縁定


 オシャレなブティックやカフェが立ち並ぶきらびやかな街だった。
 ショーウィンドウの中はどれも各店の世界観が美しく反映されており、コアラはそれらを見て歩くだけでもうっとりしていた。もともとフリルやヒラヒラした服を好んで着る彼女の乙女チックな趣味にそれらは見事に合致していた。
 サボとコアラは任務を終え、ハックが手配する迎えの船を待っているところだった。船到着の連絡が入るまで、二人はしばしの余暇をこの街で過ごしている。
 コアラはショーウィンドウで一目惚れしたブティックに魂を吸い取られたように無言で入っていき、両手にショッパー、背後に店員の見送りを受けてキョトンと店から出てくる……を繰り返していた。神隠しにあった娘のように「はて、私は今まで何を……?」という顔をしているのである。
 店の表で新聞を読みながら待っていたサボは、壁から背を離してコアラの両手から追加されたショッパーを引き取ってやる。

「コアラは買い物してたよ。これで3軒目だ」
「えっ……そんな……、あ、やだ、本当にお金が減ってる……」
「さっきもそれ言ってたな」
「ま。まるで記憶がない……」
「お前、物欲に塗れると自我を無くす癖、そろそろ直したほうがいいんじゃないか?破産するぜ」
「わ……可愛いブーツ……」
「あ、自我無くしてる」

 またしても可愛らしく素敵なアイテムに自我と理性を破壊されたコアラは、吸い寄せられるように他の店のショーウィンドウにトトト…と駆け寄り、流れるように入店していく。
 サボは小さな溜息をついて、その背中にのんびりとついていった。彼にとっては新聞を読む場所が変わるだけの話なので。
 そんな無限ウィンドウショッピングに無理やり一区切りをつけ、二人は休憩がてらカフェに入った。テラス席にて各々注文したドリンクを片手にふうと息をつく。コアラは困ったように眉根を寄せてはいるが、困っている原因は「この子たち、お部屋のどこに仕舞おうかしら!」なので彼女の肌は依然としてツヤツヤである。
 乙女にとって、目の前でかわゆいキラキラを取り逃がす方が大きな後悔になるのだ。そういった意味では、今日のコアラは完全勝利である。
 ショッピングで心が華やいだコアラは、ご機嫌にサボと談議に花を咲かせる。
 サボはコーヒーが飲めればどこでも良かったけれど、このカフェもコアラ好みのオシャレで可愛らしい店だ。アンティーク調の白い椅子と丸テーブルも、スミレの砂糖漬けが乗ったアイスティーも、レースで編まれたコースターも、白磁に花の柄が描かれたシュガーポットも、すべてがコアラの気分を乙女チックに演出してくれていた。
 あとこの場に足りないものといえば、恋バナだけだった。

 サボには恋人がいる。
 ナマエはとある王国の元・軍騎士団長だ。凛々しく勇ましく、戦闘のセンスは群を抜いており、まさしく戦場を駆ける勝利の女神であった。そんな彼女は革命軍の志に共鳴して、数年前に革命軍へ。加入後はあっという間に出世して、当時の麒麟児であったサボが率いる作戦に主要メンバーとして加わるほどその力を買われた。
 ナマエの体を包むダークカラーの衣服は、その体をスラリとしなやかに・重厚に引き締めて魅せる。彼女は背が高く、分厚いソールのミリタリーブーツを履くとサボとほぼ背が並んだ。堅いブーツの靴底をカツン!と鳴らして真っ直ぐに歩く姿は、思わず振り返ってその背中を盗み見てしまうほど見事なのだ。
 パンツスタイルが標準装備で、首から下の露出がほぼないナマエは“男装の麗人”と呼ぶに相応しい。そんな出立と立ち振る舞いは同性から憧れを集めた。宝塚のトップスターと言えばわかりやすいだろうか。
 仕事人間のサボと同じくらい仕事人間で、彼と同じ熱量・スピード・簡潔さ・要領の良さで大量の仕事をスパンスパンこなすので、サボの隣に立つナマエは恋人というより相棒といった印象が強い。お互いがお互いを唯一無二と思い、信頼を寄せていることは誰の目にも明らかだ。しかし双方仕事人間ゆえ、人前で恋仲らしい甘い空気が流れることは一切ない。
 おかげで初見で二人の関係性を「恋仲」と見抜ける者はなかなかいない。隠しているつもりもないが特に公言もしていないので、二人がそういう間柄といまだに知らぬ者も少なくない。二人はお揃いのダークブラウンの革手袋を使っているけれど、それは恋人のペアグッズとは見られておらず「仕事ができる人ってやっぱりああいう革手袋使うんだ」という認識だ。

