ピイちゃん
上空100メートル。
マルコはとあるナワバリの島の偵察からモビー・ディック号へ帰る途中だった。ちょうど小さな島へ差し掛かった時である。明るい若草色が広がる雄大な大地を見下ろし、風に揺れる草葉のサワサワとした音を下に聞いて滑るように飛んでゆく。そして、ふとマルコは呼びかけるような声に気づいた。
声の出所を探して視線を下にずらしてみれば、誰かが草原を走っている。マルコを追っているようで、その姿はなにやら懸命だ。その人は顔をあげ、大きく手を振り、耳を澄ませば風の音の隙間からか細い声が確かに聞こえた。
マルコはスピードも高度も落とさず、数秒それを観察した。
白いスカートのすそがひらひら翻っていることから女。煙の立ち上る民家がポツポツとある有人島だから遭難の類ではなさそう。しかしここは白ひげのナワバリでもないし、マルコの個人的な知り合いもいない、はず。鳥類の脅威的な視力でいくら見てもやはり覚えのない顔だ。
となればわざわざ羽を止める義理もない。このまま飛び去ろうと決めてマルコが前方に意識を戻した矢先、地表からきゃあっと悲鳴が上がった。
その女はすっ転んでいた。一生懸命走っていたから結構な勢いである。草っぱを手のひらと膝につけ、スカートを土で汚して、よろよろと体を起こしている。
あーあ……と思い、派手にやったなあ……と思い。しかしここで放っておくのは医者として、男としてどうかと思われ。
「はあ」
結局マルコは体を傾けてゆるりと旋回しながら下降した。
きっと飛んでいってしまった、もう追いつけやしない——……彼女はしゅんと俯き、擦りむいた手足の痛みとともに心までじんじん痛めた。
そんな彼女を丸ごと覆うように青い影が落ちる。
何事かと彼女が弾かれたように顔を上げた途端、強い風が正面からぶつかった。彼女の髪は後ろに流れ、前髪もめくれて丸いおでこが露わになる。
風の正体はマルコだ。地表近くで地面に向かって数回羽ばたいて落下速度を落とした彼は、巨大な両翼で彼女の視界を青一色にして目の前に降り立った。
翼で閉じ込めた空間は揺らめく炎の青さで満ち、瞬きも惜しくなるほど幻想的な美しさであった。
いきなり人間の姿に戻ったら驚かせてしまうだろう。少し様子を見たらすぐに別れる人間のために悪魔の実だなんだと説明するなんて億劫だし、マルコは余計な手間を回避するために不死鳥の姿でいた。
鳥に擬態したまま、マルコは無言で首を伸ばして怪我の具合を見る。珍しい鳥を見つけて興奮していたのか何なのかは知らないが、見たところただの擦り傷である。柔らかい豊かな草花のクッションのおかげだ。放っておいても差し障りはなかろう。
マルコを見上げた彼女は、しばし驚きで息を詰まらせ……そして、じわっと涙ぐむほどの感激に心を震わせながら微笑んだ。
「ピイちゃん……!!」
瞬間、マルコの脳天にイカズチが落ちる。
海馬の奥底に深く深く沈めていた記憶が掘り起こされたのだ。
“ピイちゃん”——かつて彼に付けられた名である。
それを23年越しに呼ばれた瞬間だった。
***
23年前。20歳のマルコは、なにかと頑張りすぎていた。
彼が見習い時代からの陽気さを残しつつも、堅実で頼もしい一面が板についてきた頃であり、ちょうど1番隊の副隊長に就任した時期だった。
航海術や医術の勉強、戦闘訓練、悪魔の実の能力のコントロール、覇気の修得、エトセトラ。どれもやればやった分だけ知識も能力も伸びていき、マルコ自身もそれが嬉しいし楽しかった。
プレッシャーや挫折もなく、周りの期待に応えられている手応えもそこそこあった。
とにかく順風満帆で充実した日々だった。
「マルコ、この島まで飛べるか?」
一番隊の隊長はトン、と海図に指を置いた。
集まった隊長たちは作戦会議をしていた。地図を広げたテーブルを囲んで立っており、マルコはそこへ呼びつけられたのだ。隊長たちはみながたいが良く、その中に入るとマルコの体つきは細く見える。実際頭ひとつ分小さい。そんな発展途上の若いマルコのために、彼らは体をずらしてスペースを空けてやる。
マルコは両眉をくっと上げて地図を覗き込んだ。つい昨日出航した島が同じ地図の隅あたり、指の影が落ちる目的の島はそれのほぼ対角線上。
海図の見方は習っている。地図の端にある縮尺を見て目視で距離を概算。それから風向きや気候を変えるほどの大きな島があるか、あればそれは何島か……そのような小難しいことをなるべく素早く、正確に、パズルのように組み立てて考え。「飛…、べると思うよい」と結論を出す。
「そうか。この辺り、最近きな臭くてな」
隊長はマルコに掛からないよう顔を左に向けてタバコの煙を吐いた。
オヤジのナワバリでなにか厄介ごとの気配があるようだ。彼はその一言でそうした事情をにわかに察し、仕事だ!と密かに胸を躍らせる。
「隊長、おれは何してくりゃいいんだ?敵の殲滅?」
「調子に乗るな阿呆。偵察だよ、偵察」
「偵察」
「そう。島の様子と、でかい船があればその数。分かる範囲でいいから見てきてくれ」
「任せてくれよい!」
「活きがいいねえ」
マルコはよしきた!と背筋を正した。
見習いの頃は地味な役回りを体よく押しつけられているんだと思っていたが、上空からの偵察はマルコの特性を活かした、マルコにしかできない任務だとオヤジに口説かれてからは誇らしい役目だと認識を改めた。マァ「偵察って隠密行動だろ?なんかニンジャっぽくてかっこいいよな〜」とイゾウにニコニコと言われたのも大きかったが。
いずれにせよ、マルコは全身にやる気をみなぎらせ、出発に向けてさっそく準備を始めた。
ティースプーンひとさじ分の頭痛と、スズメの涙ほどの倦怠感はあったけど。
先輩船医から無理は禁物だと耳にタコができるほど言い聞かされていたけど。
体力には自信があったし、本当に些細な不調だったから。
自分の体のことは自分が一番よく分かっていると本気で思っていたから。
慢心が良くない方に天秤を傾けた。
この日初めて、マルコは生涯で片手で数えられるほどしかない痛恨の誤診を下したのだった。
***
「……ぶぇッくし」
派手なくしゃみをひとつ、マルコは町外れの草っ原で目を覚ました。
鼻を啜って体を起こし、やっぱり野宿なんかするもんじゃねェなあ…と凝り固まった首を回す。辺りはまだ薄暗い。服についた土や草を軽く払うと、寝転んでいた背中側が夜露で冷たく湿っているのが分かってまた気分が下がる。
偵察の仕事は無事に終わった。調べてこいと言われたものをきちんと調べ上げ、あとは船に帰るだけ。しかし終わった頃にはとうに日は暮れ、大人しく宿を取ろうと持ち金を確認したところでようやく財布の中身がほぼカラになっていることに気づいたのだ。
宿は取れない、でも野宿をするにはちと涼しい気候。どうすっかな…と迷ったのは一瞬で、すぐにマァいっかと切り替えて出た結論が野宿である。
同じ船上にベッドがあるのにそこまで辿り着けず、甲板で酒瓶を抱いて目覚める朝もあるのだ。野宿がそれほどあり得ない手だとは感じない。確かに健康には良くないけど、所詮海賊なのでその辺は大雑把である。
「うー、さみ……行くかァ……」
マルコは軽いストレッチをして体のあちこちをバキバキ鳴らした。草っ原の少し先は海に面した崖になっている。気だるい足取りでそこまで歩いていき、マルコは夜が明けて間もない仄暗い海を眺めた。
日が昇りきらない内に飛ぶのは青い炎が目立つから本当は良くないのだが、今朝は分厚い雲が空を覆っているし、その上を飛べばいいやと思った。
雲を越えるなどもはやマルコには容易い芸当だ。どれだけ飛行訓練をしたことか。その翼を自由自在に操れるようになった彼にとって、気をつけるべきことは空の上で帰り道を見失わないことだけ。
マルコは仲間のビブルカードで船の方角を確認し、全身を青い炎で包んだ。そして、その炎から生まれたがごとく不死鳥の姿で島を飛び立つ。
真っ直ぐに空へ向かい、分厚い雲の中へ。そのまま突き抜ければ遠近感のない青ばかりが続く空の世界だ。
先ほど目星をつけた方角へ順調に飛んでいく。
飛んでいた、のだが。
「………?」
しばらくして、体が重たい気がしてきた。
羽ばたくのがしんどい。なんか頭も痛いし、気圧のせい?なったことないのに。空気が薄いような、頭の中が不明瞭になっていく。やけに寒いがここはなんだ、寒冷前線にでも突っ込んだのだろうか。
……あ、まずい。目の前が回ってる。真っ直ぐ飛んでるはずなのに体の中身を揺さぶられるようで、なんだか、気持ちワル……。……
平衡感覚を失った途端、ぐらりと力が抜けてマルコは真っ逆さまに落ちていった。分厚い雲を今度は下に向かって突き抜ける。
雲の中、冷たい氷の粒に全身を叩かれてハッと意識を取り戻す。ヤバい、死ぬ!と根性だけで再び羽ばたいて体勢を立て直す。なんとか飛行を続けようとしたが。
「……っ、!」
コントロール不能な視界は最悪だった。
乱気流に揉まれ、天と地がぐるぐると入れ替わり続ける。そして、とうとう脳みそが完全にクラッシュする。もう駄目だった。
マルコは今度こそ落ちていった。
結論、マルコは死んでいない。
頭は割れるように痛いし、体は泥袋のごとく重たいし、悪寒も眩暈もこの世の終わりかと思うほどひどいし、左の翼には……冗談みたいに太い枝がぶっすり刺さっているけれど、死んではいなかった。
とても立てるような状況でもなかったけど。
マルコが墜落した場所は島の上で、幸いなことに木の上だった。
気合と精神力となけなしの見聞色の覇気だけでギリギリまで奮闘し、なるべくマシな落下地点になるよう足掻いたのだ。
万が一を考えて島を渡るように飛べという隊長の教えが役に立った。あとは、こんなところで一人ぼっちで死んでたまるか、という彼の強烈な人間的帰巣本能が成した結果であった。
落下による打撲や切り傷は再生の炎であっという間に治っているのだが、翼の傷だけはそもそも枝を抜かなければならない。抜かねばならないのは山々だけど、これ以上体を動かす気力がない。
ひとまず不死鳥の姿で最大限の自己再生を続け、もう少し…もう少し休んだら……とマルコが目を閉じてぐったりしていると。
「うっ、うわ゛ぁあん」
「…、…?」
小さな女の子がマルコを見つけて号泣した。
地面に伏したマルコを前に、棒立ちになって火がついたように泣いている。歳は5つほどの、栗毛の少女だ。
見たこともない巨大な鳥が怖いのか、太い枝が刺さった生き物が今にも死に絶えていきそうな様が恐ろしいのか、ただ単に驚いてパニックになっているのか。挙げられる理由はいくらでもあったが、いまのマルコは泣きじゃくる少女を見て「おお…えらく泣いてる……」までしか思い至らない。高熱に浮かされた頭ではまともにものを考えられなかったのだ。
彼が無視し続けた些細な体調不良はいま、寒空の下での無策な野宿と長距離飛行の体力消耗によってドン底に達していた。
「おっ…、おふどんどっでぐる゛っ」
…おふとん……?
