夕方開けて朝になったら店を閉める。そして昼まで横になって腹が減ったら飯を作り、居間でテレビを見ながら食べた後、時間通りに来てくれるアルバイトの若いガールが開店の準備をする。朝飯はいつも食べない。夜はちょっと腹が減るから常備している柿ピーを食べ、夕刊を読みながら玄関口の番台で店番をする。基本的に休みの日はなく、しかし同じような日常を毎日繰り返す中でも、ちょっぴりおカネに困る時期だけは時々ナワバリバトルへと出向いている。他人の褌で相撲を取る、という訳ではないが、ランクが高いインクリングのチームに入れそうな時はガチマッチの方が儲けも多いのでこっそり潜り込む時もあった。そこで勘違いをしないで欲しいのだが、別にバトルそのものをさぼっている訳ではない。自分からホコを奪いに行ったりヤグラを動かすという事はあまりないが、ちゃんと相手チームを遮るようにトルネードを落として錯乱をしたり、他が争っている間にナワバリを塗り広げては味方チームの道筋を作ったり、つまりサポートに関してはある程度しっかり役に立っているはずだと自負している。この間はバケットスロッシャーと間違えて銭湯の桶を持って行ってしまったものだから、チームに呆れられた事もあったけれど。
バトルを根本的な部分から楽しむ、という年でもなくなってしまったので、今では滅多にイカスツリーまで出向く事もなくなってしまったが、銭湯にやってくるボーイやガール達のバトルの話に耳を傾けるのは好きだった。今日はあんな戦い方をしてみたとか、こんなブキを使ってみたとか、新しいブキは扱いが難しいとか、最高のコンビネーションで見事バトルに勝つ事が出来たとか、ようやくランクがAに上がったとか、話の内容は多種多様で彼らのように過去幾多にたくさんのバトルを経験してきた自分としては、何度聞いても飽きないホットな話題だった。
(昔はよく、一緒にタッグマッチ行ったっけな)
首から下がるセピア色のリングを無意識に握り締める。日付が変わりつつある深夜、賑わっていた脱衣所も段々と落ち着きを見せ始め、いつの間にか最後の客も瓶に入ったイチゴ牛乳をぐいぐい飲み干してはサファリハットを深く被り、ごちそうさまとだけ小さく告げて店の外へと出て行った。しっとりとした温かい空気が漂い天井に設置された古い扇風機がぶんぶんと回る音だけが響いている。アルバイトのガールも今日はさっさと仕事を済ませ、とっくの昔に帰ってしまっていたのでろくな話し相手も今はいない。一度鍵を閉めて自分も風呂へ入ってしまおうかと思ったその時、ゆっくりと玄関の引戸が軋むようにがらがらと開いた。
「お、いらっしゃ……」
視線を向けると、そこに客の姿はない。しかしどうも気になってその場に立ち上がると、ちらりと見えている引戸の外側に小さなインクリングのガールが縮こまって座っているのが見えた。番台から出て、引戸の一歩手前の所で同じように腰を下ろしてみる。斜め前に座る彼女の姿は扉のせいで見える事はない。
「……外、寒くないかい」
「………」
「お風呂、入ってく?」
「…………」
声を掛けても物音一つ起きない。何か言葉が返ってくる訳でもなく、とりあえずこればかりは仕方がないと思い、何か温かい飲み物でも入れてあげようと立ち上がって背を向けた直後、急に後ろから引っ張られる感覚を帯びて思わずその場に留まった。うお、と零して振り向くと、今の今までちっとも反応を見せなかった彼女がすぐ側で下を向いたままフクの裾を摘んでいた。
「………ろ」
「え?」
「おふろ、はいりたいっ…!」
「……いいよ、入りなさい」
「でも、おかね、なくて」
「子供がそんな心配しなくていいの」
おいで、と促して女湯ののれんを潜ると、恐る恐るもぱたぱたと自分の後ろを付いてくる彼女に自然と微笑みを零した。誰もいない脱衣所で泥だらけだったフクを脱がして、まだぬくもりの残る風呂場の床に敷き詰められたタイルの上を滑らないように歩き、四角い木の椅子が前に置かれた洗い場へと座らせ、勢い良く並々に湯を溜めた桶を持ち上げては、頭から思い切りそのお湯を掛けてやると水滴を振り払うように首をぶんぶんと振っていた。
「んっー!」
「あはは、ごめんごめん。でも、気持ちいいだろ?」
突然被るように湯を掛けられて不機嫌になったかと思いきや、振り向いた彼女の表情は少なからずも柔らかかった。髪と体を泡だらけになりながら綺麗に洗っていると余程嫌だったのか飛び込むように湯船へ入れば、激しいお湯飛沫がこちらにまで飛んできて見事なまでに頭から足までずぶ濡れになってしまった。