 露出がない分、その服の下に隠されたナマエの肌は透き通るように白い。窓から差し込む朝日の中で、無防備にその滑らかな雪の肌を晒して眠る彼女は、絵画から抜け出てきた神話の乙女のように美しい。それはサボしか知らないことだ。
 覚醒しきらぬ頭で白いシーツを肌にかけてぽや…としている裸体の彼女を見るたび、サボは「ああ、おれの女神さま」と心から素直に思うのである。

 近しい者は二人の仲を知っている。コアラもその一人だ。
 たまにはサボの恋バナを聞きたいなと思い。付き合って月日も長く、良好な関係を続けている二人の今後の展望を聞いてみたいな、なんて思い。
 「ねえねえ、」とコアラは明るく軽やかな気持ちで口を開いた。

「最近どうなの?」
「何が?」
「ナマエさんと。お付き合いを始めてだいぶ長いでしょ?」
「あー……そうだな、もう何年だろう。ずいぶん経つよなァ」
「うんうん。お互いの愛情はまったく衰えてない感じ?」
「う…コ、コアラ、お前な……人の恋愛は見せ物じゃねェぞ……」
「ウフフ。照れてる照れてる。いいじゃない、幸せお裾分けしてよ」
「ええ〜……」

 照れてはいるが満更でもない様子。恋人についてのろけたい気持ちは多少あるらしいと見えて、コアラは弟のような彼を微笑ましく思う。

「ね、ね。サボ君は結婚って考えてるの?」
「結婚?」
「うん」

 コアラはテーブルに両肘をついて少し体を乗り出し、ドキドキわくわくサボの答えを待つ。
 サボは斜め上にチョイと視線をあげてちょっと考えてから……。

「結婚する気は……ねェな」

 そう言って、コーヒーをズズ…とすすった。
 コアラは「えっ、」と言葉を失った。サボはあまりする機会のない恋バナが照れ臭くて、カップをくらくら揺らしてゆるく波打つカップの水面に視線を落としていた。だからコアラの様子に気がつかない。

「ナマエとはこの先もずっと一緒にいたいと思うけど、結婚は、うーん…別に良いかな」

 そんなクソ男の鑑のようなことを平然と宣うので。

「うわっ、…コ…コアラ?」

 彼女はテーブルを強く叩いて立ち上がった。一本足の白い丸テーブルがガコン!と揺れる。サボはギョッとしてコアラの顔をパチパチ見つめた。
 彼女の目はまさしく怒りの紅蓮であり、険しい表情はその深刻さを物語る。絶対零度の音階で、纏うオーラは閻魔の吐息と同じ色をしていた。

「サボ君……いまなんて言った?」
「え……、」

 自分よりもずっと小柄なはずなのにコアラは怒ると途端に巨大に見える。サボは立ち上がった彼女の迫力に気圧されて、椅子の背もたれに背中をビッタリとくっつけて肩をすくめた。

「ナマエさんと結婚する気はないって、聞こえたんだけど」
「そ……そう言った……」

 と、馬鹿正直に言う。
 怒られていることは分かるが、なぜ怒られているかを全く理解していないがゆえである。あろうことか、何がコアラの逆鱗に触れたワードなのかピンときていないのだ。
 彼は肩をすくめてはいるが、これは怖がっているのではなく、これからくる大きな怒号に備えているだけだ。地震がきたらとりあえず辺りを警戒するのと同じようなこと。

