ねこチャン


 
 
「ね、ねこ」

 背後から聞こえた呟きはなんだか真剣だった。
 エースは首を捻って振り返る。ナマエは数歩前に立ち止まり、深刻な顔で前方の一点を見つめていた。

「ねこ?」
「そこ……」
「ん?おお」

 ナマエの視線と指の先をたどれば、なるほど猫がいた。
 なかなか立派な体格のキジトラだ。それが前方の道端に毛繕いをしながら転がっている。
 ここは物資補給のために立ち寄ったオヤジのシマのひとつ。エースはここを「魚がうまいトコ」と記憶していて、つまり漁業が盛んな島だった。
 二人はそんな島の港をブラブラ散歩していた。春の日差しがやさしく、冷たい風が心地よい。意味もなく外に出たくなる陽気であり、二人は付き合ってはいないけど、互いを散歩に誘うにはピッタリの良い日だった。

「ねこ、嫌いなのか?」
「ううん……」
「……まさか初めて見る、とか?」
「ううん……」
「だよな……?」
「アッ、動いちゃダメだよエース、逃げちゃう……!」
「んぉ」

 散歩を再開しようと一歩踏み出したエースは背後からベルトをがしっと掴まれて思わずマヌケな声が出る。再び振り返ればやはりナマエの眼差しは相変わらず真剣だった。ほんのり頬が赤く、キラキラ興奮している。
 ああなるほど。嫌いどころか、猫が好きらしい。

「撫でてきたらどうだ?」
「えっ」
「港に住み着いてるなら人慣れしてるだろ。たぶん逃げねェよ」
「で、でも、」
「なんだよ、こえーのか?」
「……なんというか…昔から…私、ねこに逃げられがちで……」

 彼女の声が尻すぼみになっていく。
 キジトラが毛繕いの体勢を変えると、ナマエは猫の視界に入ってはならぬと思っているのかソソソ…とエースの陰に隠れた。そして、控えめに顔を出し、ちいちゃい声で「わ、かわいい…」といつもより半音高い声で感動を滲ませている。
 背後の彼女を見て、エースは「ふーん」と胸の内で思う。

「おれは結構ねこに好かれるんだ」
「そうなの?」
「体温が高ェからかな、コタツもいつもおれにくっついてるだろ」

 エースはそう話しながら帽子を脱いで、飾り紐の根元を束ねるように片手で握る。
 おもむろにしゃがみ込むと、カラン!と飾り紐を投げ出すように地面に放った。ドクロの飾りと竹のような節が入った細長いウッドパーツ、その先端についた房。それらがエースの足元からキジトラに向かって無造作に投げ出される。
 音に反応したキジトラはピンと耳を立てて、音の発信源に意識を向けた。
 エースがしゃがんでしまったので、せっかく隠したナマエの体は再び丸見えになってしまった。どうしよう、と彼女は目を左右にうろつかせ、結局二、三歩離れた場所でしゃがみ、ジ…と気配を消すに落ち着く。
 エースが手元をクッと引くと、キジトラの目線も機敏に動いた。もう一度小さく引けば同じ反応が返ってくる。ゆっくりと手前に手繰り寄せると、キジトラは体を低くして目を爛々とさせた。
 彼が飾り紐を右へ素早く払うと、見事にキジトラが“釣れた”。
 飛びかかってきた前足をかわし、紐を左へ。野性を剥き出しにキジトラはダイナミックに追いかける。また右へ振るが今度は大人しく捕まえさせてやる。隙をついて紐を奪還、再びすばしっこく上下左右に振ってやる。
 キジトラ、大興奮である。爪をだして全身を使って房にじゃれついている。瞳孔が開いた黒々とした瞳はなかなか愛嬌があった。

「ワハハ。なかなか懐っこいな、コイツ」
「すごい…エース上手ね……!」
「ナマエもやってみろよ」
「できるかな」
「さあな。試しゃァ嫌でも分かる」

 キジトラを怖がらせないようにゆっくりと隣へやってきたナマエへ、エースは「ほれ」と帽子ごと紐を差し出す。彼女は一瞬ためらったものの、房の高さが変わらないように精いっぱい腕を伸ばして帽子を受け取る。
 選手交代でややぎこちなくなった動きなど関係なしに、キジトラはハイテンションなままであった。
 予想通りキジトラは人懐っこく、警戒心のカケラもなく二人の足元にやってきて「もっと構え!」と全身でアピールしている。