マルコは脳裏で反芻し、パタパタと遠ざかっていく小さな背中をただ見送る。
取り残された彼は寝てしまおうかと思うものの、「また泣くかな……」とも思い……朦朧とする意識の中でなんとか体を動かしてクチバシで枝を抜き去った。ゴトン!と抜いた枝をその辺に転がし、再び地面に伏せる。翼が一瞬強く燃え、傷はそれだけで治った。流れた血だけがこびりつくように残っていた。
マルコは薄く目を開けて嵐のような体調不良をやり過ごす。
「じ…じな゛ないでえ゛」
程なくして、ムギュと柔らかいシーツが翼に押しつけられた。
体の大きなマルコのために役に立ちそうな、一番大きくて清潔な布がこの子にとっては布団(シーツ)だった。包帯代わりにしてやりたいようで、短い腕で彼の巨体にシーツを巻きつけようと四苦八苦している。
体に掛けられたそれは涙が出るほどあたたかく、マルコはベッドサイドのランプをやさしく吹き消されたように意識を手放し…かけた。
「ねちゃだめ!!」
バチンと容赦なく顔を叩かれ、強制的に意識を引き戻される。
しぬな!と少女は必死にマルコを文字通り叩き起こした。少女にはマルコが事切れて動かなくなる寸前に見えたのでそりゃもう必死だ。
別にこんなもちもちの手に叩かれたところで少しも痛くはないが、寝るにはこの上なく鬱陶しい。いや寝かせてくれ。休ませてくれ。参ったな……頭に響く……。
「……」
「きゃーーっ」
困ったマルコは翼の下にモフッと少女を仕舞った。甲高い悲鳴が羽の隙間から上がる。もちゃもちゃ暴れて翼の下から出てきた頭にマルコは追い打ちのように顎を乗せる。マルコの重みで5歳の小さな体が再び羽毛に沈んだ。
しかし少女は羽毛の中、間近でトクトク鳴る彼の心音に気づいて「あ」とまるっこい声を出す。
少女は暴れるのをやめ、やがてマルコの体にそろりと腕を回した。
「だ、だいじょうぶ、だいじょうぶだよ……」
あやすように紅葉の手がぽんぽんとマルコの背をやさしく叩いた。大人しくなった少女に彼もようやくホッと息をつく。
マルコは別にあやしてほしいわけでも抱きしめてほしいわけでもなく、かつてオヤジにこれで黙らされたので、同じ手を試してみただけだ。
あの日、いつになく深手を負ったオヤジはだくだく流れる血よりも、目の前でピイピイ泣いて慌てる自分の方がよほど厄介だったらしい。黙って抱き寄せられて聞いた父の心音ほど“大丈夫”を雄弁に語るものは他になかった。海の底まで響きそうなクジラの心臓の音を、マルコは今でも覚えている。
再生の炎だけでは病は完治できないが、ウイルスの進行は遅らせられる。病状の悪化を食い止め、うまくして再生の力の方が上回れば少しずつでも体調は回復する。体調がマシになれば薬をもらいに医者を探しに行ける。……
マルコは茹だった脳みそでなんとかそこまで考え、まずは自分の体のことに専念した。
再生の炎でつくられた鳥の体のまま、喋る気力もないので押し黙ったまま、幼女のなでなでをその背に甘受したまま。
空腹で覚醒した。マルコはくわっ…とクチバシを開けて欠伸をする。
多少の熱と頭痛、気だるさはまだあるがマルコの体調は断然マシになっていた。なによりも偉大な若さが手伝って、発展途上の能力であってもその再生力は凄まじかった。
だが体内のウイルスを殲滅するには至っていない。やはり抗生物質できちんと治しきるべきだ。見習い船医の肩書を持つ者として、マルコは同じ轍を踏むわけにはいかない。
まるっきり鳥の仕草で毛繕いをしつつ、寝起きの頭で断片的に覚えていることを繋ぎ合わせて状況を整理していると、少し離れた場所から「あ!」と声が上がった。
「ピイちゃん、起きたんだね!」
「……ピ、ピイ…………?」
「えへへ、お返事できてえらいね!」
「……??」
驚きのあまり、マルコはス…と青く長い首を垂直に伸ばして辺りを見回した。ほかに人影はいない。
ピ……。…誰のことを言ってる?……まさか、おれか?
そのまさかである。少女はニコニコ駆け寄り、精いっぱい背伸びをして自分よりもずっと高い位置にあるマルコの頭をぽんぽん撫でた。
今世紀最大のキョトン顔でマルコは少女を見下ろす。
今は打って変わってニコニコしているが、よくよく見れば先ほど泣いていた少女であった。
「ピイちゃん、羽はもう痛くない?元気になった?」
「……」
「ごはん持ってきたよ、食べられるかな?」
「…………」
「パンとー、ハムとー、チーズとー……」
「………………」
「あ、お水!先にお水のもっか!」
少女はマルコのすぐ隣に腰を下ろし、えっちらおっちら持ってきたバスケットを地面に置いて中身を広げる。鳥の表情筋は乏しいので分かりづらいが、マルコは眉間にぐー…っと皺を寄せて羽毛の下に汗をかいていた。
もしも人語を喋ったとして。または人の姿に戻ってみせたとして。気味悪がられたら、この子はまたあの声量で泣くだろう。
このくらいの歳の子どもには大抵親がついている。大人を呼ばれたら困るのだ。マルコは見るからにただの野鳥ではないので、きっと武器を向けられて追い立てられる。または捕獲される。最悪駆逐対象にされる。騒ぎになれば医者をあたるどころか薬の調達もできない。マルコは穏便に、かつ迅速にこの島を発って偵察の任務を完遂しなければならないのに。
隊長たちが自分を待っている。しくじればこのあとの作戦にだって支障が出る。情報は鮮度が命、昨日得た情報を速やかに伝達するのがおれの役目。
こんなところで油を売っている暇はない!
少女はまだマルコをただの大きな鳥だと思っている。ピイちゃんなどとふざけた名前をつけて隣を陣取るくらいだから、警戒心のカケラもない。幻想的で素敵なヒミツのお友達ができたんだと信じているのだ。
正体を明かすリスクを考えると、少女の前ではこのまま鳥のフリをして、隙を見てオサラバするのがよかろう。どうせ治癒を考えたら不死鳥モードは解かない方がベターなのだ。
よって。鳥擬態、続行である。
「ごはん食べようね。はいどうぞ」
「……」
とはいえ、純朴な少女を騙しているようでなんとも決まりが悪い。差し出されたハムとチーズの即席サンドイッチをチラと見て、でも仕方ねェよな……とマルコはぱくっと食いついた。
とりあえず腹を満たしてから考えよう。
マルコは持ち寄ってくれた食糧をありがたくいただきながら、なるべく少女の方を見ないようにして景色を眺めた。
絵に描いたような田舎だった。豊かな緑と地肌の茶色、遮蔽物のない空の青。少女の家と思われる民家が建っている以外、見事に何もない。舗装されていない土の道が細く遠くどこかへ続いている。道沿いに民家が数軒ぽつぽつと見えたがそれだけだ。
酒場もなさそうなこんな島、マルコなら3時間で飽きて船に帰りたくなるだろう。内訳は散策30分、薬草探し30分、昼寝2時間。こんな場所で急患が出たらどうするんだろうなとぼんやり考える。
マルコがぼけっとパンを食べている間も、少女はたくさん話をしてくれた。
自己紹介から始まり、ここがどんな島であるか、好物から苦手なもの、近所に住むおばあちゃんと仲良しで毎日夕方になると訪ねてきて夕食をともにすること、日向ぼっこに最適な場所や犬は苦手だけど鳥は好きなこと。
「ママは去年死んじゃってね、いまはパパとふたりで暮らしてるんだあ」
家族構成だとか。
「パパ、お仕事忙しくてあんまり長くはおうちに居られなくて……わたしが起きる前に出掛けてね、寝てから帰ってくる……」
寂しさを感じる瞬間だとか。
「でもごはん、毎日作っておいてってくれるんだよ。わたし、いつも眠くて目が開かないんだけど、朝と夜におでこにチュッてしてくれるの」
それでも愛が溢れていることだとか。
「だからわたしは平気なんだよ」
下手くそな嘘だとか。
少女はマルコが鳥だからこれを話せた。大人だったら話さなかった。会って間もない鳥にぽろっとこぼせるくらい日常的に抱えている感情だったし、どこかに吐き出したい感情だった。
俯いてパンをかじる少女の目元は先ほどマルコを見て泣いたせいか、少しだけ赤く腫れていた。
言葉を掛けてやれない代わりにマルコは少女の目元に尾羽を寄せた。彼女はくすぐたいとケラケラ笑って尾羽をのけようとしたが、マルコは構わず羽を当てる。気づかれない程度に弱火でちろちろ炙れば、赤みと腫れはスッキリ引いた。
治し終えてふらりと離れていく金色の尾羽をジッと目で追い、少女は唇を口の中にしまう。やや緊張した面持ちで、そろっとマルコを見上げる。
視線は感じたが、マルコは気づかない風でクッと首を上に向けてクチバシだけで器用にハムを食べる。
「ピイちゃん」
「……」
「も、もしかしてなんだけど……」
「……」
「ピイちゃんは、魔法の鳥……?」
「ブッ……」
思わぬ展開にハムを噴き出しかける。なんだ、魔法の鳥って。
このリアクションに少女は「やっぱり言葉がわかるんだ!」と一気に興奮して体ごとマルコの方を向く。
「だって!だって羽キラキラだもん!燃えてるみたいなのに熱くないし!」
「……」