「アチャー」
こうなっては仕方がない。もう客足も途絶えたところだった事もあり、しわしわになったフクを着たまま湯船に足を踏み入れると、泳ぎながら浸かっていた彼女が一瞬だけ笑った事に気付いたその瞬間、驚いたのか再び消えるように無表情へと戻っていった。少々寂しさを感じながらもしばらく入浴を楽しんだ後、三十半ばの一人暮らしの家にガールの似合うフクなどある訳がなく、仕方がないので時々寝間着として着ていたお古のわかばイカTを貸してあげた。サイズが合っていない為にかなりだぼだぼになってしまっていたが、それはそれでTシャツ一枚で済んだという事で結果オーライとする。
先に着替えを済ませていた自分は彼女が着替えている間に洗濯機を回し、その後は再び番台に戻って途中だった夕刊に読みふけていると、脱衣所から出てきたらしいぱたぱたと弾む小さな足音がすぐ側へと近付いてくる。跳ね上げ式の扉を開け、目の前に立っていた彼女は、先程とは打って変わってひどく寂しそうな顔でこちらを見上げていた。
「……おじちゃん」
「おにいさんね」
「おじ、おにいさん」
「なんだい」
「…………ありがとう」
「いいえ、どう致しまして」
つやつやになった髪ごと、よしよしと手のひらでその潤ったオレンジ色の頭を撫でる。彼女の視線に合わせるよう体制を低くし、しゃがんで表情をうかがうと大きな瞳からぼとぼととこれまた大きな涙の粒が、古い木の床に落ちていくつもの染みを作っていた。
「…帰るところ、あるの?」
眉尻を下げながらそう問えば、必死にふるふると首を振って無言で答える。
「お母さんと、お父さんは」
「……もう、ずっと、帰ってきてない」
「…そう」
とても小さな声でそう零す彼女の体は、よく見ると確かにどこもかしこもやせ細っていた。しばらく何も食べてないのかもしれない。軽すぎるその体を持ち上げて、微かな抵抗をされながらもさっさと奥の居間へと押し出すように連れて行き、そこで座って待つようにと言い聞かせる。その奥にある小さな台所で包丁とまな板を準備して、冷蔵庫から余った野菜と肉を取り出す。サイコロ状に根菜を切り水を入れた鍋に入れ、コンソメスープの元を投げ入れたら後は火を付けてことことと煮込んでいく。そしてメインとなる一品、肉を小さめに切り分けて小麦粉と卵を付け油で揚げればこちらも終了だ。我ながら面倒くさがりの性格が良く出ている料理だと思う。皿へ盛りお盆に乗せて、ひとり待ちくたびれているだろう彼女のいる居間へと運ぶと、そこにはうつらうつらと眠そうにしている船漕ぎがふわふわと意識を漂わせていた。おやおや、と一人呟いて、運んできた料理を順々に机の上へ並べていく。そのそそられる匂いを鼻で感じたのか、すぐさま目を覚ました彼女の口元からはたらりと透明な涎が垂れていた。
「お待たせしました、お嬢さん」
「あっ……これ…たべて、いいの?」
「お嬢さんの為にたーくさん愛情込めて作りました」
「い、いただきますっ」
「はい、どうぞ」
そう言った途端、渡したフォークで唐揚げを貪るように食べ始めた彼女は、吸い込むようにコンソメスープを飲み干した。涙は未だに止まっていなかった。時々がっつき過ぎて喉に詰まらせるので、仕方なくぽんぽんと背中を叩きながらその様子をずっと眺めている。
自分にも母や父はいない。家族はもう、ひとりもいない。寂しくなんてなかった。顔も知らない母と父など、自分には知る理由もなければ必要もないと思っていた。しかし、一度両親の温かい愛情を知ってしまっている彼女に、生きていく上で家族は必要不可欠だというくらいは分かっているつもりだった。元々冷えていたものよりも、一度温まったものが再び凍り固まって割れていくヒビの方がより深いものだという事も身を持って知っていたから。
(同じのようで、同じじゃないんだ)
彼女の両親は恐らく今もどこかで生きているはずだ。なんの確証もない自信だったけれど、何故だか心の奥底ではそう確信しては疑わなかった。
先に風呂から上がった後に、ぼろぼろのフクを洗濯機に入れようしたその時、スパッツのポケットから折り目だらけの古い写真がひらりと床へ落ちた。なんだろうと思って何気なく拾ってみると、真ん中にはきらきらの笑顔をかかえた彼女と、自分より少しばかり若い男女のインクリングが子を挟むように優しく微笑みながら映っている。それは間違いなく、彼女の両親である事はすぐに見て分かった。慌ててその写真を箪笥に突っ込んでは何事もなかったかのように番台へ戻り、今に至る。
