チュウ



 天候は良好、敵船の影もなし。航海は至って順調に進んでおり、まさに昼寝日和。

 陽当たりのいい船尾側デッキの一角で壁に背中を預けておれは微睡みの中にいた。
 とたとたと誰かの足音が近づいてくる。おれのそばで止まる。額に柔らかい熱が落ちてくる。そして足音は遠ざかっていく。

…………ん?

 瞼をゆっくりと持ち上げ、今起こったことを思い返す。足音が去った方向を見たが当然誰もいない。甲板側からがやがやといつもの喧騒が聞こえるだけ。


「……でこにチュウされた」


***


 おれの額に落とされるキスはその後も不定期に続いた。穏やかな儀式にも似たその行為をおれは特に気にせず受け入れていたし、キスをするそいつもやめる気配はなかった。

 ある日、ふと湧いた疑問。もっと早くに湧いててもよかったはずの疑問。

誰がやってるんだ?
というか何のために?
みんなにやってるんだろうか?
幼子の額にするような優しいそれは一体。

 一度気にし始めると気になって仕方なくなった。突き止めたらそいつはやめてしまうだろうか。そんな不安もあったがむくむくと膨らむ好奇心はおれの頭をあっさりと占領した。


「なぁ、サッチ。おれのでこにチュウしたことあるか?」
「……は? ねェよ、あるわけねェよ、なんでおれが野郎のでこにキスすんだよ」

 昼過ぎの食堂。食器を片付けていたサッチに聞けば、気持ち悪ィ、とサッチは自分の二の腕をさすった。
 だよな、おれもサッチは嫌だ。

「なにお前、でこにキスされてんの?」
「表で昼寝してっとたまに……」
「はァ〜〜〜??? なんだよ、ぜってェナースじゃないからな!! きっとジョズとかラクヨウとかムキムキのオッサンだかんな!!!」

 夢見んなよ!!と叫んだり悔しい!!と地団駄踏んだり、サッチはうるせェな……。
 たまに甲板で昼寝をしているサッチの姿も見かけるが、そのでこにチュウをされたことはないらしい。
 だよな、おれもしない。



「なぁ、マルコ。でこにチュウするのってどんな気持ちなんだ?」
「でこ? なんだそりゃ」
「最近外で寝てるとでこにチュウされんだよ」
「知るか。口ならいざ知らず、でこなら……さしずめガキ扱いってとこじゃねェかい?」

 マルコの巣である医務室。カルテを整理してたマルコに聞けば、エースはこの船で一番ガキだからな、とマルコは意地悪く笑った。
 ふざけんな、おれももう立派な大人だ。

「ま、スキンシップの一環とも言えんじゃねェかい」
「スキンシップ……」
「少なくとも嫌いなやつにはやらねェだろい」

 マルコは手元のカルテに視線を落として仕事を再開する。確かにマルコは大人ってやつだ。こんなに天気がいい日にも部屋で真面目に仕事なんかしてやがる。

「そんなに気になるなら現場を押さえりゃいいだろい」
「眠くて寝てんのに起きらんねェよ」
「でもでこにされてることにゃ気付くんだろい」
「まァ……気配はあるし……」
「狸寝入りでもして待ってみるこったね」

 くぁ、と欠伸をひとつ、マルコは回転椅子を軋ませておれに背を向けた。
 あ、仕事の邪魔だから出てけってことね。おれも子供じゃねェからそれくらい分かる。



 いつもの場所に寝転がり、マルコの助言に従って狸寝入りを試みる。今日も昼寝にはお誂え向きの上天気。忍び寄る睡魔に意識は容易くさらわれた。

とたとた。足音。おれの顔を覗き込む気配。
またもや額にそっと落とされる柔らかな熱。

ああ眠い、気持ちいい、知りたい、眠い。

 眼を閉じたまま、近くにあった細い腕をつかんだ。
 そいつは慌ててぐいぐい腕を引っ張って逃れようとするが、2番隊隊長のおれの手はそう簡単にほどけない。おれは身体をのそりと起こし、空いた方の手で眠い目をこすって腕の主をその目に捉えた。