「ま、魔法の鳥なの?魔法が使えるの?ピイちゃん、ねえねえ…!」
「……」
「そうなの……!?ちがう……!?」
キラキラハフハフした顔でマルコを見上げる。
魔法。魔法ときたか。まあそれなら、喋ってもおかしくはないか。さすがに人になったらあまりのギャップに泣かせてしまいそうだけど……子どもとはいえ島民。町の方角くらいは聞き出せるかもしれない。
ハムを咀嚼して嚥下するまでの間にマルコはそう結論づけて、その“魔法”とやらに乗っかることにした。
改めて視線を向けると、熱のこもったツヤツヤの瞳とバチッとかち合う。少女は固唾を飲んでマルコを言葉を待っていた。
「……そうだよい」
「きゃーーっ!こっ、声がおじさん!!」
「あ!?」
「か…かわいくない……!」
「う、うるせェ!」
予想外の誹謗中傷にちょっとだけ傷つく。
しかし声が可愛くないくらいでは少女の興奮は萎えたりしない。頬を両手でもちっと包んで驚きながら、えっとえっと…!と次の言葉を探す。
「ピ。ピイちゃんはどこから来たのっ?」
「……海のずっと向こうからだよい」
「!すごい、旅してきたの!?」
「まあそんなとこだな」
「ほかにもお友達いる?ま、魔法の……」
「……ダイヤモンドみたいにキラキラな奴がいるよい」
「ダっ……、すてき…!」
「ハハ、女は宝石すきだもんなァ」
投げかけられる質問に本当と嘘を混ぜながらマルコは適当に答える。少女は彼の言葉を心配になるほどスルスル真に受けて目を輝かせた。すっかり魔法の鳥さんに夢中である。
そして、バスケットの中身ももうじき空になる頃。マルコがどうやってこの子を撒こうか考えている頃。
「ピイちゃんはどうして落っこちてたの?飛ぶの、失敗しちゃった?」
「あー、少し具合が悪くてね。飛んでるうちに気分が悪くなって落ちた」
「風邪?」
「たぶん……」
「具合が悪いときは寝てなきゃだめだよ」
「ごもっともで……」
こんな幼い少女にすら当たり前の説教をされ、マルコは不甲斐なくて消え入りたかった。でもそれと同じくらい早くこの失態を挽回して、仲間のもとに帰りたかった。
医者の場所を聞き出してさっさとずらかろうと胸の内でため息をつく。
「じゃあパパに治してもらおう」
「ん?」
「パパ、お医者さんなんだよ」
「なにっ!?」
話が変わった。
マルコはキュッと両眉を上げて勢いよく少女を振り返る。膝をおそろしくパンくずだらけにしている少女は、サンドイッチを頬張った格好で無垢にマルコを見上げた。
「い、今どこにいる?」
「パパ?パパは町のシンリョージョに行ってる」
「町……やっぱり町はあるのか、安心した。町はでかいか?」
「お店とか公園とかいっぱいあるよ」
「んで、オトーサマはそこの診療所にオツトメ、と……」
「おうちから遠くてね、シルバーに乗って1時間かかんの!」
「お前んちでは診察しないのかい?」
「シルバーは馬でね、うちで飼ってる馬でね、白っぽい毛で」
「わかったわかった、馬、馬な。シルバーだなウン、んで家で診察は?」
「んと、患者さんたまにくる。シルバーはにんじんが大好きでね、」
マルコは馬の話を聞き流しながら、しめた!と内心拳を握る。
家で診療をするなら薬もあるはず。抗生剤などもっともスタンダードな部類の薬、ないわけがない。
「あーっ」
「なっ、なに?」
「いけねェ、こりゃビョーキだ、アッカした、家に案内してくれよい、頼むよい」
「!う、うん、わかった!」
本当に心配になるほど騙されやすい娘であった。
マルコが転がり込んだ少女の家の中は、褪せた暖色の空間だった。
壁にかけられたパッチワーク、埃の被った空の花瓶、レースのテーブルクロスと小花柄のキッチンミトン。写真立てに収まるのは三人家族。やさしくて、少し寂しい匂いがする。
見なければいいのに、マルコはついそれらを目で追ってしまった。一般の海賊連中がそうであるように無関心でいればいいのに。関心を寄せたとして深く心に留めなければいいのに。
俯いた横顔なんか、思い出さなくていいのに。
「ピイちゃん、わたしのベッド使っていいよ。やすみな」
少女に羽を引かれる。立った位置から改めて見下ろすと、彼女はマルコよりもずっと小さい子どもだ。
だからといって、何をしてやれると言うのか。マルコは床の板目に視線をずらして微小な気まずさを静かに呑みこむ。
「あー、ちなみにパパの部屋は?」
「?あっちの部屋…」
「仕事部屋かい?」
「お薬の部屋だよ」
「ほーお……」
微かに薬草の匂いがする。少女が指差した部屋へ足を進めると、むんずと尾羽を掴まれる。
「ピイちゃんまって、だめだよ、パパのお仕事部屋は入っちゃだめなんだよ」
「ちょっとだけだよい」
「おこられる」
「魔法を使うからバレないよい」
「ま、まほう……!?」
「魔法魔法」
扱い方がだいぶわかってきた。緩んだ手からするんと尾羽を抜き、「魔法を使うから覗くんじゃねェよい」と釘をさす。
「えっ、魔法見たい!」
「だめだよい」
「なんで!?」
「子供が魔法を見ると爆発する」
「えーっ」
「大人になったら見せてやるよい」
「見たい……」
「大人になったらな」
「〜っ、じゃあなんの魔法っ!?なんの魔法つかうの!?」
「これから考えるよい。何にしようかね」
歌うように笑ってマルコは扉の向こう、“パパのお仕事部屋”に消えた。そーっと内鍵を締め、マルコは人の姿に戻って部屋を見まわした。
書類が積み重ねられたデスクと椅子、壁を埋めるように配置された書架と、薬品棚。マルコは適当に目星をつけてさっそく棚を物色した。
扉の向こうから「ピイちゃーん」と少女の声がする。
「ねえ、呪文とかあるっ?」
「あー?呪文?呪文ねえ…あー、えーと、よよいのよーい」
「……ちょっと、ダサいね……」
「うるせェ」
「キャハハ」
マルコも釣られて少し笑った。
正直なところ、シャンクスやバギーのような海上育ちのジャリガキとはまったく違う、ちょっとつつけば泣きそうな(実際泣く)少女など完全に持て余してしまうと思っていた。こんなたんぽぽみたいなやわっこい少女をどう扱えば……と内心不安だったが、まったくの杞憂だった。
ロジャーの船の小僧たちなんかよりずっと単純で子供っぽくて扱いやすい。
なんというか、無垢に育ってんだなァ……という感じ。
「ビンゴ」
マルコは棚から見慣れた薬草名が書かれた瓶をくすね、手のひらの上で弄んだ。中から一錠取り出して素早く飲み下す。
ホ、と安堵してデスクに軽く腰掛けた。自重から解放された血液が水に落としたインクのように足の裏からじわと広がって一瞬のぼる。瞼を伏せたマルコは親指で目頭をカリカリ掻いて、うなじの辺りにうっすらとこびりつく気だるさを自覚した。
あとはひたすら寝て体を休めて、朝イチで船に帰る。もともと3日以内に戻れという命令だ。予定より1日延びてしまったが、マァ許容範囲内である。
大丈夫、だいじょうぶ……とジリジリと脳裏で燻る焦りをいなし、鼻から静かにため息をついて目を開ける。
そして、物色を再開した。少女のオトーサマには申し訳ないが、薬を拝借しただけでは足りない。
地図がほしかった。
「お、」
そうして漁った机の引き出しにお目当ての地図を運よく見つける。自生する薬草の分布が丁寧に書き込まれたそれは島全体の地図だった。
マルコは船から持参していた海図をいそいそと取り出して島の地図と突き合わせる。島の形から当たりをつければ、ようやくこの海域での現在位置がわかった。さらに、海図の上でビブルカードを彷徨わせて船の方角も確認する。
マルコはチョリチョリ伸びてきた髭を撫でながら、地図へ目を落としてしばし思案し。
マなんとかなるか、と結論づけると、不死鳥の姿に戻った。
「!終わった?」
「よい」
「もう寝なきゃだよ」
「よいよい」
「……?ピイちゃんどこ行くの、ベッドこっちだよ?」
「外」
「えっ…あ。あ、う…だ、だめだよ、風邪のときはちゃんと休まないと、」
「鳥だから木の上の方が落ち着くんだ」
「べ、ベッドの方がいいよ!」
「どうかなあ」
「アッカしてるって!さっきゆった!」
「ゆったな、ゆったけど家入ったら途端に元気が出てきたよい。すげェや、ここは魔法の家だ!」
「うそ!」
「ほんとほんと」
尾羽を一生懸命引く少女をズリズリ引きずってマルコは容赦なく玄関へ向かう。
夜になったら隣の家のばあさんがくる家でおちおち寝てはいられない。目的を達成したいま、無垢な少女をこれ以上騙すのも夢見が悪い。多少強引にでも立ち去るべきと腹を決めていたマルコは足を止めようとしなかった。
「おっ、お布団っ、ない!」
「っと、……あ?」
脈絡のない発言にマルコは思わず振り返った。
少女は斜め下に顔を向けて、なにやら意を決した顔つきでモゴモゴしている。
「お布団…ピイちゃんに、あげちゃったから……」
「……」
「わたしもお昼寝するのに……夜も…寒くて眠れないとおもう……」
「……」
「どうしよう……」
「……」
「どうしたらっ、いいかなあー……」
「お…おお……」
こいつ、一丁前におれを脅してやがる!