「……サボ君、これだけ長く付き合っておきながら結婚する気はないって、そう言った?」

 そう言ったのである。
 発言は事実だが、コアラが放つ空気がいよいよ洒落にならなくなってきているのが分かり、さすがのサボも二の句を告げない。肯定しても否定しても最悪の空気だ。かといって黙っていることが最善でもない。
 ぐー…っと拳を押しつけ続けているテーブルの天板にはミシミシと亀裂が走り始めていた。
 さっきまではあんなにご機嫌だったのに!
 乙女心は秋の空とは言うが、これは決してコアラの気まぐれな癇癪などではない。明らかにサボがダンスパウダーで轟々とキャンプファイヤーをするような真似をして呼び込んだ大嵐だった。
 周りの客も何事かとチラチラと二人を見ていた。サボは「お、落ち着け、店だから……」と腰を少し浮かせて彼女をなだめる。

「お…おれの話、聞けそうか?コアラ……」
「フーッ、フーッ、ど…努力する……」
「そうか……お前が前向きな奴で良かった……」
「なによっ、言い訳があるなら早く言いなさいよこのオタンコナス!」
「ああ駄目だ駄目だ、めちゃくちゃ怒ってる」

 コアラはこんなにも怒り狂っているのは、彼女が他人のために人一倍怒ることができる心優しい娘だからだ。
 コアラはたとえ自分が長く付き合っている彼氏に「え?お前と結婚?全然する気ないけど(笑)」と言われたとて掌底打ち一発で怒りを収めることができる。しかし、こと友人、中でも親交が深いナマエがそんな風に言われているとあらば、到底腹の虫は収まらなかった。
 コアラはストン!と着席し、アイスティーを一気飲み。物理的に怒りの熱を下げたおかげで、フン!と腕を組んでなんとか聞く姿勢に入れた。
 サボもコーヒーを一口飲んで口の中の渇きを誤魔化し、フルスピードで頭の中で話の筋道を組み立てる。
 そして。

「えーと……おれの実家は目も当てられないほど腐敗した貴族なんだけどさ、」

 と、話し始めた。


***


 サボは“結婚”というものに潜在的な忌避感があった。
 初めて見た夫婦があの実の両親だ。その両親から執拗に強要されていたことが“王族の女と結婚すること”である。
 彼にとって結婚とは、美しく尊い愛の育みの末に辿りつくものではなく、効率よく家を繁栄させるために他人の人生を使っておこなう打算的な営みの一環なのだ。これは歪んだ家で刷り込まれた歪んだ価値観であり、サボがその被害者であるのは間違いない。彼が結婚にポジティブなイメージを持てず、消極的になるのも頷ける。
 サボはナマエが大好きである。大好きだからこそ、ナマエとは結婚しなくても、と思う。
 想いあっているならそれでいいじゃないか。一生ともに生きると心に決めているなら、わざわざ結婚なんて枠組みに関係性を押し込める必要はない。結婚なんかしなくても、おれたちは互いにとって最高の人生を歩めるはずだ。……
 しかし逆を言えば。サボのこの主張が正しいとするならば、結婚したって構わないはず。なにも変わらないのだから、結婚という行為自体はなんの支障もないはずなのだ。
 それでもサボがこうして結婚に対して二の足を踏むのは、心のどこかで“変わってしまう可能性”を恐れているからだった。
 サボは両親と見た目が全く似ていない。性格も考え方も似ていない。何が遺伝したんだかサッパリわからない出来栄えだ。だからこそ、思いもしないところにあの両親の血の色が出るんじゃないかと恐ろしい。自分でも気づかぬところで、あの両親と同じ醜悪なことをしでかす日がくるのではないかと。それが何かは具体的には浮かばないけれど、不確かな不安が漠然と付きまとっている。
 ガープ・ドラゴン・ルフィというモンキー三世代を間近で見てきたサボは、“血は争えない”という言葉の信憑性を認めている。だから、自分もあの両親と…とふとした時にゾッとする。乱杭歯の赤い目のバケモノに暗がりからジッと見つめられている気分なのである。
 なるべくなら、あの両親とは別の道を選びたい。自然とそう思うようになっていた。



