野垂れ死ぬならお隣で
ナマエは泣き濡れていた。
22時のバーカウンター。シックな間接照明と洒落たペンダントライトが照らす店内は薄暗い。濡れたように光る天板の木目にカットグラスに濾された光が落ちている。
ガレーラの仕事仲間と行くような大衆居酒屋とは正反対である。
一人で静かに飲みたい時に、誰とも話したくないし話しかけられたくない時に彼女が行く店である。
彼女がなぜ泣いているかと言うと、本日、カトレアさんがフラれたからだ。
カトレアとは何者か?
その名をイヴォンナ・カトレア。ガレーラカンパニーで事務として働く乙女である。おっとりしていて優しくて家庭的で、ストレスにならない範囲での倹約家で、過度な露出もなく、笑顔が大変かわゆい女である。男女問わずガレーラにいれば一度は目で追ってしまう花娘。気立がよく謙虚で仕事も優秀。非の打ち所がない眉目秀麗の純白の睡蓮である。
そんな乙女がフラれた。
一体誰に?
1番ドック艤装・マスト職職長のパウリーにである。
彼の造船の腕とセンスはさすがアイスバーグの右腕といったところ。職人気質の熱血漢。古臭くて汗臭くて、どこまでも男臭い男だ。木材と汗の香りに葉巻の香りが混ざるとそれはドキッとするほど渋くて、無骨な大きな手を思わず目で追ってしまう。日に焼けた肌と無精髭、太い首筋で跳ねる金色の髪に触れてみたい。お世辞にも愛想がいいとは言いがたい強面が綻ぶ瞬間が強烈に胸を打つ。
女の露出に過剰反応を示したり、しょっちゅうギャンブルで金を溶かしたりとどうしようもない一面もあるが、やはり魅力的と言わざるを得ない男だ。
そんな男が社一番と誉れ高い女に想いを告げられ、フッたという。
一晩悩むでもなく、告げられたその場で気まずく目を逸らして首筋を掻いてから、申し訳なさそうに一言。すまん、と。
シンプルな言葉ほど切れ味は鋭い。しかし変な期待を持たせずにひと思いに屠殺してやる潔さは、こと恋愛では誠実さと優しさである。カトレア嬢もそのように理解した。
彼女は言葉を詰まらせ、視線を下げて「そう、ですか」と悲しげに微笑む。
「パウリーさん、聞いてくださってありがとうございました。すみません、お時間を取らせてしまって……」
「いや…悪いな……」
「いえ、いいの。気にしないでください。その…また、同僚としてお話してくださいね」
「あ……」
「きっと、きっとよ。お願いね」
カトレア嬢は無理をしてニコッと笑みを浮かべる。パウリーはこのいじらしさに「……おう」と返すのが精いっぱいで、「ありがとうございました」と頭を下げて去っていく彼女の華奢な背中を見送るばかりだった。
退勤後、カトレア嬢に話があると呼び出されて赴いた本社の廊下の一角。そんなことがあったわけだが、パウリーが感傷に浸れたのは、カトレア嬢の後ろ姿が完全に見えなくなってからのほんの5秒だった。
物陰で待機していた野次馬の職人仲間たちにすぐさまどつかれ、パウリーは大きくよろける。彼をどついたのは職人だけではない。社屋勤務の事務方の男たちも彼を分厚いバインダーで引っ叩いてボコボコにしていた。
『お前ごときがカトレア嬢をフるなんて良い度胸じゃねェかぶっ殺すぞ』が8割。『カトレア嬢をフるような見る目のなさがお前に備わっていてよかったこれからおれがどしたん?話聞こかをやるからあとは任せろだがそれはそれとして死ね』が6割。割合比の計算が合わないが、この2つの感情は両立するので計算が狂うのだ。
マァ、パウリーが男連中の妬みと羨望と憎悪と怒りを一挙に・一身に受けただけの話である。
この暴動と事の顛末は、1番ドックで残業をしていたナマエの耳にもすぐに届いた。
「え?」
「それがマジなんだって!パウリーのやつもなに考えてんだか……というわけでこの後パウリーをシメる飲み会やるけど、お前くる?」