喉の入り口辺りで不発に終わった笑い声がグフッ…とくぐもった空気の塊になった。
少女はシーツをダメにした見返りをマルコに一生懸命要求しているのだった。ツンと唇を尖らせて精いっぱいの批難と懇願を込めた視線をマルコにチラチラ送っている。
20のマルコにはまだ父性も母性もなかったが、マヌケなたんぽぽちゃんのコレはさすがに可愛いと思った。
小さい生き物にこんなに真っ直ぐ懐かれたのは初めてだ。下手くそな小芝居を打って、そうまでしておれを引き留めたいかね、となんだか心が強制的に柔らかくされる。
絆された、ともいう。
「そりゃあ……羽毛布団が必要だな」
「!」
力が抜けて、結局踵を返したマルコに少女はえへえへ笑い、えへえへベッドに入って、マルコの巨大な片翼(もとい片腕)を掛け布団のように体にえへえへ乗せて、えへえへ目を閉じた。もはや虚勢を張っていたなどキレイに忘れ、うれしい!を全身から惜しみなく垂れ流していた。こういう島だとこういう子が育つのだなァ、と特産品のひとつでも見ている気分だった。
えへえへのたんぽぽちゃんを見て緩くなった心でマルコは思いつきを話してみる。
「町の方には移り住まないのか」
「え?」
「診療所が近くなれば、父親ともっと長く居られるだろい」
「えー…引っ越すってこと……?だめだよう……」
「?なんで」
「ママといたおうちだもん。お引越ししたら、パパ、泣いちゃうよ。寂しがりだからここがいいんだとおもう」
「……そうかよい」
「うん」
一人のベッドの寒さはいかほどか。しかし少女は寒いよりパパが泣かない方が大事らしい。
「ピイちゃん、きもちいいね」
「……」
それが単なる羽毛布団の感想ではないことは何となくわかった。
マルコは片翼を広げたうつ伏せの体勢で、目線だけ少女にチロと寄越し……何を言えばいいか分らなかったから「ピイ」とだけ鳴いてやった。
彼の気も知らず、やはり少女はえへえへ笑って幸せそうに深く息をつく。
少女はものの5分で寝落ちした。思ったより早く片がついたな、と思いながらマルコはゆっくりと翼をのける。子供のやわらかい腕が重力に従ってシーツの上にくたっと伸びた。寝息は穏やかなままだ。
夢のような魔法の鳥は目覚めると姿を消していました、なんてそれこそメルヘンチックな締めくくりで丁度よかろう。
「……」
マルコはこれ以上何かを思う前に、少女の寝顔から目を逸らして立ち去った。
青い炎がマルコを一瞬包み、人の姿に戻す。
物音を立てずに少女の家を出たマルコは、視察がてら島の上空をあらかた飛んでから島の外れに行き、木に成っていた果実をかじって巨木の根元で一夜を明かした。
夜が明ければ今度こそ船に帰るため、マルコは島を飛び立った。
***
マルコが偵察で掴んだ情報とは、白ひげのナワバリの一角を突き崩してやろうと目論む血気盛んなバカの話だった。
ロジャーが偉大なる航路を制して海賊王を冠したことで、奴のあとに続けとばかりにそういった有象無象がドワッと増えた。手っ取り早く名を上げたいと願う、自己顕示欲だけが肥大化した怠惰な輩が。
この海域にあるナワバリの島はひとつだけだが、その周りの小さな島々も実質的には白ひげの旗印の恩恵を受けている。周辺海域の治安維持であったり、交易であったり、医学の伝播であったり様々だ。
小さな島々は寄り添いあって互いの暮らしを支えているのである。
さて。
そんなナワバリを直接叩くと恐ろしい親玉が飛んできてしまうので、バカたちは周りから攻め落とすことにしたらしい。交易ルートを絶ってナワバリの島を孤立させる。白ひげの部下たちが救援にきたら、周辺の島々に潜ませていた仲間たちで取り囲んで一網打尽、というシナリオを描いて周りの島々を攻略中なのだとか。なんともファンシーで独創的でみみっちい計画であるが、白ひげのナワバリ近くをうろつく海軍船も早々ないため、今のところは順調に事が進んでいた。
血気盛んな有象無象たちも、なにも本気で白ひげを討ち取ろうというわけではない。
ただ少し、白ひげのナワバリをキズモノにしてやった、という勲章をもって己の評判に箔をつけたいだけなのだ。ささやかで慎ましい浅はかな夢を見て、小鼻を膨らませているに過ぎない。
とっくに本船の隊長たちに嗅ぎ付けられているとも知らず。
近隣諸島への被害が、ひいてはナワバリへ影響が及ぶ前に有象無象を潰したいところである。すみやかに策を打つべく、マルコは流星のごとく真昼の空を駆け抜けていた。ただでさえ1日の遅れが出ているのだから大急ぎだ。くすねた抗生剤のおかげで体はスッカリ元通りである。
ふと、大海を往く船が視界に入った。見慣れぬ海賊旗を掲げた怪しい船が3隻。それがマルコから見て2時の方向にある。
おそらく海賊船の向かう先は。
「……っあ、」
今朝マルコが飛び立ったばかりのあの島だ。
マルコは思わず急旋回し、上空に滞留した。
遠く霞むほど遠ざかった島影と眼下の船へ交互に目をやり、クシャ!と苦く顔をしかめる。瞬き1回分にも満たない短い逡巡ののち、マルコは大きく舌打ちをして、再び空を真横に裂くような一筋の青になってモビーへ直向きに飛んでゆく。
任務外だ。
あの島はナワバリじゃないから、白ひげが守ってやる義理はない。
そもそも、あそこはマルコも立ち寄るはずのなかった島。だからそこで何があろうと気に掛けるべきでないし、もっと明確に優先して守るべきナワバリがある。
モビー・ディック号では白ひげが絶対で、その下の隊長らが四肢となって動き、それ以下は血肉や細胞となって与えられた使命を円滑に遂行するのだ。往々にして正しく結束した巨大な組織とはそのようにできている。上意下達の絶対的縦社会。実力主義の海賊の世界ならなおのこと。そう理解している。
つまり、マルコにモビーの航路や作戦を変えるだけの発言権はない。確かに1番隊の副隊長にはなったが、それだけだ。就任から日も浅い。事実、今回は自己管理不足でやらかしている。その上、完全なる私情で物申そうなど……。
でも、だけど。あそこには…。けれど、おれは何かを指図できる立場なんかじゃ…だがしかし。……
「ックソ!!」
今のマルコは飛ぶしかなかった。
これは反吐が出るほど悔しいことだった。
マルコは転げんばかりの勢いでモビーの甲板に降り立ち、青い炎と黄金の尾を出しっぱなしにしたまま隊長がいつもいる部屋へ駆け込んだ。ノックも挨拶もなしに、汗みずくで部屋に現れたマルコに、1番隊の隊長は片眉をクッと上げて目を丸くした。
「どうしたマルコ。お前にしちゃァ、ちょっと遅かったな」
「隊長っ、おれ、話が、」
「マルコ。まずは報告だ。てめェの話は役目を果たしてからにしろ」
「、」
勢いのまま好き勝手に言い募ろうとしたマルコにピシャリと言いつけ、隊長はタバコの煙を吐いた。
マルコはその圧に背筋を正して、ぐっと言葉を呑みこむ。一瞬だけ目を左下に向けて息を整え、マルコは頭を冷静に切り替えた。
ほかの隊長たちも部屋へ呼び集め、まずは偵察の報告をおこなった。
マルコは得られた情報を詳らかに話し、そこから考えうる敵の動向を示唆する。質問されれば淀みなく回答し、曖昧な部分は誤魔化さずに上に判断を委ねる。広げた海図に指で示しながら、マルコは自身の考えとその根拠を簡潔に提示した。
ゆくゆくは隊長となり、白ひげの右腕にまで出世する男だ。言いつけられた偵察任務の域をゆうに超えた非常に優秀な報告内容だった。
「よく分かった。マルコご苦労だった。まったく、これから大掃除だなァ」
忙しくなるぜ、と隊長は心底面倒臭そうに盛大にため息をつき、短く刈り上げたうなじをガリガリ掻いた。
隊長たちはマルコの報告をもとに大まかに作戦を組み立て、隊の配置を適当に決めていく。そうしてある程度話がまとまると。
「んじゃおれ、オヤジに作戦伝えてくる。オーケーが出たらすぐに動く。各隊準備始めとけよ」
「応」
「あいよ」
ほかの隊長たちは首や指の関節を鳴らしながらゾロゾロ出ていった。
部屋に残ったのは1番隊の隊長とマルコだけだ。
一気に静かになった部屋で、隊長は顎でマルコを指して「そんで?」という顔をする。
壁際にはけて会議の成り行きを見守っていたマルコは、ドキドキしながら前に出る。そして、机に広げられたままの海図のナワバリの島にトン…と人差し指を置き。すー…と地図上で大きく指をスライドさせた。
「ナワバリに向かう前に、この島を先に助けたい」
マルコの指が止まった先、ナワバリの島からやや離れた小さな島に目を落とした隊長は無言である。
マルコは隊長の沈黙を正しく理解して、偵察報告の時よりも緊張しながら続きを語る。
モビーへ帰ってくる途中に海賊船3隻とすれ違ったこと。敵の計画を考えるなら次はこの島を潰して根城とするであろうこと。島までの距離や船の位置からして、パドルシップで向かえば敵の上陸とともに奇襲を仕掛けられるであろうこと。
……説得力のあることを言った方がいい気がして、「ここを潰しておくとナワバリ南西沖の侵攻が遅れるはず、そうすりゃァ——……」ともっともらしい言葉を続けた彼を隊長は「マルコ」と一言で制した。
ギクッとして顔を上げる。隊長は丸太のように太い腕を組んで先ほどと変わらぬ姿勢で海図に視線を落としていた。
「ちげェぞマルコ」
「……」
「“助けたい理由”を聞いてる」
「う……、」
目的ではなく動機を問われ、マルコは己の私情を話すより他なくなった。彼は意味なく顔を右に逸らし、煙が目に沁みたように一度だけキュッと目を眇める。
「偵察任務の帰りに……世話になった相手がその島にいるんだよい……。メシを分けてもらって、えと……ベッドも、少し借りた……」
「……」
「だから、おれは恩を返したい」
メシを分けてもらったと言っても、サンドイッチ数個だが。
ベッドを借りたと言っても、マルコは少しも寝ておらず羽毛布団役で添い寝をしてやっただけだが。
