SSおきば

※:性的描写あり

20.05.19

241×061
これで明日も頑張れる話
 少し薄暗く長い一本のトンネルを通り抜けた先に目的の場所はある。半開きになったままのシャッターを潜り抜け、様々な色のネオンライトが輝く中で擦れ違う人々が賑わう夜のスパイクタウンの雰囲気は、自分の住む町とはまた違う懐かしさと温もりを感じられて不思議と居心地が良かった。
 特別約束を交わす事は滅多にない。カウンターの一番端の席に腰を下ろし、古いラジカセから流れるスウィートジャズだけが静かに流れるバーは今夜も自分以外に人の気はないが、恋人の紹介で一度訪れて以来気に入ってマスターに顔を覚えられる程度にはよく通っている(そもそも、元から顔も名前も知られていたので初めは大層驚かれた)。今日もただなんとなく一杯飲んでから家に帰りたいと思っただけだった。勿論自宅はナックルシティにある為、寄り道というよりはわざわざ遠回りをして立ち寄っていると表現した方が正しい。それでもこの場所を選び一人酒に嗜んでいるのは心のどこかで淡い期待を抱いている部分もある。

「…そこ、おれの席なんですが」

 小さく溜息を吐きながら傷だらけの床をかつんと高いヒールで踏み付け、すぐ隣りの丸いスツールに腰掛けた彼の表情は呆れながらも声色はとても優しい。黒と白のコントラストを一つに纏めた長い髪を揺らし、店の奥にいるマスターにそっと声を掛けては注文を一つ。知らぬ間に空っぽになったグラスを見て、ついでにともう一杯分を追加してくれる彼の優しさにまたとろりと目尻が垂れた。
 何を話すでもない、何か用事があった訳でもない。普段よりもゆっくりと流れているように感じるこの時間の中で、共に微睡に呑まれていく感覚は酷く気持ちが良い。それは店の雰囲気とアルコールの力だけではなく、ネズという存在がすぐ側に存在している事が大きかった。誰が見ても白く細い体つき、だのにそれなりに体力と筋肉は付いていて、あの激しいライブにも耐え得る底力と今こうして静かに俯き瞼を落とす黙然とした姿との差が自身を惹き付けて止まない。

「なぁ」
「何です」
「…いや、何でもない」
「はっきりしない男は嫌われますよ」

 ネズは何も言わない。それが彼なりの気遣いなのだと知っているし、それに甘えてしまっている自身がいる事も理解している。どんなに吐き出してもどれだけ別のものにすり替えようとしても、今この瞬間目の前に彼がいる。それ以上の治癒は他にない。そっぽを向いて隠れてクスリと笑ってみれば、再びかつんと硬い靴音が店内の中に響く。直後、ふわりと鼻を掠める香水の匂いにふと振り向けば重なる柔らかな唇と視界に広がる艶やかなアイスブルー、拒むなどするはずもなく寧ろ蝕むようにその甘さに噛み付いた。

「っ…ふふ、体は正直ですね」
「なんだよ、元気付けてくれてるのか?」
「それがおれの仕事ですから」

 着ていた白のジャケットをするりと肩から落とすように脱ぎ捨て、首筋から流れるように落ちる汗、火照った頬を細めた瞳に釘付けになりそうになったところでなんとか正気を取り戻しては、細い両腕を掴みその身を引き寄せた。

「そういうのはいらないッ」
「…自分のものだけにしたいから?」
「それも、ある、けど」
「すみません。少し、意地が悪かったですね。飲み過ぎたみたいです」

 長い髪の陰に隠れた苦笑に釣られてそっと首を振る。お互い子供に戻ったみたいだと心の中で呟いて、いつの間にかずっしりと重みがあったはずの肩の荷が消えている事に気付いた。自身の悩みなど所詮はこんなものだ、好きなものに囲まれれば一瞬で払い除けてしまう。それでも今日は、今夜だけは彼に会えなければ潰れていたのかも知れない。靄のかかった視界の中でもそう思う程に心が酷く疲れていたのだと思う。だからつい、愛おしい恋人にそっと我儘を言ってしまった。

「…もう一度、おまえからのエールをくれよ」
「ネズにはアンコールはない、って知りませんでした?」
「今度は、仕事じゃなくて」

 オレの為だけのエールが欲しい。耳元で熱い息と共にそう吐き出すと暗転する視界、気付けば天井を背景ににこりと微笑むネズの重さをずしりと全身で感じる中、空になったままのグラスに残る氷の欠片がぶつかり合う澄んだ音がカランと耳に響いた。


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