「…………っ、かわいい……」
「そりゃなにより」

 キュー…っと目を瞑って極力おさえたボリュームで、ナマエは「かわいい…」ともう一度感極まった声をこぼした。
 エースはそれを横目で笑って、今度はキジトラの眉間の辺りを人差し指でカリカリと掻く。房と見間違ったキジトラに爪と牙で手ごとガジガジやられるが、エースは「イテテ」と棒読みで言うだけで気にせず掻き続けてやった。
 キジトラがゴロンと腹を見せて転がれば、彼は顎周りをわしゃわしゃ撫でる。キジトラはうっとりと目を閉じて僅かにエースの手に頭を押しつけた。
 すっかり帽子の房よりも彼の陽だまりの掌に夢中だった。

「キジトラァ、お前の野性はどこいったんだ〜……?」
「この子、人懐っこいねえ……」
「帽子、こっちに寄越しな」
「あ。はい、ありがとね」
「次のステップだ。ほらこの辺、軽く引っ掻くみてェにしてやれ」
「えっ、う、うん……」
「……」
「……」
「……」
「……!」
「はいはい、気ィ済むまで撫でな」
「〜っ!」

 ナマエは、えへえへにこにこしながらキジトラを撫で続けた。キジトラは地面に転がったり起き上がって脚に体を擦りつけてきたり撫でられるがままジッとしていたりと、ちっとも逃げない。

 エースは無邪気にキジトラを撫でる彼女の頭を撫でたい衝動に駆られたが……鼻からスーッと大きくゆっくり息を吸って目を逸らすことでグッと堪える。
 こんなに仲良くお散歩をして猫と戯れているというのに、二人の間柄はいまだ“仲間”だ。色をつけて見積もっても“最近よくつるんでる仲間”だった。色っぽい駆け引きは一度もしたことがない。
 恋人でもない男が、相手の好意も推し量りきれていない内から頭を撫でてはならぬ。——エースの中でこれはほぼ戒律であった。
 よって、エースは頬を掻いたり首に手を置いたりすることで手の所在を決め、動かさないように努めた。
 そして猫と戯れて嬉しそうな彼女の横顔をひっそり眺めるに留めるのである。



 なぜエースにこのような戒律じみたものがあるかと言えば。

「ブッブー、恋人でもない男が女の子の頭を突然ぽんぽんするのは違法でーす」

 マキノは朗らかな口調と笑みとともに、両手の人差し指を重ねて小さなバッテンを作り、エースにそう教えた。そう、彼はコルボ山にてマキノから英才教育を受けていたのである。
 島を出る前はよく分からなかったが、女が一人で店を切り盛りするのは何かと厄介なことが多かったのだろう。その店が酒場ならなおのこと。この世には若い女店主にちょっかいをかけたがる面倒な勘違いヤローがごまんと居るのだ。
 
「好意のない相手からされる壁ドンや顎クイは普通に怖いでーす」
「ウケると思ってる下ネタは下ネタな時点で9割はスベるからね」
「手伝おうか? じゃなくて、黙って自分からやるのよ」

 ……本当に、マキノも色々あったのだろう。
 これらの実体験に即したマキノの真に役に立つ教えの数々は、現在のエースの血肉になっている。礼儀と同じコンテンツとして教えられたので、かなり刷り込まれているのだ。
 マしかし、エースだってすべてを鵜呑みにしたわけではない。
 海に出て、男女の交わりというものを街中や酒場の一角で見かけるようになり、「うわアレ駄目なのでは……」と思ったものが本当に駄目な結果になっていたり、明らかに引き攣った女の様子を目撃したりして、実例を伴う有力な経験値になったものが大半だ。
 マキノのいち個人の嗜好が反映されていると分かったものには認識に修正が加えられたりもした。
 このように他人との交わり方を堅実に学んでいった結果、あのようなコミュ強が爆誕したのである。

 一方的なスキンシップをしてはならぬ。強引に迫ってはならぬ。会話のネタは相手を選べ。自分から察して動け。……
 そんなん、分かっちゃいるけど。
 だけど、触れたい。
 ああいっそこの子が猫だったら良いのに。
 気まぐれに頭を撫でたいし、あたたかいという理由だけで懐いてほしい。いくらでも手を尽くして楽しませてやりたい。
 遊び疲れたら二人で風通しのよい場所を探して、無防備に腹を晒して眠りたいのだ。