自分の体調管理のなってなさが原因で墜落したことや、助けてくれた相手がよりによって幼い女の子だったことは、あまりにもダサかったから言いたくなかった。ものの数時間であの幼女に見事に絆されたことも、なんだか自分がとんでもなく単純でマヌケな男のように思われて、なんか…ちょっと……言いづらかった。
でも、助けに行きたいと焦がれる気持ちは本物だ。明日もその先も、あの子にはどうか平和な春風が吹いてほしいと思う。
なので、実態をぼかしながら話せる範囲でなんとかそれらしい言い方をしてゴニョゴニョする。
これを聞いた隊長は。
「へえ……」
女か、と思った。
盛んな年頃の男が帰りを遅らせて、飯と寝床をもらったという。たったそれだけで、マルコにしては珍しく本隊の作戦から外れてでも助けに行きたいと言いだした。理由を説明させれば先ほどの頼もしく立派な偵察報告とは打って変わって、歯切れ悪くまごつきながらド下手くそに話す始末。
骨抜きにされたんかな、と素直に思った。そんなにイイ夜だったのか、と。
「そいつはダチか?」
「だ……ダチ、だよい…」
「フ、そうか、ダチね」
まだ恋人とは言えない間柄なのか。青いなァと隊長はマルコを可愛く思い、彼の下手な口上に乗ってやることにした。
マァ確かに女ではあるが……隊長が思い浮かべているような妖艶な美女ではない。
野っ原がよく似合うホヨホヨのたんぽぽちゃんである。
「ダチなら仕方ねェ」
「え……!」
「なに驚いてんだ。お前が言い出したんだろ」
「い、いいのかよい、そんな簡単に……」
「助けてェもん助けに行ってなにがおかしい」
「でも、作戦から外れることになるよい……」
「なんだっけ?ここを落としておけば南西沖の侵攻が遅れるんだっけか?ならいいだろ。作戦に損はねェ」
「……オヤジは怒らねェかい?勝手なことしてって……」
「ハッ。そんなに心配なら聞いてこい。きっと怒られるぜ。恩も返さず、ダチの島を助けるべきかウジウジ迷ってやがるのか、って」
「……」
「なんのための強さだ」
隊長はものすごく当たり前のように言って、すれ違い様にマルコの胸板を正面からバシッと叩いた。
部屋を出るなり「1番隊は敵船が次に向かってるっつー島でひと暴れしてくる。各隊は予定通り、隊長たちに伝言しとけ。うちも終わり次第、合流する」とその辺にいたクルーたちへ言いつけ、去っていった。
パタンとあっけなく閉じた扉をぼんやりと見つめ、マルコは胸に湧き上がる感動にビビビ…!と心を震わせた。
「か、か…っこよ……」
じんわりと頬を染め、この船に乗ってよかったと心から思う。
痺れるほどかっこいい隊長の背中を追いかけてマルコも出発準備のために部屋を駆け出た。
「んじゃ。おれらはお前のビブルカードを追って船を進める。上陸圏内に入ったら電伝虫を鳴らすから必ず取れよ。それまでに島民の避難なりダチの保護なり、好きにやっておくんだな」
と、本船から出された小型のパドルシップの船べりにて。隊長と1番隊の仲間たちはひらひら手を振ってマルコを見送った。
見送られたマルコはさっそく少女の島へ飛び立った。ビュンビュンと風を切り、雲を裂いて一直線。出発前に腹ごしらえをしたので元気いっぱいである。最近入ったサッチという男が作るメシはなかなか美味いのだ。
島へ向かう途中、例の3隻を抜き去る。風に恵まれていないらしく船足は遅かった。はるか上空からそれを見て、マルコは島に到着してからの算段をあれこれ考えながらさらに島へ急いだ。
こうして再び少女の島に降り立ち、島の中心にある町へ赴いたマルコ。敵の襲来と応戦に備えてさっそく動いたわけであるが。
「どっ…どいつもこいつも平和ボケしやがって……!」
何がどうしてか、彼は左目の下を怒りで引きつらせて吐き捨てるように忌々しく呟いた。島の人間すべてを呪うような目をしている。よもやこの島を助けたいと言った張本人とは思えぬ禍々しさである。
何度マルコが「アアアア゛」とぐしゃぐしゃと髪を掻きむしって天を仰いだことか。
何がどうしたのかと申せば、マルコは島民たちへ警鐘を鳴らしたが、まるで響かなかったのである。
というのも、あまりにもマルコがトップギアで飛ばしてきてしまったため、水平線にはまだ何の影も見えないのだ。猛禽類の視力は人間の約8倍なので、マルコにはギリギリうっすらと見えるのだが。
きらめく水面がまぶしい穏やかな海を指さして「じきに海賊がくる!」と言ったところで。
そよそよと爽やかな風が吹き渡る南の丘を指さして「明日の朝には激しい戦闘になる!」と言ったところで。
小鳥がさえずり、蝶が舞い、子供たちの笑い声が朗らかに響くやわらかな光で満ちた町中で「すぐに避難を開始しろ!」と言ったところで。
返ってくる反応はすこぶる鈍かった。
途中で「アッ!根拠がないのがいけないのか!」と閃いたマルコは、現在の近隣諸島の状況を懇切丁寧に話し、自分が隣島(ナワバリ)で見て得た情報を隊長たちへの報告と同じくらい熱心に説明した。町役場から可動式黒板と地図まで借りて、指示棒でバシバシ板面を示しながら解説までした。
これが実演販売なら相当の売上をたたき出していたことだろう。それほどまでにジャパネットマルコの話は要領を得ていて分かりやすく、どんな素人にも生きて腸まで届く仕上がりであった。
だというのに。努力、むなしく。
「マジでなんなんだこいつら……」
マルコは町のベンチに腰かけて、青筋の浮かぶ額に手を当てて項垂れていた。
島民たちはマルコの話を部外者の戯言と軽んじて関心を示さなかったわけではない。
誰も彼もが真剣にマルコの話に耳を傾け、「ふむふむ、そうなのか!」という驚いた顔で最後まで話を聞いたあと、「まァまさかね」と島民同士で顔を見合わせてのほほんと笑うのだ。
まさしく平和ボケ。平和なのは大変喜ばしいことなのだが、今のマルコには怒りでしかなかった。
マルコは物心ついた頃から親も頼れる仲間もいなかった。毎日を生きるのに必死で、悪魔の実を食べてしまってからはさらに苛酷になった。見世物小屋、成金貴族、ヒューマンショップ。想像しうる最悪を詰め込めばマルコの幼少期は容易に語れる。
彼はいつも嵐の中に居て、周囲には冷たく荒々しい風が吹いていた。
少しでも晴れた場所に行きたくて海へ出た。
そうしてオヤジに出会った。オヤジの大きな手にマルコはよく懐いた。
海賊船の上もまた荒々しい風が吹く場所だったが、マルコはもう平気だった。
彼がこのようなハードな人生を送ってきた一方で、この島は。
このご時世・この偉大なる航路にありながら、ただの一度も海賊・山賊・他国・海軍・政府・天竜人といった外的勢力に侵攻されたことがなかった。島内での対立・抗争の歴史もない。恵まれた気候と豊かな自然、長年培ってきた近隣諸島との固い友好関係。諍いや餓え、渇きとは無縁で今日まできたらしい。
なんて僥倖な島だろう。マルコにはにわかには信じられないことだった。
島民たちもこれがどれだけ類まれなる僥倖であるかをよくよく理解しており、神のご加護と古くから信心深く感謝し、慎ましく肩を寄せ合い、手に手を取って生きてきたのだった。
道理であのたんぽぽが育つわけである。あの子がとびきり珍しい天然記念物だったわけではない。この島全部が天然記念物的土地だったのだ。
マルコは深く項垂れた格好のまま、いつの間にか隣に座って日向ぼっこをしていたおばあちゃんに駄目もとで説得を試みる。
「本当に来るんだよい……海賊、知ってるか……?カイゾク……」
「知ってるよ」
「そうか…そいつらが来るんだ。ここも危ねェんだ、だからおれはただ早く逃げてくれって言ってるだけなんだよい……」
「そうなんだね。それはどうも親切にねえ……」
「分かったなら言うこと聞けよばあさん……」
「でもねえ。この島のもんは、神様のお告げでもない限り、そんな話は信じないさ」
やはりおばあちゃんにものほほんとそう言われ。
とうとうマルコの中でブチッと太い血管が切れる音がした。
「……あァそうかよい」
マルコはゆらりと死神のように立ち上がって、ふらふらと黒い陽炎のように町を出ていった。
***
「大変だ、南の石橋が壊れちまってる!」
「誰かきて!東の大鐘楼の鐘が急に落ちたの!」
「西の斜面で土砂崩れだ!」
日が傾きだした頃、町が騒がしくなった。
島の南方から駆けてきた男、東方から駆けてきた女、西方から駆けてきた青年。いずれも助けを求めて大慌てで町にやってきた人々だった。彼らを含め、その場に居た島民たちは青い顔を見合わせる。ほぼ同時刻に島のあちこちで起こった不穏な事態の数々により一層胸騒ぎを覚えたのだ。何が起きたのかと不安を口にし、戸惑いを隠せずにいる。
怪我人はいない。いずれも目の前で突然起こった事故だったが、それだけは幸いだった。
やはり神のご加護だ……と島民にわずかに笑顔が戻った瞬間、島民たちの間を駆け抜けるような陣風が吹き、凄まじい音とともに足元の石畳が深くえぐれた。
悲鳴があがり、みなが石畳の瓦礫を避けるように慌てて身を引く。尻餅をついた男が、視線を上にあげる格好のままギクッと体を強張らせて固まった。
視線の先は町役場の屋根だった。町役場の上部には時計塔がある。四角い縦長のシルエットには丸い文字盤が埋め込まれ、テッペンは赤煉瓦の三角屋根になっている。
町のシンボルでもあるそこに、黒い大きなボロ布が引っかかってバサバサと風にたなびいているようだ。
それは痩せこけたコウモリのようであり、地獄の窯から立ち上った分厚い煙のようであり、遠目に見てもなにだか不気味な様であった。不穏なことが起こった矢先に見つけたちょっとの薄気味悪さと気がかりは、気づいてしまった人間の目をくぎ付けにする引力がある。閉めたはずの扉がいつの間にか薄く開いているような、そんな類の暗がりに似ている。
そのボロ布には、よくよく見ていると形があった。ただ布が引っかかっているわけではない……?では何だろう……、と男が目を凝らしていると、布の上部がカクン、と折れるように横に倒れた。