「いや……今日中に見ておきたい図面がいくつかあるから、私はいいや……」
「あっそ。xxxで飲んでるから、気ィ向いたら来いよ。ラッキーアイテムは木槌かノコギリ」
「考えとく」
「おー」
パウリーがカトレア嬢をフった。
恋愛偏差値が低すぎてピンとこなくて断ったわけでもなく。相手の好意をタチの悪いイタズラと過小評価して取り合わなかったわけでもなく。STOP!ハレンチ!の回路暴走で反射的に拒絶したわけでもなく。
断る側の苦渋や気まずさを受け入れた上で、一人の男として向き合って、まともにフったのだ。
密かにパウリーに想いを寄せて早数年のナマエにとって、これは衝撃のニュースであった。
強力な恋敵が減ったと喜んでもおかしくない局面だが、知らせを聞いたナマエは真っ先に絶望した。青い顔で手元の設計図をぼうっと見つめて言葉を失くしていた。
カトレアさんでもダメなの、と。
じゃあそれって。たぶん、誰でもダメなんじゃない?、と。
……パウリーは一生仕事一筋で生きていくのだろうか。
アイスバーグさんの背中をひたむきに追って、大工仲間とやりがいのある仕事に精を出し、己の腕を磨いて、楽しい酒を飲んで、ヤガラレースで一喜一憂し、葉巻の香りで深呼吸をして、大好きなこの街で大好きなものだけに心を尽くして生きていく。
実力至上のむさ苦しい男社会で生きてきた男だ。荒っぽい男友達といるのが一番自由で楽しかろう。女に現を抜かす暇はないし、そも女に興味があると思える態度は見た試しがない。いや、逆に興味があるからこそハレンチと騒ぎ立てるのかも知らんが。
マァ何にせよ、隣に女を置きたがっている気配は見受けられない、というのが同じドックで働く同期のナマエの見立てであった。
あの快晴の空みたいな背中は誰のものにもならないのかしら。
誰のものにもならないあの背中を思い浮かべ、ああ、パウリーっぽい。と思ったら涙がツルリと頬を流れた。
「ぐす、」
唇を噛んで意味もなく左に顔を逸らす。手の甲で涙を拭ってナマエは仕事に戻った。
xxxはガレーラの元大工が営むバルである。ガレーラ社員御用達の下町居酒屋だ。きっとたくさんが集まってパウリーの愚行を詰ろうというのだろう。本当に嫌われてたらわざわざ時間と金を使ってまでそんなことされない。パウリーは猛抗議するだろうが、これは彼が皆に愛されている証明だ。
残業を終え、ナマエは酒場へ向かった。あそこまで完璧な女の子でもフラれるなら私なんて到底無理だ……!と勝手に玉砕気分になった彼女は、どうしても酒が飲みたかったから。
向かった先は、バカ騒ぎには不向きなバーである。何を間違っても2次会にも選定されなさそうな、裏路地に佇む静かな店。マスターはエレガントで寡黙で、客のどんな酒にも付き合って放っておいてくれる。
そこで今宵、彼女は冒頭の通りしとしとさめざめ泣き濡れていたわけだが。
「うお、ナマエ……か?」
なんの因果か、いま一番会いたくない男が現れた。
店に入ってすぐにナマエの姿に気づいたパウリーが「珍しいなぁ。こんなとこで飲んでたのか、お前」と彼女のもとへ歩いてくる。
ナマエは驚きに思考機能を停止されて、ろくに返事もできなかったし、涙を拭うこともできなかった。ゆえに、「聞けよ、ひでェ目に遭った!」と全身で疲労を表現しながら隣の席にドサッと腰掛けるパウリーを止める術もなかった。
マスターがガラスの灰皿を出し、パウリーは一軒目でしこたま飲んで(飲まされて)きたはずなのに性懲りもなくウィスキーを注文して話の続きをせんとナマエの顔を見て。
「……は?な…泣いてんのか?は!?どうした!?」
ギョッと目を大きくして狼狽えた。静かな店内に声が響く。数人の客がチラと二人を見やる気配に気づいてパウリーは、「あ…すません」とヒョコッと首を下げて慌てて謝り、今度は声を潜めて何事かと彼女に聞く。