「うーん、この子連れて帰れないかな……」
「モビーに?やめてやれよ。コタツがビビっちまう」
「そうなの?コタツちゃんよりこんなに小さいのに?」
「コタツはあのなりで怖がりなんだ」
「そっか…じゃあだめね……」
「おう、だめだ。……おれも困る」
「エースも?」
「念願のねこチャンなんか手に入れたら、構ってくれなくなるだろ、お前」

 目をパチと大きく開いて、ナマエはエースを見つめた。
 エースは二の腕の内側に唇をくっつけて、それを無言で見つめ返す。
 伝われ。伝われ。と強く念じて。

「……エースは、」

 彼女は膝に置いた左手の甲に顎を乗せ、キジトラに視線を戻してコショコショ…と柔らかな毛並を撫でながら口を開いた。

「ねこに好かれるのよね。あったかいから……」
「え?あー、まあ、わりと」
「……じゃあ、私も困るわね。せっかく撫でさせてもらえるくらい仲良くなれたのに、この子とライバルになっちゃう」

 この言葉にエースは一瞬息を止めた。
 ほんのりと色づくナマエの頬を見て、強火にかけられた鍋のように心臓がぐつぐつと動き始める。
 エースは腕から僅かに顔をあげて一生懸命に彼女を見つめた。

 ライバル。ライバルになるって、なんだ。
 そいつと?その猫と?
 この猫がおれに懐くと、ライバルに?
 は?なんだそれ、なん…、かわいいな。は?なんの心配……?

「おれは…このねこよりもナマエを構うけど……」

 今まで蓄えたさまざまな知識が丸ごと引っぺがされるほどドキドキしながら、エースはぶっきらぼうにそう答えた。
 ナマエもまた彼の言葉にキジトラを撫でていた手をピタリと止める。キュ…と手を握った彼女は、期待に胸を逸らせておそるおそるエースを見る。

 二人の視線がゆっくりと絡み合う。
 それは誰が見たって分かるほど、互いに想いを寄せる男女の眼差しだった。

「猫が一番懐くのはコックだバカヤロー!!猫をダシにイチャついてんじゃねーぞてめェら!!!」

 ごもっとも!
 サッチは凄まじい肺活量でモビーが錨を降ろしている護岸から怒鳴り散らした。爆音である。故郷でも焼かれたのかというほど険しい顔だ。誰の目にも明らかに彼はブチギレていた。
 キジトラは寄港するたびにエサをくれるサッチの姿を見るなり、目をハートにして一目散に駆け出した。

「ミャァ〜オ」
「そんで、猫は飼わん!!その程度の気持ちで乗せてたら犬猫何万匹になると思ってんだ!!」
「ナゥ〜〜ンゴロゴロゴロゴロ……」
「昼メシ!!」

 親指でビッ!と背後の船体を指し、死ぬほど苛立った表情と声で連絡事項と若人たちへの文句だけを告げてサッチはズンズン去っていった。

 超高齢化が進むこの島には娼館が一件もないし、最年少の島女は75歳の梅干みたいなばあちゃんだったので、サッチは色々と限界を迎えていた。
 サッチが素数を数えながら無心で仕事をこなし、昼メシができたと伝えにきてみれば、なにやらエースが意中のナースといい雰囲気になっているではないか。「おっ、エース君はどんな風にフラれるのかな♪」と少し離れた場所からニヤニヤ見守っていた、のだが。なんの問題もなく、あっさりと甘酸っぱい恋が成就したのでシンプルにムカついたのだ。
 3ヶ月ぶりに上陸した島で強制お預けをくらった挙句、こんな仕打ちをされたもんだから、彼は耐えられなかったのだ。
 マァ、平たく言えば身勝手極まりない八つ当たりである。

 キジトラは、先ほどとは比べ物にならないほど分かりやすく媚びた声でナァナァニャウニャウとしつこく鳴いてサッチの足元に纏わりついていた。サッチに小包のように小脇に抱えられてからも、メロメロスリスリと大好きなコックさまに猛アピールしている。
 人間にはややこしい不文律や気持ちの忖度があるが、ねこチャンにそんなものはない。
 大好きな相手には体と心を全部使って、大好き構って私を愛して!と天真爛漫にいればそれが一番かわゆいのである。



 サッチに理不尽に怒鳴られた二人はポカンと顔を見合わせて……ほぼ同時にプッと吹き出した。

「帰るか。腹減ったしな」
「うん、お昼なんだろうね」

 どちらからともなく手を繋いで、二人は仲睦まじくモビーへ帰るのだった。

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