“何か”が首を傾げたように見えた。
ボロ布の隙間から感情のない目がジッ…と町を見下ろしていた。
「北に」
低い声だった。
「なにがある」
重たい声だった。
石畳に気を取られていた島民たちが声の出所を探して辺りを見渡す。尻もちをついていた男が震える指で屋根を指すと、島民たちの視線もおのずとその先に集まった。
喋ったのでただのボロ布ではないと分かった。
ただのボロ布でないと分かったから、いっそう気味が悪かった。
時計塔の上に何かいる。それは背中を丸め、ボロ布に身を包み、得体の知れぬことを唐突に問うている。
「き、きた……?」
「左様。おぞましい気配があって近寄れぬのじゃ……」
うわごとのように問いを繰り返した島民に、ボロ布は忌々しげに呟いて屋根瓦に“爪”を立てた。屋根瓦はバキンと音を立てて簡単に割れ、拳ほどの大きさのカケラが滑り落ちて石畳に新たな傷を作る。
風になびいてボロ布の隙間から覗いた爪は、獣の爪だった。夕日に一瞬照らされた鋭い鉤爪は赤く染まって見えた。
翳りゆく陽の中でボロ布の影はどんどん濃くなる。
「北には、何がある」
恐怖で言葉をなくす島民たちに再び問いかける。
「すぐにでもこの島全てを壊してやりたいものを。口惜しや。なんと憎らしきことか……」
「北…、北には……。!そうだ、聖堂…、大聖堂がある……!」
「聖堂……ああなるほど、ああ忌々しい!貴様ら、聖者の加護のもとにおるのだな。憎い、ならば加護の届かぬいまここで全員食い殺してやろう……」
「っ、うわああああ」
「いや今はよそう……カカカ。惑え、喚け。その分だけ喰らう魂が美味くなる」
「こ、この悪魔め……!」
「明朝、一人残らず食い殺してやる。必ず…必ずだ」
怨念のこもった呪詛を吐いて、ボロ布はぐらりと大きく後ろへ傾く。ボロ布は一瞬にして炎に包まれ、燃え崩れるように時計塔から落ちて消えた。
炎の余燼が茜空に数秒残ったが、やがて空気に溶けて辺りは静かになった。
町の北側には荘厳な大聖堂がある。古くから島の平和を守り続けてくれた尊き神の御座す場所。神聖なる力で満ちる清き園。悪しき者を退け、民を助けてくださる慈悲深き光の庭。……
「っ、今夜中に北の大聖堂へ避難するぞ!」
「あ、ああ……!み、みんなに伝えてくる!」
「防災放送を!荷物は最小限で、誰一人逃げ遅れることがないようにな!」
島民たちは大慌てで動き出した。誰もがひどく動揺しているが、島民同士協力して行動を開始している。
これまで諍いひとつ起こらなかったということは、常に人徳ある長がおり、冷静で建設的な話し合いができる者たちが多くいるということ。初めての危機的状況と疎開であるが、いざ動き始めれば何とかなるだろう。
3階建ての町役場の屋根から音もなく着地したマルコは、そのままググ…としゃがみこみ、開いた脚の間に頭を垂れてちっちゃなちっちゃな丸になった。ギュー…ッとこれ以上ないほど身を縮め。
「……〜〜〜っ、……!」
……めまいを催すほどの強烈な感情と戦っていた。
限界まで小さくなったあと、意を決してガバッと顔を上げ、ボロ布をはぎ取るように脱いでギッチギチに丸めた。背中を壁に押し付けるようにしてなんとか立ち上がり、食いしばった歯の隙間から「ッスーー……」と辛そう息を吸って。
「し、死ぬ……!」
と、一言。
ヒーローショーの悪役をやっている気分である。
つまり、その。
死ぬほどこっ恥ずかしいのである。大蛇のような羞恥心がマルコの身体中の血管を這いまわっていた。
本気で心臓がゾワワと粟立つ気分であり、二の腕からさぶいぼが一向に消えず、悪寒のような落ち着かなさがずっと背中を駆け回っているし、3秒に1回は目玉をぐるっと上に向けて渋いため息が出る。意味もなく首筋をさすり続け、顔は永遠にしかめっ面だ。
「きっっつ……」
高熱に犯されて醒めない悪夢の中にいるみたいだ。
海賊なんてプライドと誇りが命だというのに。20歳なんてカッコつけたい盛りだというのに。
いつかどこかで交戦した、やけに芝居がかった話し方をするコンセプト系海賊団の船長の口調を真似てみたのだが、いやはやあまりの破壊力。「な、なんですか、食い殺すって……人肉を食べる趣味なんて当方持ち合わせておりませんが……」とマルコは思わず普段の口調も忘れ去って敬語でぼやく。黙っているのも辛くて喋ってみたが、喋ってみても辛かったので結局黙る。心臓のあたりをギュッと握って背中を丸める。右肩を壁に当てて壁面を擦るによろよろ歩きながら苦痛に耐えた。
そんなにカミサマを信じているならそのカミサマとやらに守ってもらえ、とマルコは島の方々で悪さをしてきた。そろそろ改修が必要だろうなという場所を選んで、景気よくぶっ壊したのだ。土砂崩れを起こした箇所もこれを機にしっかりと地盤工事をやれというマルコなりの見積もりである。
馬の脚でも叶わない移動速度で空を駆け、凡人には爆薬なしではとてもできない破壊行為をサラリとこなしてきた。仕上げに町の石畳を鉤爪でズタズタにし、町役場のてっぺんにて脅しをかけた。
平和ボケした島民の目には悪魔の襲来と映ったことだろう。おかげで彼の目論見通り避難は開始された。
その代償に、マルコは新たな拷問として使えそうなほどの精神的ダメージを負う羽目になったわけだが。荒涼とした嵐の中で生きてきた結果、こうした荒っぽい方法しか浮かばなかったことが敗因である。ここはひとつ耐えるしかない。
マルコは甲高い細い声で「たすけてくれ〜……」とメソメソ泣きながら、アレの正体が自分だとバレないようにこっそりと町役場の裏手から移動する。
プライドに深刻なダメージを受けているが、彼にはまだやることがあるのだ。
慌ただしく避難を開始する島民たちを尻目にマルコは町中を進んだ。道中、適当に脚を壁にぶつけて即席の怪我を用意する。ケツに力を込めて再生の炎をグッと堪えつつ、彼は町唯一の診療所の戸を叩いた。
「すまない、誰かいるか。さっきの広場の騒ぎで足を怪我をして……できれば診ちゃもらえないかい」
「!それはいけない。どうぞ、そこに掛けて」
「助かる。あんたもワケわかんねェ状況で混乱してるところ悪いな」
診療所の中にいた医者、もとい少女の父親は、疑う素振りもなくマルコを椅子に座らせ、快く傷の手当をしてくれた。
マルコなら5秒で治せる傷を流水で洗い、大判のガーゼで止血し、包帯を巻く。その正しく一般的な処置を眺めながら「しまった、意外とでかい傷だったか」と反省してこめかみをカリカリ掻いた。
戦闘による大怪我が日常茶飯事という海賊稼業の弊害で、海賊の大半は怪我に対する感覚がだいぶ壊死している。再生の炎でも治癒が限界を迎えたときに初めて怪我をするマルコは、その壊死の具合が人一倍である。
「あんたもこのあと北の大聖堂へ?」
マルコは白々しく訊ねた。包帯などを片付けていた父親は一瞬手を止めたが、すぐに片付けを再開する。
「……いや、一度家へ戻る。娘が、ひとりで家にいるんだ」
「母親は?」
「去年亡くなって、一人親でね」
「そうかい…。そりゃあ、ますます悪いことをした。治療してくれてありがとう、早いとこ迎えに行ってやれ。家は近いのか?」
「馬で1時間だ。今夜中には避難できるだろうから気にしないでくれ」
心配するマルコを安心させるように彼は柔和にほほ笑んだ。
ま、まぶしい、これが真っ当な医者か……、とマルコは反射的にキュッ…と目をつむった。
治療は済んだし、適当に世間話もしたし、これで多少は耳を傾けてくれるだろう。マルコは昼間の聞き流されっぷりを「アッ!まったくの初対面だったからいけないのか!」と反省していたため、ちょっと顔見知りになってから話すことにしたのである。
患者用の椅子から立ち上がって、断られたけれど適当に金を払う。扉を押し開いて出ていこうとした足を止め、「それと、お前の娘」とマルコは父親を振り返った。
「イマジナリーフレンド作ってるぞ」
「え…、い。イマジ……えっ?」
「ピイちゃんとかいうやつ。魔法が使えるらしいぜ」
「ピ……?」
「医者なら分かるだろう。あの類は寂しさや心の不安定さに起因して生まれる。あの子はあんたがいなくて寂しいんだ。傍にいてやれよい」
「……そ…、そうしたいのは山々だが……」
「なぜそんな離れた場所から通うんだ?こっちへ引っ越せばいいだろう」
「あの家は妻と、あの子の母親との思い出が詰まった場所だ……あそこを離れたらもっとあの子を寂しくさせてしまう」
「はー……親子そろって同じことを考えるもんなんだなァ……」
「?」
マルコは感心した口ぶりでしげしげと少女の父親を眺めた。生まれ育った環境も大きいところであろうが、こういう親だからああいう子になるのか、と因果を見た気がした。
「でもよ。場所じゃなくて、人だろ。どこにいるかじゃない、誰といるかだ」
「……」
「場所が変わったって、あんたらが覚えてりゃそれでいい」
海上暮らしの長いマルコは、場所へのこだわりが極端に薄い。
刻一刻と座標が変わる船の上。我が家を尊ぶ気持ちはわかるが、彼にとってはどこに錨を降ろすかより、誰とともに錨を上げるかの方が重要なことのように思われる。
旅をしている限り、すべてを持ち歩くことはできない。だから覚えるのだ。記憶に刻めば、いつでもそばにいられる。場所も時間も、生死も超えて。
大事なものを決して手放さない方法を、マルコは知っているのだ。
「んじゃ。治療ありがとな。あんたもどーかご無事で」
「ま、待ってくれ、なんで君はそんなこと知っ……」
父親の言葉を待たず、マルコは診療所を出た。
閉ざされた扉に手を伸ばし、父親はしばし呆然としてから。
「神の、遣いか…?」
と、ぽつりと呟いた。
突然現れた見知らぬ青年。大きな怪我をしていながら治療前も治療後も痛みをこらえる様子もなく立ち歩き、今日知ったばかりの娘が抱える問題と己の躊躇いをスラスラ言い当て、啓示のような言葉を残していった彼。