 「……この通り、情けねェ話だよ」

 とサボは話を締めくくって目を伏せた。鼻から小さなため息をついてコーヒーカップに手を伸ばす。
 コアラは彼のこの話をしっかりと聞き……テーブルに肘をつき、こめかみを親指でぐりぐりと指圧しながら「う゛ーーーん」と唸って深く俯いた。
 思った以上に根深かった。
 いつもの要件人間節だと思っていたのに。話を聞けば一方的にサボが悪いとは言い難い事情だった。これは、親が、貴族が悪い。
 サボは唸って沈黙してしまったコアラをチラチラ見つつ、居心地悪そうにコーヒーをチビチビ飲んでいる。
 サボだって他人の結婚は手放しに祝福できる。革命軍内にも夫婦はいるし、先日別の任務で訪れた島の教会で執り行われていた結婚式は幸せで満ち溢れていると感じた。
 だが、いざ自分がとなると、途端に首をかしげてしまうのだ。
 おれはいいかな、と辞退したくなる。

「……確かに幸せの形は、必ずしも結婚ではないけどさあ……」
「うん……おれもそう思う。形じゃなくて気持ちが大事なんじゃないか?」
「う゛……」

 さすが核を突くことに特化した男だ。指摘は鋭く的確である。
 そもそも、世界政府打倒という誰に言っても「志はわかるが相手が悪すぎる」「無謀だよ」「やめておきなよ」と十中八九言われる野望を掲げて早10年のこの男。世界で当たり前に語られるルールを鵜呑みにせず、臆すことなくNOを提示することなど造作もない。己が納得しなければ従う必要はない、そう言い切れる心の強さこそがサボの原動力であり、革命の炎を弛まず灯し続けられる要因なのだ。

「結婚……、結婚ねェ……」

 想像以上にしょんぼりしてしまったコアラになにだか申し訳なくて、サボは話題を切り捨てず、少し思案してみる。頬杖をついてブティックが立ち並ぶ通りに顔を向け、結婚…と小さく呟く。しかし、それ以上に言葉が続かないのは、やはり彼の中で結婚の必要性が見出せないからだ。
 サボとナマエの絆は固く、婚姻の有無で何かが劇的に変わるとは思えない。この先もおれたちはこのまま手を取り合って進んでいける。証が欲しければ指輪を送るが、関係性の名称を変えることにいったい何の意味があるのか、どうしてもピンとこない。
 ……そもそも、ナマエはおれと結婚したいのかな。

「あ……、」

 サボは落とし物に気づいたような、無防備な声を出した。
 彼の目は、カフェの斜向かいにある店に留まっていた。

「——……おれ、アイツにあれ着てほしい」

 サボに結婚願望はない。でも、サボがふと指差したものは、ブライダルショップのショーウィンドウに飾られたウェディングドレスだった。
 それは、オフショルダーの純白のドレスだ。レースがふんだんにあしらわれ、広がる裾は春の波打ち際のようにやわらかで美しい。散りばめられたパールが陽の光を受けてやさしく輝いていた。
 それは普段のナマエとは正反対の服だった。

 彼女がダークカラーの服しか着ないのは、戦場でついた汚れが目立たないようにするためだ。
 彼女がいつもパンツスタイルなのは、機動性を重視しているからだ。
 彼女が首から下の露出をしないのは、四肢を衣服で覆うことで身体の保護機能を高めて、無用な怪我を避けるためだ。
 どれもこれも、ナマエが戦場に立つことを前提にした理由である。
 だからいつか、革命を成し遂げて、ナマエが戦場に立つ理由がなくなったら。——サボは彼女にこれを着て欲しいなと思った。
 今の服を選ぶ理由がひとつもなくなった世界で、これを着て笑う彼女はどんなに美しいだろうか。本当に、天界をこっそり抜け出してきた女神さまみたいになるのだろう。明るい日差しの中で、サボが大好きな悪戯っぽい笑みを浮かべる姿がありありと思い描ける。
 サボはこのドレスを着たナマエと翡翠の風を受けて、素足で草原を散歩してみかった。木漏れ日の下で昼寝をして花の香りばかりに包まれてみたくて、ずっと手を繋いでいたい。そうして二人で退屈したい。お腹が空いたねと小さな困り事を話してクスクス笑い合いたいのだ。

