音を立てて壁が崩れて煙が立つ。割れた酒瓶の破片が酒で濡れて床できらめく。脳みそを直接揺らすような衝撃が毎秒襲う。戦闘に慣れた人間にしかできない躊躇いのない圧倒的な暴力は、肌が粟立つほど見応えのあるものだった。
目まぐるしく、反抗的で、鮮烈、愉快で乱暴で、エネルギッシュでドラマチック。
脚本で描かれるどんな活劇よりも、エースたちのリアルは強烈だった。己の信ずるもののために全力で戦って笑う姿は圧巻である。きっと世間が決める善悪などにはまるで興味がない。世界中からブーイングを受けたって、彼らは愛する仲間たちと肩を組んで明るい酒を飲めるのだろう。
それはなんだか、ずいぶんに生々しく心から生きているという感じがするのだ。
ほとんど廃墟になった店内にて、客も店主も他の従業員も早々に逃げ出して一人残ってしまったナマエは、不遜に鼻を鳴らして両手の汚れをぱんぱんと払っていたエースの横顔を覚束ない心地で見つめ。
「べ、弁償を要求します……」
「……えっ!?」
加害者側の代表たる男・エースに、被害者側の代表として弁償を求めたのであった。一人残ってしまったゆえ、店の代理人にならざるを得なかったので。
てっきり全員逃げ出したものと思っていたエースは、カウンターの内側で奇跡的に無傷で立ち尽くすナマエを見て驚いた。この乱闘を目の当たりにして、まさか海賊相手に堂々と損害賠償を求めてくるとも思っていなかったし。
エースは目を泳がせ、「あー……」と店をぐるりと見渡し…。
「いや、この節はどうも大変な粗相を…………えーと……ずいぶん小ざっぱりと…風通しもよくなっちまったようで……」
「弁償……」
「う。上と掛け合いますんで……オイお前ら!整備組呼んでこい!!走れ!!」
「それと、」
「まだなんかあるのか?」
「一緒の船に乗りたいです」
「………は?」
そこからは怒涛のプレゼンであった。
まずはナマエの自己紹介から始まり、どのような志望動機でどのように彼らの旅路に携わりたいかが分かりやすく・丁寧に・熱意をもってエースへ語られた。
語られたエースはドン引いていた。たった今、目の前で勤め先を潰されたとは思えぬ勢いだったから。彼女が奴隷でここがヒューマンショップならいざ知らず、おそらく島でもそこそこ評判の良い店だ。店主も優しそうだった。たとえ店にのっぴきならぬ恨みがあったとしても、民間人が次に志望する先が四皇の海賊船というのは人生において大きな過ちである。エースでも分かる。本当にやめておいた方がいい。
しかしナマエの目は真剣にきらめいているのだ。エースはもうワケが分からなくて、訪問販売を断れない気弱な男のように「はあ…」「へえ…」「そうなんスか……」とぼんやりとした相槌を曖昧に繰り返していた。
なんだか面白いことが始まったので、2番隊の男たちはバキバキに折れた柱や元椅子・元テーブルに腰かけて、笑い声を押し殺してその様子を遠巻きに眺めていた。
やがて2番隊のクルーに呼ばれた整備組が資材や工具を担いでやってくれば、ナマエは今度は彼らに怒涛のプレゼンをおこなう。実際に修繕作業を率先して手伝って自らの手腕を実演。整備組の船大工たちも「おお、こんなことまでできるのか」「なかなか使える奴かも」「設計士がちょうど腰を痛めたところだったし」と満更でもない様子である。
こうして気が逸れたおかげでエースは、整備組の大男たちに「余計な仕事を増やしやがって」と怒られる危機を回避できた。
その後もナマエは出会う役職者たちに片っ端から自分を売り込んでいく。放っておけばいいのに、「あ、おいっ、待て!」と彼女の摩訶不思議に熱意ある背中をいちいち追いかけてしまったがばかりに、付き添うようにいつも隣にいるエースは彼女の推薦人と思われてしまっていた。
そんな奇怪な状況に気づかぬほどエースは疲れていた。あちこちパワフルに回るナマエの勢いにげっそりしていたのだ。
「グラララララ」
そして、ついに白ひげまでたどり着いてしまった。
モビー・ディック号の甲板に設けられた巨大な椅子に白ひげは鎮座し、ナマエはその正面にシャンと立っている。
