滲む欲



 今日はハロウィン。
 娯楽に飢えたモビーディック号の住人は、盛り上がれるイベントには盛り上がれるだけ盛り上がる。クオリティの高低を問わず仮装して、お菓子の代わりに酒とつまみを用意し、イタズラと称したドンチャン騒ぎ。
 トリック・オア・トリートは乾杯の掛け声と化した。
 いい歳した厳つい野郎共とはいえ、海を渡る夢追い人の名に恥じずその心はみな少年のようにピチピチである。

 楽しいことはみんな大好きで、それはナマエも同じだった。
 なにか仮装したいと言い出したナマエのため、エースは去年使ったという狼男衣装を引っ張り出してきた。つけ耳にもふもふの獣ハンドと毛足の長い飾り尻尾。シーツ1枚かぶるだけでも合格のガバガバ判定の中、これはなかなかのクオリティの仮装だった。

 甲板と食堂で粗方騒ぎ尽くした頃、ナマエは次の遊び相手を求めて廊下をぶらついていた。適度に酒が回り、誰かに構ってほしい気分である。誰かいないものかとひんやりと涼しい廊下を進むと、医務室から明かりが漏れていた。
 こんな愉快な日に、真面目なアルコールの香りに包まれて仕事をしている人間なんて一人しか思いつかない。もとより医務室は彼の城だ。

「へーいマルコー! トリック・オア・トリート!!」

 無遠慮にナマエが開けた扉の向こうには案の定、愛用のドクターデスクで仕事に励むマルコがいた。
 うるせェよい、と心底迷惑そうに振り返った彼はナマエの姿を見て、ゆっくりと腹の底から長く深いため息を吐く。

「…………菓子はねェ、イタズラも興味ねェ、帰んな」

 こんな風にしっしっと冷たくあしらわれたらナマエも黙って引き下がれない。こりゃもう何がなんでも構ってもらうしかないなとナマエは謎の決意をする。
 再びデスクへ向き直ったマルコの視界に入るようナマエがわざとうろちょろした。

「ねえ仕事? 今日はハロウィンだよ? トリック・オア・トリートってお酒飲む日だよ?」
「ハロウィンはそういう日じゃねェだろい……」
「またまたぁ、この船の古株が何を仰る。うちじゃどんな日もそういう日になるって知ってるくせに」

 呆れたように笑って、ナマエは持っていた小さな酒瓶を傾けようとした。が、それはマルコによってひょいと取り上げられた。

「なによぅ」
「だいたいなんなんだ、その格好はよい」
「狼男! エースのお下がり!!」

 いーから酒返せ!とナマエが獣ハンドでマルコをぽふぽふと叩く。毛並みは気持ちいいがパンチの威力は半減だ。半減どころか全く堪える様子のないマルコはナマエを軽くあしらいながら、ふぅん、と生返事をひとつして奪った酒瓶を一口に煽った。ナマエが私のお酒!!と地団駄を踏む。

「……うるせェ駄犬だな」

 ダンッと勢いよく踏みつけられた尻尾。飾りなので当然痛みはないが、ナマエはギャッと色気のない悲鳴をあげた。

「ちょ……ちょっとマルコさん?」
「……」
「尻尾踏んでる……って足の力つよ……おーい?」
「……」
「ねーーぇ!」

 本に意識を戻したマルコはまるでナマエの声など聞こえていないかのように無視を決め込んでいた。
 ぎゅぅと踏みつけられた飾りの尻尾を見下ろしながらナマエのお腹の中は怒りと困惑と呆れと辟易となんかもう色々ごちゃ混ぜだった。

「マルコさん、足どけましょうよ大人げない」

 ぺらりと静かに本が捲られる。ため息をつくでもなく、咎める態度を取るでもなく、マルコの視線は淡々と文字を追う。彼の足は1ミリも動く気配はない。
 マルコほどではないが、モビーでは古株と数えられるナマエはこうなったマルコはどうしようもないことを知っていた。マルコという男は冷静な大人に見えて、しばしば子どものような突っぱね方をするのだ。損ねた機嫌が直るまでおそらくこの足はどかないだろう。

 まるで鎖に繋がれた犬。
 酒を取り上げられ、部屋を出ることもかなわず、大人しくマルコのそばにいることしか許されない。
 診察用の丸いすをなんとか手繰り寄せ、ナマエは腰かけた。大きなため息をついてマルコの気が済むのを待つことにする。

まこと、遺憾の意!