なんでもない、と形だけでも取り繕えればよかった。けれど、ナマエは残業時から感情が溢れかえっていたし、すでに脳みそは涙と酒でふやけてしまっている。胸の内を掻き乱す張本人からデリカシーなく「どうした」と聞かれれば、やけ酒は自浄効果の促進剤から感情暴発の毒となった。
「何かあったか?話…聞くか?」
「……う」
「う?」
「うっさい!!」
「はあ!?」
ブチギレである。
「あんた独身貴族でもやっていくつもり!?そういうのはアイスバーグさんくらいのレベルじゃないと成り立たないもんなのよ!!」
「いきなり何の話だよ!」
「あんなに良い人を袖にするなんて、ほんとなに考えてんの!?」
「そっ……あ!?〜っ、お前までそういうこと言うのかよ!おれにだって自由に返事をする権利はあんだろ!」
「あるけど!あるけども!」
「……お前、あの人とそんなに仲良かったのか?ナマエの友達を傷つけたってンなら、そりゃ…悪かったけど……」
「は?仕事で何回か話したことがあるくらいだよ。私にとっても高嶺の花に決まってんでしょ!!」
「ンだよそれ。じゃあなんでそんなにお前がキレてんだ」
「……!む、ムカつくから!」
「へえへえ!おれには過ぎたお方だったさ。身に余る光栄でございましたとも!」
パウリーはケッと悪態をつき、ウィスキーを一息で飲み干す。
その事なら一軒目で散々詰られてきた。
パウリーは、“彼女は自分には勿体無い女(ひと)だった”の一点張りで同僚のやっかみを甘受し続けた。腹いせに勧められたドギツイ酒もすべて飲み干した。さすがに暴力には応戦して、縄で縛って店の床に転がしたが。
自分の身の丈に合わなかったから断ったと一貫して主張して余計なことは決して言わず、パウリーはカトレア嬢の尊厳を守り抜いたのである。
そういう格好つけをやって、本当に格好がつく男なのだ。
だからカトレア嬢は彼に恋をしたのだろう。
だからガレーラの男たちは彼を好むのだろう。
おかげで飲み会は「パウリーは童貞だから仕方ない」という不名誉な結論で締めくくって終了と相成った。二軒目にハレンチな店に連れて行かれそうになったのでパウリーは死ぬ気で拒否して、普段なら絶対に入らない店に逃げ込んできたのだ。
「……気持ちもねェのに応えるのは、男として、駄目だろ」
空のグラスを握ったまま、真剣に言う。
一軒目では言わなかった本音だ。
その横顔はやはり格好良くて、思わず一瞬見惚れるほどである。
マしかし。一瞬である。マバタキひとつが終われば、ストッパーの外れた感情と言葉が再び口をつく。
「話はわかったけど、あんたみたいな酒・タバコ・ギャンブル・借金の4コンボを決めてる男ッ、いつまでも独身でいたらどこかで野垂れ死ぬからね!?」
「はあ?」
「現場では懸賞金がいくらかも分からない海賊とも躊躇いなく喧嘩始めるし!」
「それはお前、ガレーラの誇りみたいなもんだろうが!」
「年がら年中、借金取りと追いかけっこしてて、そのうち家とか財産とか差し押さえられちゃうんじゃないの!?」
「さ…さすがにそれは、ねェだろ……、……ねェようにします」
「ほんとに、グス……し、死んじゃっても、知らないんだから……」
「は、」
ぱた、ぱた。とこぼれた涙がカウンターの天板を叩く音は、静かな店内でも隣に座るパウリーにしか届かないほど微かなものだった。
ナマエはパウリーを真似て、グラスに残った酒をグッと飲み干した。空のグラスを両手で包むように握って顔は正面に向ける。パウリーがこちらを見てポカンとしているのは視界の端に捉えているが、涙すら止められないこの状況で次はどんな悪態をついてしまうか分からない。気まずい沈黙にどう対応すればいいのかも分からない。
だから彼女は「パウリーが勝手に隣に来たんだし」と脳裏で言い訳をして、無責任に黙り込んで、好き勝手に泣くことにした。