扉が閉まる間際に見えた青い炎は美しく、人の心すら癒せそうな神聖なものに見えた。
マルコの詰めの甘さと大根役者ぶりが思わぬところで功を奏し、彼に神秘のベールを纏わせたのだった。
***
「……?」
コツコツと窓を叩く音に、少女は顔を上げた。
一生懸命折っていたチューリップの折り紙を投げ出し、物音がした窓辺へトトト…と駆け寄る。窓の外は夕焼け色だった。
「おれだよい」
「!ピイちゃん!!どこ!?お外!?」
「おっと、窓は開けるなよ」
「じゃ、じゃあ、わたしがお外出るから待ってて!」
「駄目だ駄目だ。来るんじゃねェよい」
「なんで!」
「魔法を使ってる。見たらお前、爆発するぞ」
「うっ……!」
「そのままでいいからよく聞きな」
「ねえねえ、ピイちゃんいまなんの魔法使ってるの?」
「この島の奴はどいつもこいつも話を聞かねェな……」
少女の家の外、窓横の壁に凭れかかったマルコは、部屋の中の少女に窓ガラス越しに話す。
突然いなくなった魔法の鳥さんがまた来てくれたので少女は嬉しくて仕方がない。顔は見えないが、声色から十二分にそれが溢れ出ていた。
庭の物干し竿に真っ白いシーツがはためている。父親か隣の家のばあさんが丁寧に洗ってくれたのだろう。
マルコの赤黒い血はきれいさっぱり落ちてなくなっていた。それを見て彼は安心する。
「いいかい、これから魔法で予言をする」
「よ、よげん……!?」
「予言って知ってるか?」
「しってる!ピイちゃん、未来のことが分かるの!?」
「分かるよい。おれは魔法が使えるからな」
「すごいすごい!」
「お前の父さんが帰ってきたら、北の大聖堂に連れて行ってくれる」
「えー?これから夜になるのに?」
「そう。だから大事なもんをすぐにカバンに詰めろ。失くしたら困るもの、そばにあると安心するもの、何でもいいよい」
「……オヤツも……?」
「フ、いいんじゃねェか?腹が減ったら困るしな」
少女はマルコの言いつけ通り、お気に入りのリュックに詰めるものを夢中になって考えた。じきに元気な足音と物をガタガタと動かす音が家の中から聞こえ始める。
腕を組んだマルコは夕日に照らされた草原をぼーっと眺めていた。
朱と金に彩られた天の原は絶景である。風でやわらかく波打つ緑は、ずっと見つめていたいほど美しかった。
「できた!」
「お、早いな」
「ふふん!」
再び窓近くで少女の声がする。
マルコは耳を澄まし、目を閉じる。
「じゃあオマケで、もうひとつ予言をしてやるよい」
「え!なあに?」
「お前の父さんがいつ帰ってくるか。……もうそろそろだよい」
「うそだあ。パパ、帰ってくるのいつも遅いよ?」
「今日は違う」
「隣のおばあちゃんだってまだ来てない時間だもん……」
「……10、9、…‥」
「え?」
「8、7、6……あ、おれのこと言うなよ?」
「え?え?パ、パパ帰ってくるの?」
「3、2、」
「ピイちゃん?」
「1」
家の扉が少々乱暴に開く。
そこには息を切らした父親が立っていた。愛馬のシルバーも馬小屋に戻されることなく、入り口のすぐそばにいた。
少女は驚きに満ちた表情で父の姿を見つめ、パァッと顔を輝かせた。
「ピイちゃんすごい!本当だ!本当にパパだ!パパ帰ってきた!」
少女はピョンピョン跳ねながら窓の外へ興奮ぎみに声をかけるが返事はない。
父親は娘が発した「ピイちゃん」という言葉に耳を疑った。
「た、ただいま……。誰と、お話していたんだい……?」
「えっとね、え、あ……」
「ピイちゃん……って子かな……?」
「えっ!えと、その……」
今さっき「おれのこと言うなよ?」と釘を刺されたばかりの少女は父の質問にまごついた。
娘のこの様子を見てとりあえず父親は庭に回る。家の周りも一周したが、誰もいない。
「ば、バレちゃったかな……」と少女は不安げに服の裾をいじって、部屋に戻ってきた父の顔をチラチラと見る。
「……そのリュックは……?」
「だ、大事なもの、入れたの」
「え……、」
「これから大聖堂に連れてってくれるって……本当?」
部屋を見回すと、写真立てがなくなっていた。家族三人で撮った写真が収められたそれは、いまは少女のリュックの中にある。
父親は診療所に現れた青年の姿を思い出し、嗚呼やはり彼は、と強く思う。
彼は娘の前に膝をつき、その小さな体をやさしく抱きしめて目を閉じた。
「ああ。本当だよ。神様が呼んでくださったんだ。島のみんなも来るし、パパもいるから、今夜は一緒に星を見よう」
そうして一度家に戻って支度を整え、父と娘は家の表に出てきた。父親は固い表情でシルバーの手綱を引いて、荷物を乗せたり鞍を調節したりと準備に忙しい。
ふと、少女は視線を感じて家を見上げた。屋根の上に座り込んでいた見知らぬ男を不思議そうに見つめる。
男は眠そうにゆるいマバタキを2回して、立てた人差し指をゆっくりと唇に当てた。しー…とやられたので少女は丸くぽかんと開いていた口を律儀に閉じて、マバタキだけを返事とする。
父に呼ばれて振り返ると、少女はすぐに抱き上げられてシルバーの背に乗せられた。その後ろに父親が跨り、馬は大聖堂に向けてポクポクと歩き出す。
腕の間に体が収まるように手綱を握られれば、父の広い体に阻まれて少女はもう振り返ることはできなかった。
屋根の上、マルコは立てた膝に頬杖をついて静かにそれを見送る。途中、隣の婆さんの家に律儀に寄ったのを見てちょっと笑ったが。
彼らの影が小さな粒になるまで見届け、マルコはようやく立ち上がった。
すっかり日は落ちており、夜風になりつつある風は少し肌寒い。彼は屋根の上から海の方角へ顔を向ける。温度のない眼差しで木々の黒々とした影を見つめ、懐から取り出した電伝虫を繋ぐ。
「隊長。お待たせ、もういいよい。島の南部から接岸してくれ」
***
翌朝、マルコは浜辺に打ち上げられた木片をガン!とひと蹴りして、大きく欠伸をした。腕で日除けを作って目玉に突き刺さるような清々しい朝日をやり過ごす。
朝の光で煌めく海面は美しく穏やかである。きめ細かい砂をさらさらと洗うように波が寄せては返す。浜辺には硝煙と血の香りが立ち込めているが、それもじきに潮風がスッカリ入れ替えてくれるだろう。
ほかの1番隊の面々はマルコからの連絡が来るまでの間にしっかり仮眠も取って休んでいたので、徹夜の交戦後だというのにケロリとしている。このあと本命のナワバリでの仕事も控えているため気持ちの方も弛んでいない。隊長はさっそく船の破損の確認や航路について指揮を執っていた。
南の海岸には3隻分の船の残骸の山があった。乗っていた人間たちは海に還ってもらった。沖合に打ち捨てたともいう。
神が誰を救い、どう守ってくれるのかは知らないが、海は平等である。どんなものも等しく大らかに受容し、どんなものにも等しく残酷で恐ろしい。そこに善悪の垣根はなく、どんな生き物も海の前では塵芥である。
マルコは神など信じていないから、海の方がよっぽど信頼できた。こんな自分でも当たり前に受け入れてもらえそうな気がする。
やはり死ぬならこの場所で、と思うのだ。
マルコがこらえきれず再び大きな欠伸をした丁度その時、隊長が彼を呼んだ。彼は副隊長なのだから、作戦会議の場にいない方がおかしいのだ。
チョイチョイと手招きする隊長の姿を見て、「うわ、いけね」とマルコはあわあわ駆け足で向かう。副隊長として作戦の取りまとめに努め、話がまとまれば隊長の号令ですぐに錨があがった。
順調に進み出した船の上、遠ざかる島影をマルコは欄干に肘をついて眺めていた。
たぶん、怪我人はいないし、本当に信心深い連中なら大聖堂に籠城していて戦闘の目撃者もいない。大聖堂で迎えるいつも通りの清らかな朝である。いや、いよいよ“悪魔”が来るかもと恐怖がピークに達している頃合いか。きっと昼ごろに島の男衆数名が恐々町の様子を見に来て肩透かしをくらい、島の各所を確認してようやく安堵する。
大聖堂で膝をついてカミサマありがとーって涙でも流すかな。
女神像とか磨き直したり、以前にも増して花を飾ったりするのかも。……
「ハ、目に浮かぶよい……」
彼の眼差しは静かで、感情を押し殺しているようにも見えた。
そんなマルコのほろ苦い横顔に隊長は声をかけた。
「今回の件が片付いたら、この辺りは傘下の持ち回りになるそうだ」
「そうなのかい」
「つまり、本船のおれたちが次にここに来るのはいつになるか分からん。……“ダチ”に挨拶してこなくていいのか」
「……いいよい。行こう隊長」
「……」
フ、と僅かに俯いて自分の中でなにか区切りでもつけるようにマルコは島に背を向けた。彼の金色の髪が潮風で乱れる。風を嫌がるように視線を風下に流したマルコの顔は、ずいぶん大人びていた。
「……あの島のことは、もういいんだ」
「マルコ……」
「手放しちまった方が……忘れた方が良いこともあるだろい」
「……」
マルコのこの決断に、隊長はそれ以上はなにも聞かず、「そうか」と一言。踵を返して「お前ちょっと寝てこい」とひらひらと手を振るだけだった。
大事なものを決して手放さない方法を、マルコは知っている。
覚えてさえいれば、ずっと一緒にいられる。
でも、マルコはあの島での記憶を手放すことにした。
だってもう、絶対にピイちゃんなんて名前で呼ばれたくない。
マルコは俯きがちなポーズで固まったまま、「ふーー……いや死ぬ死ぬ死ぬ…………」と小さく薄い声を出して頭痛をこらえるように目をグッ…と閉じる。島の奴らに想いを馳せてしまったのが良くなかった。心の患部からプシッと血が噴き出たところである。いまだ生傷なのだ。
もうお腹が痛い。本当に痛い。ていうかお腹どころか頭や心臓のあたりだとか、とにかく体のあちこちが痛い。血管に羞恥心というガン細胞を打ち込まれた彼は体中を蝕まれて大変に苦心している。
正しく言えばしんどいのは“ピイちゃん”というあだ名ではないのだが、ほぼ同義だった。
最悪なことに“ピイちゃん”という名は、あの黒歴史的ヒーローショーと対の記憶になってしまったのだから。