世界最強の男、海の王者の御前である。
「おい、エース。部外者をここまで入れるたァどういうことだ」
「あっ……オ。オヤジすまねェ、コイツすぐに摘み出すから……!」
「まあいい。エースが連れてくる女の話をちっとでいいから聞いてみろってハナタレたちがさっきからうるせェんだ」
「は……?」
「ン」
白ひげが視線を送った先、何やら先ほどからプルプルとうるさいと思えば、椅子のすぐそばに置かれた電伝虫たちがひっきりなしに鳴いていた。出ないということは、もはや出る必要がないということ。どれも用件は同じなのだろう。
「ちょうどひと眠りしたいと思っていたところだ。……話して聞かせてみろ、小娘」
彼は肘置きに頬杖をつき、わずかに体勢を崩して彼女を見下ろす。
眠たくなるほどつまらない話、と彼は言外に言い、そこには微笑みのカケラもない。小娘ひとりが憧れだけで海賊船に乗ろうなどさらさら認める気がないからだ。海をナメている。そう一笑に付して門前払いをしたって構わないのだが、息子たちの顔を立てて子守歌がわりくらいにはしてやろうというだけ。
ナマエの奇行にすっかりペースを乱されていたエースも、白ひげのどっしりとしたこの様子にハッと落ち着きを取り戻す。彼女の斜め後ろから白ひげの隣へいそいそと移動し、腕を組んでフンと胡座をかいて「聞いてやるよ!」の姿勢をとる。エースは最初に延々と聞かされた身のはずだが、あの時はあまりに唐突で訳がわからず、ほとんど話を理解していなかったので。
このトータルバウンティ約56億の男たちを前に、ナマエは少々の緊張を見せながらも、怯みはしなかった。
そして最後のプレゼンが始まる。
ナマエは劇団所属の女。しかし、女優ではない。裏方専門である。
裏方とは、表舞台のすべてを華やかに演出する仕事だ。舞台美術、衣装、メイク、照明、音響……舞台上に直接関わるものだけでなく、劇場の手配、広報、経理管理なども含む。脚本で描かれたものをぴたりと再現し、ときにはより魅力的に、舞台に華を添える。
役者とは異なる方法で、何をどうしたら見せたいものを見せたい形に表現できるかを考え作り出すのだ。小さな劇団だったためナマエは様々な役割を兼任し、その腕と知識を全方位に磨いていた。
異なる仕事・役割を掛け持つことは大変なことだ。しかしナマエの情熱がそうさせた。
“好き”に捧げる熱量は随一で、あの大乱闘は彼女の“好き”を塗り替えた。
「あなたたちが進む道すべてを花道にする手伝いがしたい」
私が持てる技術すべてをもって。
“好き”にしか懐かず、世の常識に説得されない強情さは、海賊に通ずるものがあった。
これは見事に白ひげの心を動かした。
魂と覚悟は十二分、各部署の人間たちからの見込みも申し分ないことは鳴り止まぬ電伝虫が物語る。
少しは骨がありそうだとグラグラ笑う白ひげの隣、エースはこれを聞いてどうなったかと言えば。
「…………」
最高に居心地が悪そうに思いきり顔を顰めて、海の彼方へ視線を放り投げていた。楽しそうな雰囲気は1ミリもないが、顔はありえないほど赤い。
あの大乱闘の最中に見たエースの姿をナマエが終始絶賛していたからだ。誉め殺しといってもいい。あれに惚れたのだと、白ひげの目を見て真っ直ぐに言い切るもんだから、エースはガーッと顔を熱くさせて、目の下をヒクヒクと引き攣らせて言葉を詰まらせた。
船に乗るための薄っぺらいおべっかではないのは、さすがに分かる。本気で言っているからタチが悪い。これを照れ隠しに笑ったり軽く扱って非難したりすれば、それこそ無粋でみっともないだろうという具合。
それくらいにナマエは真剣で、一言も言い合いをしていないのにエースを黙らせることに成功した。
やはり2番隊の男たちは、「おもしれ〜!」と笑い声を押し殺してその様子を遠巻きに眺めていたのだった。
ナマエの入団が決まった直後、エースは「どっ…どんな顔して会えばいいんだよ!?」とひとり焦っていた。
が、彼女は乗船後すぐに自分が役立てそうな部署に積極的に顔を出してその体を忙しくしていたので、そもそもエースと物理的に会うことはしばらくなかった。