「…………ナマエ?」
「……た、たいちょ、」

 真っ赤な顔で目を泳がせているそいつはおれの隊の部下だった。


***


終わった。


 夢うつつのまま私の腕をつかまえている我が隊長。あーーー恥ずかしい、消え去りたい、忘れてほしい。どれかひとつでも届いて見逃してくれまいか。期待して暴れてみたが隊長の手は緩まなかった。

 最初はほんの出来心だったんです。
 戦闘訓練の名のもと、隊長と組手をした。力の差は歴然、一発も食らわせることはできなかった。まだまだだなとか動きをよく見ろとか隙だらけだぞとか散々言われて悔しい思いをした日の午後、運が良いのか悪いのか、船尾側のデッキで昼寝をしてる隊長に出くわしたのだ。
 私が近付いても起きる気配のない隊長は無防備そのもの。
壁にもたれた隊長の顔を覗き込んでみる。そばかすの散る健康的な肌。ぽやっと開いた口元。伏せられた瞼を彩る睫毛。私が想いを寄せてる人は本当に整った顔をしてるんだなぁと思った。

……隙だらけはそっちじゃんか。

 悔しさと恋慕と気まぐれのハイブリット。
 かくして私は最初のキスを隊長の額に落としたのだ。


 それ以降も何度か昼寝する隊長に遭遇した。すやすやと眠るその顔を見たら今度は自然に額へ唇を寄せていた。
 いい夢が見れますように。風邪を引きませんように。怪我をしませんように。
 穏やかな寝息を聞きながら、そんなささやかな願いを込める。私だけが知るおまじない。

 それも今日で終わり。もう色んな意味で終わり。軽い気持ちで重ねてきた行為は私の墓を深く深く掘ることとなった。大好きな隊長がこんなに近くにいるというのに目も合わせられない。恥ずかしさで視界が滲む。
 あーあー、絶対キモいって思われた。詰んだ。隊の異動願いってどうやって出すんだろ。てか隊長も黙ってないでなにか言って。

「なんとなくさ、お前かなーって思ってたんだよな」
「へ?」

 ぐいっと腕を引かれ、隊長の方へ身体が傾く。大きくて温かい手が優しく私の前髪を払い除けて、柔らかい熱が額にぶつかる。
 目の前には隊長の赤い数珠の首飾り。一粒一粒に間抜けな私の顔がうつっていた。
 ちゅ、とリップ音を残して熱が離れる。

「でこにチュウすんのってこんな気持ちなんだな」

 陽だまりのように笑うその顔から今度は目が離せない。この人に太陽のような、なんて言葉はきっと月並みだ。でもそれ以上に似合う言葉がない。
 この人は太陽。私の心を自在に暖め、焼き尽くす。私はその顔が曇らないよう祈ることしかできない。

ねぇそれは寝ぼけてるの?
寝込み襲われてたのに能天気すぎませんか、隊長。

「あの……隊長、その、」
「ごめんなさい、なんて言うなよ」
「でも、」
「スキンシップってやつなんだろ?」

 激しい良心の呵責。
 みっともなく言い訳を並べる気力もない。大人しく白状しよう。隊長、スキンシップなんてそんな可愛らしいものじゃないんです。

「私のは、不純な動機によるもの、です」
「不純?」

 後ろめたさで死ぬ。でもこれ以上私の口からはとても語れない。目線をデッキに落とし、唇をきゅっと結んで隊長の興味が失せることを願う。
 不純ねえ、と含みのある笑いが聞こえたと思ったら、今度は唇にふにっと柔らかい熱があたった。


「不純っつーのはこういうのを言うんだよ」


 目の前にあるのは首飾りじゃない。隊長の黒い瞳に間抜けな私の顔がうつっていた。
 つかまれていた腕は解放され、隊長は大きな欠伸とともに再び寝転がった。先程まで逃げてしまいたいと思っていたのに私はその場を動けずにいた。
 逆上せたように熱い。

「隊長……いま、なにを、」

 お返事は健やかな寝息だった。





 もしかしたらナマエかな、という予想には少しの願望も入っていた。

 慈しむように額に落とされるその熱が、憎からず想っているナマエからのものだったらいいな、と。

 浮かれた気持ちのまま、その額に、唇に熱をくれてやった。赤くなって固まるナマエがやけに可愛くて、腹のなかに陽だまりを抱えたような心地になった。


ああ、いい夢が見られそうだ。


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