小話 - なんとはなしに

01


 ある夏の日、女は掃除をしていた。うだるような暑さの、八月末のことだった。
 浄化の済んだ本丸御殿。更なる穢れを生まぬよう、この地でたった一人の人間は、箒と雑巾を手にせっせと汚れを落とし回っていた。
 その日の割当は鍛刀部屋と刀装部屋、そして周囲の廊下である。ここは深手を負った多くの刀剣男士が居る手入れ部屋付近でもあり、女は三口の付喪神に監視されながら埃だらけの床板に黙々と箒を振るっていた。
 ふと、下ばかりを向いていた女の視線が宙に浮く。そして彼女は見た。大きく裂けた障子紙の向こうを。
 錆だらけの刃毀れした刀、刀身にヒビが入り、折れかけている刀、血糊がこびり付き黒く染まっている刀──乱雑に散らばっているそれらに加え、畳間に伏せいる神、神、神……。所狭しと横たわる付喪神たちは、どれもひどい怪我をしていた。息があるのか、疑ってしまうくらいに。
 その惨状を目にし、唖然として双眸を瞠る女。己が想像していたよりも、神々の状態がかなり悪かったからだ。
 手入れ部屋に転がる無数の刀剣男士。女は彼らが皆、閉眼しているものと思い込んでいたが、その中に一口、分かるか分からない程にうっすらと瞼を開け、女の姿を目視していたものがいた。
 兎のような赤眼に、胸元に垂れた黒い髪束。川の下の子河原の子、加州清光である。
(……あれは)
 ぼやけた視界に不意に飛び込んできた何か。それが人だと分かるまで、随分時間が掛かった。彼の霞んだ目がかろうじて判別したのは、不鮮明な輪郭と顔の大まかなパーツのみ。遥か昔の事になるが、時間遡行軍より首に受けた傷から血を流しすぎ、以来意識が朧げなままであるせいだ。
 ざっくり破れた障子の裂け目から覗く誰か──……半死半生の刀剣男士は直感的に、あれは神たる同胞ではなく人間だと察知した。
 加州清光の時間は随分前に止まっている。彼の中でのこの本丸は、まだ女より前の審神者に支配されていて、ここに存在する人間はあの冷徹な男しかいないはずだった。しかし、力ない赤眼が捉えた誰とも分からぬそれを、彼はこれまた直感的に、あの男とは違う別の人間であると看取した。
(誰だろ)
 夢か現か、空漠とした頭であれが誰なのかを気にする加州清光であったが、著しく思考能力の鈍った脳は全く働かない。ただぼうっと、薄目であるが故の細い視野で女を眺めるばかりである。
 しばらく、破れた障子紙の間から食い入るように室内を見つめていた女は、やがて小夜左文字に制され手入れ部屋から顔を背けた。
(……あ)
 女が去ろうとしていることを察した傷だらけの付喪神は、反射的に引き留めようと喉元に力を込めた。この時彼は、人間という生き物への憎しみや恨みを忘れてしまっていた。いや、忘れているというよりは、靄のかかった思考のせいで、感情も記憶も混濁していると云った方が正しいか。
 人には懲りたはずなのに。関心は寄せない方がよいと学んだはずなのに。──何故だか、行ってほしくなかった。
 ……待って。
 血痕で汚れている乾いた唇が僅かに動くが、声も出なけりゃ口も開かぬ。加州清光は弱り過ぎていた。
 障子襖で隔てられたあちら側から話し声や怒鳴り声がし、幾許もなく誰かの気配が遠ざかる。女は管狐の持って来た手箒を装備し、廊下の奥へ奥へと掃き進んで行った。
 もう感じられなくなった気配を探しながら、あれは誰だったのだろう、と加州清光はゆっくり瞳を閉じた。重傷の神々は、そのほとんどがずっと意識を失っている。けれど、加州清光のように覚醒と昏睡を繰り返すものもいた。
 急激に訪れた強い眠気に抗う術もなく、加州清光は再び深い眠りにつく。
(あの人は、……俺のこと愛してくれるかな)
 意識の落ちるその間際に思うのは、期待か望みか、憧れか。
 次に目を覚ました時、彼は此度の出来事や記憶を、何一つとして覚えてはいなかった。

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