今後“ピイちゃん”と呼ばれることがもしあれば、マルコは今回のことを思い出して苦しむことになるだろう。壁に頭を打ち付けたくなるし、頭蓋骨を開いて脳をかきむしりたくなる。普通の酒じゃ度数が足りなくて消毒用のアルコールをジョッキで煽るはずだ。
別に島に手を貸してやったことは後悔しちゃいないが、あの恥辱の茶番劇はあまりにもマルコのプライドに大きな傷を作った。思い出さなくて済むなら一生思い出したくない。
幸いコレはマルコしか知らないことだから、彼さえ忘れてしまえば闇に葬ることができる。
葬ることができるので、葬ることにした。それだけのことだ。
彼女もあの島も、正真正銘のカタギのものだ。白ひげの旗印も要らぬほど平和な場所。もともと出会うはずもなかった。
当然マルコの生き方とは相容れぬものである。
少女とはただ、風に吹かれて並んでサンドイッチを食べただけの仲。
…でも。
マルコの周りに吹く荒い潮風も巡り巡っていつか彼女の島に届くのだとしたら、その頃には綿毛を散らす程度のやさしい春風になっているといいなと思う。
「あばよ〜……」
体をのけぞらせて欄干に上半身を投げ出したマルコは、逆さまになった視界で少女の島を半笑いで見送った。
とまぁ、このような経緯により。
23年の年月が経とうと、“ピイちゃん”という名を聞くとマルコは反射的に顔を歪めてしまうのだった。
***
「ピイちゃん、ピイちゃんっ」
「お、おお……久しぶりだな」
「ずっとピイちゃんに会いたかったのよ。あのまま急にいなくなるなんて、わたし本当に悲しかったんだから!」
「そりゃ…悪いことをした……」
「うふふ、ピイちゃん」
彼女は大きく腕を広げ、1ミリのためらいもなく真正面からマルコに抱き着いた。ちょっと背伸びをして、彼の首にギュッと腕を回すのだ。羽毛の内側でトクトクと鳴る心臓が嬉しい。それはもう幸せそうに青い羽に顔をうずめられては、マルコもされるがままであった。
本当は今すぐ壁に頭を打ち付けたいし、頭蓋骨を開いて脳をかきむしりたいし、消毒用アルコールをカッ喰らってド派手に酩酊したいところであるが……春風がやさしく吹き抜ける草原での麗しき再会の一幕だ。さすがに空気を読んで死体と同じくらい澱んだ目をするに留まる。
「ピイちゃんは今も旅をしているの?」
「まァ、あちこちな」
「ふふ、ピイちゃんの旅のお話も聞いてみたいわ」
「よせよ。カラスと喧嘩したとか、スズメに負けたとか、ハトとしけこんだとか、そんな話しかねェぞ」
「あはは!ぜったい嘘!」
「お、賢くなってら」
「もう、ピイちゃんったら。人のことばかにして……」
彼女はマルコにくっついたまま、えへえへ笑った。
ほっときゃ治ると放置しようとした彼女の膝の擦り傷にマルコはそっと尾羽を当てて、かつてのようにじりじりと弱火で炙る。彼女もまた、かつてのようにマルコの治療には少しも気づいていない。
今も昔も別に気づかなくて構わない。
「ね。わたし、大人になったかしら」
「……立派な大人だな」
「うふふ」
その場でくるりと回って見せた彼女は相変わらずたんぽぽみたいなやわっこさだ。
だがマルコも四十をすぎたいい大人なので、ガキとからかうことはしない。
「あ、そうだ!ピイちゃんがいなくなってから大変だったのよ!イマジナリーフレンドだなんだって言われて、お父さんに散々カウンセリングされた!」
「ああ。そんなこともあったな……マ、オヤジさんとたくさん話せたみたいで何よりだよい」
「そ、れは……まぁ嬉しかったけど……」
「ウン。なら結構」
「ピイちゃん。今なら魔法、見せてくれる?」
「お前まだ信じてんのかい」
「あなたの存在自体がその証明じゃない!」
「あー。ん−、……もう泣かないか?」
泣かない、と彼女が自信満々に微笑むので。
マルコが一歩下がると、彼の全身がよく見えるように彼女も一歩下がった。ワクワクとオノマトペを出しながら、彼の“魔法”を心待ちにしている。
風が立つように足元から勢いよく燃え上がった青い炎がマルコを包んだ。キャッ!と胸の前で両手を握る彼女の瞳に鮮やかなターコイズブルーが映り込む。風でスカートが後ろに膨んだ。
炎はすぐに解けるように消えた。
炎が消えれば、そこに居るのは“人間”の姿をしたマルコだった。
彼女はぽかん…と薄く口を開けて彼の顔を見つめた。彼女を見下ろすマルコはニコリともしない。どこまでもいつものマルコらしく、初対面ではすこぶる取っつきづらく、柔和とは程遠い顔つきと雰囲気で大人になったたんぽぽちゃんと対峙している。
もう相手はガキじゃないんだから泣かれても良かったし、なんなら通報されたって構わなかった。むしろ、こんなオッサンを今の今までピイちゃん呼ばわりしていたことを反省しろとすら思っていた。黒歴史を呼び起こす名を連呼しやがって、と。
半ば不貞腐れた開き直りにも近い思考でマルコはそう思っていた、のだが。
「な、なまえ」
「あ?」
「なまえは……」
「……マルコだ」
「マルコ、さん」
彼女はマルコの顔を見つめたまま、ほろりと涙をこぼした。は…、とわずかに漏れた吐息は震えて熱い。
泣かれても構わんと思ってはいたが、この涙は予想とだいぶ違う。マルコはキュッと片眉をあげて僅かに首をかしげる。その仕草は突然飼い主に未知の言語で話しかけれたインコのようだ。
一度こぼれ始めた涙は止まらず、次から次に彼女の白桃の頬を濡らした。
「お、おい、」
「わ。わたし、ずっと……ずっと、あなたの名前を呼びたかったの」
「は?」
「あなただったのね…あの日、屋根から見送ってくれたのは……」
「…………」
「マルコさん、」
いよいよ彼女は顔を覆って泣きだした。マルコの名前を噛み締めるように何度も何度も大事そうに呟く。
大聖堂へ向かったあの日、屋根の上にいた男のひと。
初めて会うはずなのに初めてな気がちっともしなくて、なんだか不思議だった。
見知らぬ人が自分の家に上にいたら驚いたり怖がったりするはずなのに、彼女が覚えているのはマルコの眼差しのやさしさばかりだ。
良かった、夢じゃなかった。ピイちゃんも、彼も。
あの日、わたしのそばに居てくれた彼らは本物だったんだ。
騒ぎが落ち着いてから、父にはピイちゃんは想像上のお友達なのだと言われた。君の心の中だけの存在で、本当はいないんだよ、とやさしく諭されたのだ。父は言葉を選んで彼女に語り掛け、ずっと傍にいてくれたけれど、それが柔らかい否定であることには変わりなかった。
本当にいたのよ、と懸命に伝えても父は「そうだね」と少し申し訳なさそうに笑って頭を撫でるだけだ。
屋根の彼のことまで幻と言われたら嫌で、彼のことは話さなかった。
大好きな父がそばにいてくれるようになったのは確かに嬉しくて、彼女は消えてしまったピイちゃんのことも次第に話さなくなった。
話さなくなったけれど、心の中では信じていた。
信じて覚えてさえいれば、ずっと一緒にいられた。
それが今日、ようやく。いま、ここで。
「ぐす、」
「擦んなって。赤くなるよい」
「う、」
「まったく……」
俯いて涙をこぼす彼女の顔が覗き込めるようにマルコがしゃがむと、彼女もえぐえぐ泣きながらしゃがんだ。おかげで彼女の顔はマルコよりもまた低い位置になってしまう。
彼女はマルコがしゃがんだから釣られてしゃがんだ。そこに深い意味はないし、当の本人もよく分かっていない。小さな子供が大人の仕草をとりあえず真似するのと同じだ。
マルコは気が抜けたようにクシャッと笑って、鼻から小さなため息をついた。
彼女はいまだ一生懸命涙に溺れている最中で、彼のそんなやさしい表情を見逃してしまう。
この泣き虫はいつ泣き止むのだろうか。長丁場になりそうなのでマルコは草っ原にそのまま尻をついて、葉擦れの音や鳥の囀りを聴きながら目の前の可愛いつむじを眺めて待つ。
やがて彼女はズビズビ鼻をすすって顔をあげた。目のふちは案の定赤く、濡れて束になったまつ毛がキラキラしていた。
真珠みてェ、と他意なく思う。
「マ、マルコさん……」
「なんだよい」
「……えっと、…」
「?」
「これからもピイちゃんって呼ん…」
「絶対に駄目だよい」
「ええ!どうして!?」
「お前、おれを殺したいのか?」
「なっ……い、意味が分からない、あだ名でひとは死なないわ」
「とにかく駄目だ、許可しない。おれは、“マルコ”だ!」
マルコは彼女の鼻先にビッと指を突きつけ、一音ずつ明瞭に発音して厳しく言いつける。
節くれだった指を見つめた彼女は、次第にじわじわと眉間の皺を深くし、唇を尖らせる。
大変不服そうだ。
「ピ、ピイちゃん」
「マルコだ!」
「ピイちゃんがいい!」
「勘弁しろよい!」
「ピイちゃん」
「やめろって」
「ピイちゃん…」
「だからお前、本当に……」
「でも、わたしにとってはずっとピイちゃんだもの……」
「〜っ、ッダァ!もう知らん!あばよ!達者でな!!」
「あっ、」
彼女は一向に折れず、マルコの方に限界がきた。羞恥心の致死量を越え、別れの挨拶を一方的に投げつける。
両腕を炎の翼に変えたマルコは力強く大地を蹴って飛翔した。羽ばたきの風圧で草原の緑が水紋のように丸く波打つ。彼女は突風に驚いて腕で頭を守った。
強く目をつぶったその一瞬で、彼の影ははるか遠くに行ってしまった。
太陽にも負けぬ青と金のきらめきに、彼女は笑顔で「ピイちゃん、またね!!」大きく手を振るのだった。
それからも彼女はマルコを見かけるたび果敢に「ピイちゃん」と地表から大声で呼び、彼を苦しめるのであった。
たまにしか来ないマルコを忘れたくないから。
たまにしか来ないマルコに忘れられたくないから。
忘れないでほしいから。
覚えていてほしいから。
「また来てね、マルコさん」
来年もこの島にはやさしい春風が吹いて、たんぽぽが咲く。
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