「……あれを着てもらうためには、結婚しないとだよ」
「……」
「どう?結婚したくなった?」
「…………結婚しないと着ちゃいけないのか?してなくても、着るだけなら別に構わないんじゃないか?」
「ウェディングドレスを着せておいて結婚はしないとか、かなり酷いよ」
「……」
「最低だと思うなー。ちょっとありえないかなー」
「…………」

 ショーウィンドウの中のウェディングドレスをむっつりと見つめ、今度はサボが黙り込んでしまった。買わないわよ、とお母さんに言われたおもちゃを諦められずに見つめる幼子のような、そんな横顔は彼には珍しいことだ。
 少しでも結婚に対して興味を持ってくれたらとつついてみたが、意地悪がすぎたかしら。コアラは「んー、逆にさあ」と切り口を変えて尋ねてみる。

「似たような白いワンピースじゃダメなの?普段使いできるようなドレスとか」
「…………嫌だ。ああいうのがいい。とても全力じゃ走れないような……実用性のない、綺麗なだけの服」
「うわぁ、ウェディングドレスをそんな風に言う人初めて見た……」
「役に立たない格好、してほしいんだよ」

 ただそばにいてくれるだけでいい。
 サボが全部エスコートして、世話をするから。
 今は彼女の力を借りないと成し遂げられない大義の道の途中だけど。いつかは、寄りかかってほしい。
 自分の両脚でどこへでも勇ましく進める彼女を、サボはお姫様のように抱きかかえて歩きたいのである。


***


 結婚はひとりでできるものではない。
 よって、サボは一人で悩んで結論を出しても仕方ないと迅速に判断を下し、バルティゴへ帰還後、ナマエと結婚について話し合ってみることにした。自分と異なる人間とともに足並みをそろえて生きていきたいと望むなら、納得するまで話し合いを重ね、双方納得できる着地点を見つける努力をしなければならない。
 話し合っても無駄だったではなく、“成果が得られるまで”話し合うのだ。勝つまでやめなければ負けたことにはならない、というギャンブラーと同じ理論を用いて、サボはナマエと破局したくないので話し合いを選んだ。

 夕食後のサボの部屋にて。二人はテーブルを挟んで椅子に座っていた。ナマエは雑談をしながら報告書を読み流していて、サボはその向かいでデザートにと厨房からもらって(くすねて)きたリンゴを剥いている。使い慣れた部屋は落ち着いて話すにはピッタリだった。
 リンゴを8等分にし、1切れずつ芯と皮を取って皿に乗せる。この単純作業を繰り返しながら、サボは口を開いた。
 まずは意思確認から。

「なァ、おれと結婚したい?」

 言い方は最悪のナルシストになってしまったが、幸い付き合いの長いナマエは動じることなく、ただゆっくりと目を瞬かせるだけであった。
 必死過ぎると脅迫しているようだし、軽すぎてもふざけているよう。だから、極力落ち着いたトーンでサボは尋ねた。内心は緊張しているけれど、シャリシャリとリンゴを剥き続けることでなんとか平静をたもっている。

「え、したい」

 ナマエはリンゴをしゃくしゃく食べながら、実に簡単に言った。ぱちくりと瞬いたまま、それがどうしたの?という顔をしている。
 サボは手を止めて、おそるおそるナマエを見た。

「……したいのか?」
「?うん。結婚でしょ、したいね。サボと」
「……」

 普通の乙女ならこんな話題が出る時点で「プ、プロポーズかしら…?」と期待でドキドキし始めるところだが、彼女はどうも違う。
 サボはこの返答を聞いて、剥きかけのリンゴと果物ナイフを持つ両手をパタ…とテーブルの上に降ろした。彼のその様子に気づいてナマエも報告書を伏せてテーブルに置く。

「……ごめん、おれは正直……結婚ってピンとこない。今のままじゃいけないのか?」
「?いけなくはないさ」
「……?じゃあ、なんで……?」
「??サボと夫婦になったことがないからなってみたい」
「え?」
「君とできることは何でもしてみたいんだよ、私」