***


 もとよりほろ酔い程度だったアルコールも抜け、すっかりナマエは素面になっていた。
 ドアを隔てて朧気に聞こえる甲板や食堂の騒ぎ声が白々しく聞こえ、ナマエは先ほどマルコを襲った獣ハンドの肉球を退屈そうにぷにぷにとつついている。

「ねーマルコ」
「……なんだよい」

 お、やっと反応した。
 マルコは相変わらず本へ視線を落としていたが、ようやく耳はナマエに貸してやる気になったらしい。

「だる絡みして悪かったよ、足どけて。もう飽きた」
「いきなり人の仕事場で喚いておいて飽きたから解放しろだと?ずいぶん勝手な言い種だな」
「うわ、柄ワル」
「懲りてねェようだな」
「あーーごめんなさいごめんなさい」

 いつも眠たげな目が凶悪そうに細くなるのでナマエは慌てて白旗を振る。ふん、と鼻を鳴らしてマルコの長い足がようやく浮いた。すかさず尻尾を引き抜き、数十分ぶりの自由を得る。
 おもむろに立ち上がったマルコが薬品棚をあさりだす。何事かと思って眺めていれば、マルコはボトルを1本取り出し振り返った。

「トリック・オア・トリート?」

 そう問う顔は、楽しいことが好きで仕方ないこの船には大変似つかわしい、悪戯っぽい笑顔だった。ナマエの顔がぱっと輝く。

「ほらね、そういう日になった!」
「ほれ、そっちの棚からグラス持ってこいよい」
「やっぱりマルコも飲みたかったんじゃん。いやー高そうなボトルですねぇ隊長」
「おれはこんな安酒で酔いたかねェのさ」

 ナマエが持ち込んだ酒瓶を小突く。キュポンと小気味いい音が部屋に響いた。
 グラスが持ちにくかったのか、棚から戻ってきたナマエの手は人の手に戻っており、獣ハンドは小脇に挟まれていた。

「せっかくなら他のみんなも呼ぶ?」
「お断りだねい」
「えー多い方が楽しい」
「おれはナマエと飲みてェんだ」

 子どものようなストレートな駄々を平気でこねるマルコに思わず笑みがこぼれる。
 ほかのクルーの前じゃこんなこと絶対に言わないのに、マルコはナマエの前では妙に子どもっぽいところを見せる。それを古株同士の気安さだとナマエは解釈している。
 ナマエはブドウ酒で満たされたグラスを軽く持ち上げた。

「えーと、なんだろ、素敵な夜に?」
「柄にもねェな。素敵なわんころに?」
「狼ですゥ!」

 二人はくつくつと笑いながら乾杯をした。
 微かな酸味が癖になる美酒にナマエは舌鼓をうつ。マルコもその美味しさを認めるように、さらにグラスを傾けた。

「いい加減その耳と尻尾も取れよい」
「気分だけでもハロウィンでいたい……」
「また踏みつけられてェのかい?」
「なによ、マルコそんなに仮装嫌いだったっけ?」

 仮装にこだわる強い理由もないが、わざわざ外す理由も見つからないナマエは怪訝そうにマルコを見つめる。
 すると、マルコはふいっと目を逸らした。
 珍しい、というより何かおかしい。誤魔化そうと思えば適当な嘘をついてスマートに流すだろうに、今回はなにやら違う。

「あ、マルコも耳つけたい?」
「ンなわけあるか」
「これは失礼致しました」

 また貝のように口を閉ざされては堪らないので、ナマエはからかうふりをしてマルコの視線をこちらに向けさせる。
 じぃっと見つめるナマエに、マルコは厚い唇をへの字に曲げた。そして観念したようにぼそりと呟く。

「……そいつはエースのもんだろい」
「? そうだけど」
「だからだよい」

 これ以上は言わない、とばかりにマルコはグラスを煽った。


付き合いが長いと何でも知った気になるが、マルコのこんな一面を見るのは初めてだった。

こんな、やきもちを妬いたような、可愛らしい一面は。


 高いお酒は酔い方も独特なんだろうか。
 器用なことに、顔だけがやけに熱かった。


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