毎日充実しているようで何よりだし、各所で漏れ聞く評判は悪くない。……マァいいんじゃねーの。と、会わなければさすがに羞恥のほとぼりも冷め、次に会うときはスン…と落ち着いた心で対応ができた。
そんなエースが船内でナマエと再会してちょっと驚いたのは、彼女がいたって“普通”であったことだ。
“普通”とはつまり、初対面でのあの怒涛のプレゼンが嘘のように普段のナマエは大人しかったのだ。その燃えるような情熱は、彼女の体の内側で煌々と息づいていると分かるけれど。立場をわきまえ、自分の仕事が何であるかをよく理解している。最大限に役に立つため、最高の成果物を生み出すために頭と体を始終使ってひたむきに謙虚に一生懸命だ。
自分の持場は“裏方”であるということを熟知している人間の働きだった。
一方、エースたち戦闘員は言うなれば花形だ。一味の顔であり、彼らの強さが海賊団の名をより堅牢で恐ろしいものにする。隊長ともなれば名実ともに別格である。
彼らはいつも表舞台の真ん中にいる。海軍船の探照灯がスポットライトで、世界中にばら撒かれた指名手配書は歌舞伎役者の顔見世番付と言ったところ。
トップスターと裏方は、同じ方向を向いていても同じ舞台上には決して立たない。裏方は舞台袖から作り上げた舞台を満足げに見つめ、同じ舞台に立つことは夢ではないから。
ナマエはエースと同じ舞台に上がってはくれないのだ。
真っ白いスポットライトに下で、エースにはなぜだかそればかりが寂しくてつまらない。
おれに惚れたんじゃねーのかよ。と、舞台の上で拗ねた声でポチンとひとり毒づいてしまうほどに。
***
場面を戻して、劇場のロビー。
このような経緯で、ナマエは2番隊の面々とは比較的仲が良かった。
ナマエは2番隊に顔を知られていて、2番隊のみんなは場を共にすれば声をかけて輪に混ぜてくれた。島に降りるときも何かと連れ立ってくれる。強面で名実ともに悪漢である彼らがいると、面倒な輩は寄ってこず(彼らの方が面倒だから)、法外な値で悪徳商売をされることもない(彼らの方が法外かつ悪徳な存在だから)。彼女には大変ありがたいことだった。
害悪なものには正義をぶつけるのではなく、より害悪なものをぶつける方が分かりやすく効果的なのだなあとナマエはこの船で身をもって学んだのである。
「あ!エース隊長!」
所持金20ベリーがパッと片手を上げて、嬉しそうな声を出す。
視線を向けるとエースがほかの2番隊の男たちと連れ立ってカジノバーから出てきたところだった。今日は刺青を隠すシャツもなく、一目でカタギでないことが分かる姿だ。
「あっピースしてる!勝ってるぽい!隊長〜!おれスッカラカンなんだ〜!たすけて〜!」
「おお、情けねェことでかい声で言うなバカ」
「船帰らなくてよくなったな。隊長、おれ喉乾きました!!」
「じゃあパーッと飲みに行くかァ」
「イエーーイ!」
「奢り!?奢ってくれるって思ってていいんですよね!?」
「おれァ宵越しの金は持たねェよ」
「イカすーーーッ」
「一生ついてきまアす!!」
「大好き!!」
2番隊の男たちは愛しの隊長をワッ!と囲んでキャイキャイ懐く。
「ナマエも来るか?観終わったんだろ、ソレ」
「いいの?んと……じゃあ、せっかくだし混ぜてもらおうかな」
ナマエは大事そうにパンフレットをしまって表情を明るくさせる。エースは彼女の返事を聞いて「おう」と笑った。
2番隊御一行、宵越しの金は持たないと宣言して意気揚々と酒場へ赴いたわけであるが。
「ァギャッ」
またも店の椅子とテーブルは壊れてしまった。本当に誇りを貶されることには人一倍堪え性のない男である。
しかし今回の店は頑丈で、壁が吹き飛ぶ前に海軍がうじゃうじゃ湧いた。蹴散らしてもよかったのだが、今回は裏方のナマエがいるため2番隊は遁走を選んだ。大乱闘も好きだが鬼ごっこも好きなので問題ない。
「散れ散れ散れ!船まで競争!!」
「死ぬなよ!」
「またあとでー!」
「ッアーー!お土産買いたかったのに!」