残念ながら、パウリーに取り合ってやる余裕はないのだ。
パウリーはさめざめと泣く彼女の横顔を中途半端に口を開けて見つめたのち。
「……な、なんだよ、おれの行く末を案じて泣いてんのか……?」
「違うわよ!」
確かに違う。
違うのだが、パウリーの目にはそうとしか見えなかった。
一人にしておいたらきっとどこかで野垂れ死んでしまう貴様を見捨てられない、そう言って熱涙をこぼし、高カロリーな感情を沸騰させているように思われるのだ。
即座に出た否定の言葉すらも、なんだか面倒な女の照れ隠しにしか聞こえなくて、パウリーは視線を自分のグラスに落として耳の下あたりを掻く。
「お前が……」
「ん?」
「お前が、見張ってたらいいだろ。おれの……隣で、一生」
これが口下手なパウリーの精いっぱいであった。
涙の黙秘を決めこむつもりでいたのに、この男が、こんなことを言うものだから。
こんなに最低な「一生一緒にいてください」を知らぬナマエは、隣で気恥ずかしそうにグラスを見つめるパウリーのほんのりと赤い横顔を見て、「——……は?」とドスの効いた声を出した。
「私にあんたのお守りをしろって?」
「なっ……」
「私たち、ただの同期よ?色っぽい関係になったことないよね?ここで飲んでるのはなに?まさかデートだったりする?私たちお付き合いしてる?告白されましたっけ?」
「待てよ、落ち着け、」
「答えろーーッ」
席からガタッと立ち上がり、パウリーのジャケットの襟首を掴んで前後に揺さぶる。勢いにつられてパウリーも席から半端に腰を浮かす。
どれもこれも自分で言っていて傷をえぐるものばかりだ。言葉による自傷行為であり、純然たる八つ当たりあたりである。
自分で言って傷つくくらいなら、最初から自分からアクションを起こせばいいのにしてこなかった。心地よくバカを言い合える距離感が大切で踏み出せなかった。悪いのは自分なのに、簡単な反省もできやしない。こんな女に振り向くもんか、と余計悲しくなってヤケを起こす悪循環だ。酒とは恐ろしいものである。
パウリーは想定外に荒れるナマエに驚き、されるがままに「おお、そんなに飲んでんのかよお前!?」と大人しく困ったり、「あっ、騒いですんません、すんませんね…」とほかの客に申し訳程度に謝ったりする。
「だいたい……」
ポチンと呟いた彼女は急に勢いをなくした。至近距離でぐっと俯くとパウリーの胸に顔をうずめているようにも見えた。
マァ、胸ぐらをつかまれているだけだが。
「“おれの隣で一生”なんて、パウリー、あんたね、」
「あ、ぁ……?」
「そういうのは嫁さんに頼みなさいよ……かみさんに頼みなさいよ…女房に頼みなさいよ!生涯の伴侶に!パートナーに!連れ合いに!家内に!妻に!!あんたそれプロポーズに聞こえるからね!?」
「悪ィかよ!」
パウリーは胸ぐらをつかむナマエの両手首をつかまえて正面から言い返す。そして、目を見て続ける。
「おれがその辺で野垂れ死にそうだと思うなら、……いや野垂れ死んだりしねーけどな!?しねーけど、でも、しそうだってナマエが思うなら、お前が、面倒見てくれよ」
「……介護職に就いた覚えはない」
「こうしてクダ巻いて夜更けの酒場で危なっかしくビービー泣くっつーんなら、その時はおれが、面倒見てやる。それならフェアだろ」
「誰のせいで泣いてると……」
「誰のせいだよ。おれだろ。違うのか」
「……」
「図星だろ、バカ」
「ば……バカはお前だーーッ」
「いてえ!」
ナマエはパウリーの向こう脛を思いっきり蹴っ飛ばす。さすがに怯むかと思ったがパウリーは手を離してくれなかった。逃げようとしての画策だったが失敗だ。
痴漢撃退法、なんだっけ、腕を掴まれたらえっと。どうすれば手を解けるんだっけ。わ、わかんない!