 と、そう簡単に言って、ナマエは次のリンゴへ手を伸ばしてしゃくっとかじりつく。
 したことがないから、なんて……まるで明日行くレストランを決める時のような、サボにはにわかには信じがたいほど単純な理由だ。
 サボは自分の結婚観を聞いたナマエの顔が何色になるかずっと不安だったのに。赤くなって怒るかも。青くなって泣き出すかも。白くなって絶望するかも。黒くなって部屋を出ていってしまうかも。……たくさん想像してたくさん緊張して、それでも本心のままにそばにいたいから、傷を覚悟で切り出したのに。とんだ肩透かしである。

「結婚しても、きっとおれたちは変わらねェぞ」
「だろうね。でもちょっとだけ変わるかも」
「……たとえば?」
「私は君のことを旦那さんと呼べて、君は私のことを奥さんって呼べる。それって素敵なことじゃない?」
「……」
「“死がふたりを分かつまで”。なかなか覚悟があって、私は好きな言葉だよ」

 ナマエはあまりにも簡単そうに、難しいことなんて何もないように言う。
 こうくると、ムキになるのはサボの方だった。
 なんだか自分の不安や葛藤をまるで理解されていない気がして、サボは「分からないだろ」とついムッとした声を出す。

「もしかしたら、おれが変なひげを生やして貴族以外はゴミだとか偉そうに言い出すかもしれねェし、弟の名前を出して立て替えさせるだなんだって言って酒をせびるような奴になるかもしれねェ」
「っあはは!へえ…サボが……?」
「あるいはとんでもない束縛野郎になって、ナマエはおれの妻なんだからって家に縛りつけるかも。……窓を板で塞いだりな」
「ふぅん。君、それで私を閉じ込められると思っているんだ?このあと鍛錬場に行こう。目を覚まさせてあげる」

 ナマエは少しも臆することなく、むしろ目を細めた。それは月が微笑んだかのように美しい笑みだった。首を傾げたので細い髪が一房さらりと垂れる。

「未来は分からないというなら、私だって……そうだな…たとえば、奇抜な髪色にして天竜人万歳と言い出したり?君の名前を出してあちこちで金を借りまくるようになったり……君は私の夫なんだからと行動を逐一監視して記録するかもね」
「…………。そ…想像できねェ……」
「ふふ、それは光栄だ。さっきサボも同じくらい荒唐無稽なことを言っていたよ」
「……」

 ナマエはサボの手から果物ナイフと剥きかけのリンゴを引き取って、続きを剥いた。

「私の気持ちは色褪せない。サボが道を踏み外しそうなときは、誠心誠意、私が君の手を引くと約束するよ。君もそうして。“死がふたりを分かつまで”ね」

 剥き終えたリンゴがサボの口にやさしく放り込まれる。
 彼女をジッと見つめて沈黙したサボは、口に突っ込まれたリンゴをしゃく…しゃく……とほとんど止まりそうなスピードで咀嚼する。

 サボは変わってしまうのが怖かったけど、どうやらナマエはそうではないらしい。
 彼との未来を少しも疑っていない。これからともに見る新しい景色すべてが楽しみで、行ったことのない場所に行ってみたくて、なるべくたくさんの経験を共有したい。変わってしまったらまた変わろう、そうして一緒に生きていこう。この命が尽きるまで。
 こんなことが簡単に言えてしまうほど、もうすでにサボは彼女の人生の一部なのだ。

 それを理解して。
 サボは口を動かしたまま、フッと顔を逸らした。極力まばたきをせず一点を見つめて、咀嚼だけを繰り返す。噛むべきリンゴのかけらがほとんどなくなっても、サボはリンゴを噛み続けた。そうでもしないと黙っている理由がない。理由なく黙ったってナマエは気にしないのだけれど、それでも今のサボには黙る言い訳が欲しかった。
 ナマエの言葉がずいぶんに嬉しかったから。うっかり泣いてしまいそうで、自分の気持ちを宥める時間を稼ぎたかった。
 長い時間をかけてサボは口内のリンゴをすべて嚥下し、ナマエを見つめて言った。

「……おれさ、ナマエにウェディングドレスを着てほしいんだ」
「うん」
「今はまだ着せてやれないけど……いつか、おれの隣で着てくれるか」
「ふふ、ありがとう。楽しみが増えた」

 やはり彼女は勝利の女神で、彼女の起こす革命は必ず成功を納める。
 サボの人生に小さな革命が起こった瞬間だった。


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