「隊長ごめんなさいはアッ!?」
「ごめんなさい!!」
2番隊が一斉に店から駆け出した。
一番近くにいた2番隊の男が小柄なナマエをヒョイと抱えて走り出す。自力で走らせるより抱えた方が早いからだ。彼女は首根っこをつかまれた猫のごとく「ギャッ!」と目をまん丸にして手足をキュッと折りたたみ、できるだけ小さくなった。
彼らは物凄いスピードで走るので下手に四肢を伸ばして何かにぶつかったらそれだけで大怪我になるし、ラグビーボールのようにヒョイヒョイクルー同士でパスされるため、なるべく小型でいる方が賢明なのだ。
安全バーのないジェットコースターに乗せられているのとほぼ同じ状況だ。いくら目を開いていても得られる情報はどれも一瞬で断片的。激しい風切り音に2番隊の男たちの笑い声が絡まって後方に流れていくばかり。
「おーい、だいじょぶ?生きてる?」
「……!」
「あはは〜。だめそ」
ナマエをパスされたダウナーくんは薄く笑って前を向いた。
裏方専門の彼女は、こうして表舞台に引きずり出されると非力ゆえに振り回されてしまうのであった。
ナマエに代わって状況を説明すると、2番隊は海兵と交戦しつつ港を目指していた。追いつかれそうになったら武器を交え、道端の樽や木箱を蹴散らして障害物をばらまく。エースの爆炎で敵を撃破し、民家へ延焼しそうな時は彼の部下が水道管をぶっ壊して無理やり消火。
彼らが駆け抜けた後の道はハリケーンが通過したように荒れる。やはり海賊とは民間人にとっては何かと大迷惑な存在なのである。
「隊長!パース!」
「おう!」
ドン!とエースの腕の中にナマエの体が勢いよく収まる。彼女は一歩も走っていないのに緊張で息があがっていた。一方、エースはパルクールの遥か上をゆく曲芸的疾走を続けていながらどこまでも涼しい顔である。炎と化す体だけは熱い。
「悪い、これ掴んでてくれ。帽子が後ろに飛んじまってやりにくいんだ。ナマエの顔に当たってもいけねェし」
「う、うん……」
「助かる」
言われた通り、ナマエはエースの胸元で暴れていたドクロの飾り紐を命綱のようにぎゅー…っと握る。は、は、と短い呼吸を繰り返して顔だけは前に向けている。頬は赤らんでいた。
「うーん、しつけェ……今日の海軍は持久力バカが多いなァ……」
自分が持久力バカ一等賞であることを棚に上げ、しばらく走ったエースは唇を突き出して面倒くさそうに言った。
港に向かってはいるのだが、いかんせん地の利で負けていてどうしても先回りをされてしまう。ルートを変えるたびに少しずつ港が遠ざかっているのだ。時間が経過すればするほど逃走経路は厄介になる。
正面突破で船まで道を“作る”こともできるが、腕の中でナマエが焼死体になるのは御免である。もちろんナマエだって御免だろう。
どうすっかね…と走りながらつらつらと考えたエースはスピードを一切落とさぬまま路地裏にヒョイと入った。
二、三回、適当に角を曲がり、その先にいた明らかに海兵ではない男性をノータイムで躊躇なく蹴り倒す。体が吹っ飛ぶほどの蹴りを顔面に受け、男は悲鳴を上げる間もなく鼻血を流して地面に倒れた。エースの腕の中、ナマエはガチンと固まって肩をすくめ、言葉を失う。
エースは彼女を下ろし、倒れた男からシャツを剥ぎ取ってサッと袖を通した。
「なっ……何してるのエース……!」
「んー?」
「みん、民間人……!」
「民間人はこんな薄暗い路地裏でピストル片手に海賊を待ち伏せたりしねーよ。賞金稼ぎか何かじゃねェのか?」
エースは男の手から滑り落ちて地面に転がっていたピストルを蹴って遠くへやる。唖然とする彼女をよそに、エースは気絶した男の体を物陰に隠すようにテキパキ移動させた。「おっ」と足元を覗き込むように首を伸ばす。
「当たりだ。見ろよ」
「え、」
「おれらのこと一生懸命調べてくれたらしい。うっれしいねェ……」
ハン、とニヒルに笑って壁際に置かれていたリュックを軽く蹴倒すと、リュックの口からバラバラと手配書がなだれ出た。
しかしエースはそれ以上の興味はないらしく、男の腹の上に帽子を放って目の前にしゃがみ込み、「悪い、服借りるぜ!」と肩をバンバンと二度叩いた。完全なる事後報告である。