ナマエはたったいま彼に言われた言葉の数々を思い返してじわじわとパニックを起こしていた。
まったく冷静じゃないから変な解釈をしているだけかもしれない。都合よく組み立てている気がする。
どうしよう、こんなの可愛いとは程遠い。噛みついて暴れて蹴って。これでは、ただの同期としてもちょっと距離を置かれてもおかしくない。……
目をぐるぐるさせながらウゴウゴ暴れるが、毎日重い資材を軽々運ぶパウリーに力で敵うはずもない。
だんだんと彼女の抵抗は小規模になり、やがて困り眉で唇をキュ…と結んで大人しくなる。頑なに目を合わせないところは不貞腐れた柴犬みたいだが、涙でうるうるの瞳はキュンと胸を衝くものがあった。
パウリーは頸のあたりに変な汗が滲む感覚を必死に無視している。
「……帰るぞ、ナマエ」
「…………はい」
「どうも皆さんお騒がせしました」
「すみませんでした……」
パウリーは財布に入っていたありったけのベリー札をカウンターに置く。二人の代金を合わせた額よりも多いが、迷惑賃ということでマスターに納めさせた。
ナマエは腕を引かれてパウリーとともに店を出る。
店の外は夜風が吹いていて涼しい。どこからか酔っ払いの笑い声が聞こえる。大通りの水路はまだ人の気配があり、ニーニーとヤガラたちの鳴き声もする。
「あーあ。財布、すっからかんだ」
「……ごめん、払うから」
「別にいい」
「借金まみれの男がなにを……奢れる余裕なんてないでしょ」
「いいっつーの。格好つけさせろよ」
面倒くさそうに言ってパウリーはナマエにかからないように少し上を向いて葉巻の煙を吐いた。トレードマークでもある額のゴーグルが夜灯を反射して一瞬強く光る。
その横顔は、本当に格好いいのだ。
これ以上は野暮と悟ったナマエが「……ご馳走様です」と言うと、パウリーは返事の代わりに腕を引いて歩き出した。
「家、こっちだったよな」
「うん」
「送る」
「……平気だよ、一人で帰れる」
「だいぶ飲んでんだろ。水路に落っこちるぞ」
「パウリーじゃあるまいし」
「おれは落ちねェよ」
「…………好き勝手に言ってごめんね」
「……おう」
「胸ぐら掴んだり、蹴ったりして、ごめんね」
「別にどうってことねェよ」
「痛いって言ってたじゃん」
「あれは……、じょ…条件反射みたいなもんだ。痛くねェ」
「あはは…嘘へたね〜……」
「嘘じゃねェ。ナメんな」
「んふふ、はいはい」
「聞けよ」
パウリーはナマエの腕を引いたまま、ナマエはパウリーに腕を引かれたまま帰路についた。
彼女が住むアパートに着く頃には、涙はすっかり乾いていた。
「送っていただきましてありがとうございました」
「おう」
「……」
「……」
「……?」
なぜかパウリーは立ち去ろうとしない。
自分が中に入るところまで見届ける気なのかなとも思ったが、なにやら首をさすったり口元に手を当てたりと落ち着きがない。
なんだろ、と何となく眺めていると、パウリーは意を決したようにナマエへ視線を合わせて口を開いた。
「……マァ、金がねェのは確かだし、……明日あたり、野垂れ死ぬかもしれねェな」
「え、」
「見張っとけよ」
「…え、え?」
「おやすみ」
「え、えと……おやすみ……?」
パウリーは野垂れ死に予告をして踵を返して去っていった。
突然の謎予告に部屋に入ることも忘れて、ポカン…と遠ざかる背中を見つめる。途中でアパートを振り返ったパウリーと目が合うと彼はびっくりしたようにやや目を大きくし、足を止めて「早く中入れ」とでも言いたげに虫を払うように腕を振る。ナマエがアパートに引っ込むのを見届け、ようやく歩き始める。
ナマエは自宅に入り、コップ1杯の水を飲み。
「野垂れ死なれちゃ……困るわね……」
と、明日の彼を想ってドキドキするのだった。
翌日の昼休み。
ナマエは午前中一緒に作業をしていた仲間たちと1番ドックの一角で昼食をとり始めた。テーブルがわりの木箱の上に並べたコップにヤカンの冷えた麦茶を注いでいると、他の場所で作業をしていた面々が合流してきた。お疲れさん、と声をかけあいながら、みな適当に座り場所を見つけて食事を始める。
その中にはパウリーがいた。遠目に彼の手に仕出し弁当があるのを確認して、無一文による飯抜きではないようでナマエは密かにホッとする。
彼女が自分の分のコップを手に着席して、さあ食べようかしらというその時。
彼女の手元に影が落ちた。
「野垂れ死にそうだ」
ナマエの目の前に立ったパウリーが仏頂面でボソッと言う。
彼女はそれをぱちくりと見上げたあと。
「……野垂れ死ぬなら、お隣で」
と小さな声で言って、隣を空けてやった。
パウリーはナマエの隣にドサッと腰を下ろして、弁当を食べ始めるのだった。
この二人が正式に交際を始めるのは、ここから1年後のことである。
***
その後、カトレアさんは仕事熱心で真面目で誠実な2番ドックの若き有望株の男からの猛アプローチのすえ交際を開始。1年間の丁寧な交際期間を経て、無事にゴールインするので何の問題もありません。アイスバーグさんも二人が付き合い始めたと聞いたときは、「どう考えてもギャンブル狂よりこっち」と仰っておりました。良かったね。
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