立ち上がった彼は、帽子を被っていたせいでへたれた前髪にざくっと指を差し込んで後頭部へ向かってがしがしと髪をほぐした。今度はナマエへ向かっていく。「な、なんだろう」とたじろぐように数歩後退した彼女をアッサリと壁際に追い詰めた。
背中を壁にぶつけ、ナマエは少しも笑わないエースを見上げる。エースはそんな彼女の顔のすぐ横に肘から先を置き、反対の腕で腰を引き寄せた。
頬に垂れた一房の髪から少し汗の香りが香った。
「え、エース…?な、なに、なんのつもり……!?」
「しー、しー……いい子だから静かに」
「ま、待って、ほん。本当に分かんない……!……あ、あし、足音、だ、誰かくる…っ」
その誰かは当然海兵たちであるが、エースは「しー」としか答えず、そのままゆっくりと唇を合わせた。ナマエは反射的にエースの胸板を叩いて抗議したがビクともしない。あむあむ唇を喰まれ、混乱で硬くなった口元を少しずつ解される。ぬる、と熱い舌が入り込んでまた体が緊張するが、繰り返されれば力が抜けた。抗議のために置いていた手で思わずシャツを握って堪える。ともすれば、それはねだっているようにも見える仕草だった。
腰に回された腕に力が入り、ナマエの足の間にエースの足が割り込む。壁と髪がザリ、と擦れる音がした。
情熱的なキスだった。
足音はもうすぐそこ。
「お前たち!ここでな……に、を……」
若人二人の人目も憚らないその行為に、駆けつけた海兵たちは勢いをなくす。エースは数センチだけ顔を離して海兵たちをひと睨みした。
「……海軍はこういうのも取り締まんのかよ」
お楽しみを邪魔された不機嫌な男を演じるそのセリフで、ナマエはエースがシャツを強奪し、帽子を投げ捨てた理由をようやく理解する。たったいま、自分が演じるべき役も。
「きょ、凶悪な海賊がいま島に……」と職務をまっとうして状況説明を始めた海兵を無視し、ナマエはエースの首に乱暴に腕を回し、急かすように深く口づけた。さも、早くどっか行ってよ、と言いたげに。
「〜っ、君たちも早く避難するように!行くぞ!」
海兵たちの足音がばたばたと遠ざかる。
それを聞き届け、エースは覆い被さるように丸めていた背中を伸ばし。
「女優だねェ」
と、片眉を上げて笑った。
ナマエは今度こそ拳でドンと彼の胸板を叩いて、深くため息をついた。
「それならそうって言ってよ!」
「言ったってやるこたァ変わんねーよ」
「ほんとにびっくりしたんだから!」
「ま、上手く撒けたし、早くずらかろうぜ」
「あっ、頭おかしくなったのかと……!」
「ンハハ、ひでェ言い草」
エースは帽子をヒョイと拾い上げ、脱いだシャツを気絶する男の体に「ごめんなー」と雑に掛けた。
海賊旗を模した背中の刺青が再び露わになる。
ナマエはキスの余燼に揉まれ続ける真っ赤な心臓を押さえ、路地裏を出て海兵たちと真逆の方向へ駆け出したエースの後を追いかける。
船までの道中、エースはナマエを抱きかかえなかった。代わりに、ずいぶんと走るスピードに差のある彼女がはぐれてしまわぬようその手を引いていた。
同じ舞台を駆け抜けられることが、あまりにも嬉しかったのだ。
ナマエの足に合わせたおかげで、モビー・ディック号へ帰り着いた2番隊の中でエースはドベだった。
さすがに岸から船上まではエースに担いでもらい、ナマエはようやく我が家の甲板にたどりついた。安堵と疲労からへなへなとその場に座り込み、心の底から深く息をつく。
この船が、この海賊団の生き様が好きだ。しかし、表舞台は私には賑やかすぎる。美しいと思えるものに少しでも混ざりたくて、なるべく近づきたくて奮闘しているけど、やはり私一人では裏方が限界だ。
そう再認識したところで、甲板に手をついた彼女にフッと影が落ちる。
ヤンキー座りのエースと目が合う。膝に頬杖をついた彼はゆるく口角をあげていた。
「なァ」
「……なぁに……」
「楽しかったな。また行こうな」
「……」
誘われた。
正直に言えば、この誘いは嬉しかった。しかしナマエは少し迷ってから…ほんのわずかに唇を噛んで目を逸らす。
立場をわきまえ、身の丈を知った利口な人間が本音を飲み込む時の予備動作だ。
「い…行かない……」
「なんで?」
「た、体力だってないし、ろくに戦えないから……」
「躱しようならいくらでもあるって今日分かっただろ?」
「まっ、毎回あれじゃ困る!」
「プハハ。じゃあほかの策を練るこったな。おれに任せたら毎回アレだぜ」
「……足手まといになるよ」
「だからなんだよ」
エースは彼女の懸念を至極どうでも良さそうに鼻であしらう。
「おれはまたナマエとみっともなく船まで走りたい。一緒に汚名をかぶって、街をめちゃくちゃにしながら、それでも笑って逃げおおせるのさ。楽しいからな」
「わ、わたしは別に、」
「楽しくない?」
「……」
「嘘つけ。楽しかったくせに。顔見りゃ分かるよ、そんくらい」
エースはナマエの頬をこするように撫でる。逸らされた目がようやく合う。
ナマエの頬は赤らんだままだ。彼女の頬は、店から駆け出したときから赤い。
そしてエースはその赤さを知っている。
初めて出会ったあの店で、自分に向かって一生懸命話していた時の色だ。話の内容はまったく聞いていなかったけど、この頬の赤さと目の輝きだけは焼きついている。
「できるできないじゃねェだろ」
エースはゴール・D・エースになりたくなかったからポートガス・D・エースになった。
単なる友達でいたくなかったから義兄弟になった。
海賊王の息子でいたくなかったから火拳のエースになった。
威勢だけの仁義も通せぬ男でいたくなかったから、オヤジの息子になった。
「なりたいものになれよ!」
エースは犬歯を見せて蹴っ飛ばすように大きく笑ってそう言った。
なりたいものになって、今の彼がいる。その顔は驚くほど魅力的だった。
目まぐるしく、反抗的で、鮮烈、愉快で乱暴で、エネルギッシュでドラマチック。
ナマエがあの日感じた眩しさがギュッと詰まった男である。
やはり、彼女はエースに惚れたのだ。
自覚すればポポポ…と頬がじんわりと桃色に染まる。
「な、なれるかな……」
「知らん」
「えっ」
「努力しろ。そういう努力ができるやつだろ、お前は」
「……うん」
「そんじゃあ。改めて、よろしく」
差し出された大きな手に、ナマエもおずおずと手を差し出した。
指先がチョンと触れた瞬間、強く握りこまれる。油を染み込ませた布に燃え広がる炎のようだ。逃さぬという意思すら感じる。
ナマエは大きさも厚みも違う手が自分の手を包んでいるのを不思議な心地で見つめてから、彼女なりに精いっぱい握り返した。
そして、エースの顔を見上げる。
彼はやはりゆるく笑っていた。
ずっと裏方にいたナマエを表舞台に引きずり出す許しを、彼女直々にもらった。差し出した手を握り返してもらった。
これがどんなにエースの心を弾ませているか、ナマエは知らない。
「よろしく……。ま、まずはお友達から……」
「……おれたち友達ですらなかったのか!?」
「え、えっと。うん」
「ま…マジかよ……」
「だって…立場が違いすぎるからね……」
「立場って……どうでもいいだろ、そんなもん……」
「うーん……」
ガビン!と顔を顰めて固まるエースに、ナマエは言葉を濁す。
エースは白ひげ海賊団本船・1600人の中から選ばれしたった16名の隊長の内の一人。かたや彼女は非戦闘員の新人クルー。どうしたってすぐに埋まる距離ではない。
「はあ……まあいい。お前ン中じゃ、おれはひとつ昇進したわけだ」
「昇進なんて、そんな大袈裟な……」
「おれの中じゃ、ナマエと仲良くなるのは大袈裟なことなんだ。そこんとこ分かれよな」
「……、」
「出世は男の本懐だ。テッペンまで上り詰めてやろうじゃねェか」
エースとの関係の“テッペン”とは何を指すのか。
「楽しみにしてろよ」
今はまだ分からないけれど。
双方が“なりたい”と望むなら、それはいずれ分かることなのだろう。
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