あんなに山盛りだった唐揚げも、ぎりぎりまでカップに注いだコンソメスープもいつの間にやらすっかりきれいになくなって、余ったら夕飯として自分も食べようと思っていたのだが、残念ながらそれは叶わないようだった。
「お口に合いましたか?」
「………うんっ」
「そっか、ならよかった」
「…あの、ね。おじ、」
「おにいさん」
「おにいさん」
「はい、なんでしょう」
持っていたコップを小さな両手で握り締めていた彼女は、細い腕でとっさに拭い涙を無理矢理に止めると、半分程残った麦茶を一気に飲んでから初めて、自分の目を見てしっかりとした言葉で告げた。
「…あたし、パパとママ、探したい」
「うん」
「でも、おカネがなくちゃ、しんじゃうし。探せなくなっちゃう」
「…うん」
「だからね、あたし…ここで、お仕事しちゃ、だめかな」
冗談ではなく、本気で言っているのだと思った。彼女のピンク色の強い瞳がそう訴えているように、少なからず自分にはそう感じた。ふとその時、何故だか知り合いのインクリングのガールの姿が思い浮かび、彼女へ向けられた不思議な愛着感が既に自分の胸の中を占めていた。
「ここではたらいて、おカネもらって、生きて、また、パパとママに会いたい。会いたいよ…会いたい……」
そう呟く彼女を、何の躊躇いもなく両腕を伸ばしては胸の中へと抱き寄せていた。声にならない声がその中心で唸りを上げて、ただただ、今の自分には頭を撫でる事と大丈夫だと根拠のない優しい言葉を囁き掛ける事しか出来なかった。
***
「こんにちは、マゴさん」
次の日の夕方。両手で優しく引戸を開けた年下の友人であるパッチンくんがタオルと桶を持って店へと現れた。いつもはお友達と一緒なのだが、今日はどうやら一人でやってきたらしい。割れて壊れたプロパンガスのゴムホースを取り替えながら適当に返事をすると、彼は恐る恐る店の中へと足を踏み入れた。
「やぁ、パッチンくん。悪いけど、まだお風呂沸いてないよ」
「えっ、そうなんですか? この間はもうこの時間に空いてませんでしたっけ」
「うち、開店時間は決めてないからね。今日は今日、この間はこの間さ」
「はぁ…」
困ったように苦笑する彼につられるように笑っていると、体に合わない大きなデッキブラシをずるずると引き摺りながら、男湯の脱衣所から出てきた小さなガールがのれんの下からひょっこりと顔を出していた。
「マゴにい、そうじおわった」
「おーありがと。それじゃあ、パッチンくんの為にすぐお湯張ってくれる?」
「うん、わかった!」
「……は?」
ぱたぱたとブラシから垂れる水滴を番台前に落としながら、男湯へと駆けていく彼女を呆然と見遣るパッチンくんは、ただただ呆然としてその場に立ち尽くしている。相変わらずからかい甲斐のある彼を影でほくそ笑むのは最早趣味の一環となっていた。
「い、今のって…」
「ムフフ、新しいバイトちゃんでーす。しかも、住み込みの」
「け、ケーサツ…ケーサツ呼ばなきゃ…」
「ちょ、ちょっと待って! それは駄目なやつ! まず先に俺の話聞いて!」
咄嗟に携帯電話を取り出して、顔を真っ青に染めながら危うくケーサツを呼ぼうとしているパッチンくんを慌てて止めた。そんな事をされてしまったら、下手をすれば自分も彼女もここには居られなくなってしまう。さすがにそれは困るというものだ。
「後で事情は話すけど、とにかく大丈夫。大丈夫だから!」
「は、はぁ…」
「正規のバイトだよ。自分から働かせてくれって言ったんだもん」
「そうなんですか」
「勝手に変な趣味を持ってると思わないでよね!」
「す、すみません」
渋々と謝りながら再びポケットへ携帯電話をしまうパッチンくんにようやく安心していると、湯張りを終わらせてきた彼女が番台へと入り座布団の上でちょこんと正座をしていた。律儀にもパッチンくんはこんにちは、と挨拶をすると、恥ずかしがりながら彼女は頭を下げた。
「おや、かわいいかわいい番台さん。お客さんとのコミュニケーションは番台にとってとても重要な事だよ。来てくれたお客さんにはいらっしゃいませ、帰っていくお客さんにはありがとうございました。そして、こんにちはには…」
「こ、こんにちはっ」
「そうだ。とってもキュートでナイスだね。はい、パッチンくん早くおカネ出して」
「その辺はしっかりしてるんですね…」
「こちとら商売、生活掛かってるものですから」
声を上げて笑いながらそう告げると、パッチンくんは財布から小銭を取り出しては下足札と併せて彼女の手のひらへ乗せた。ゴムホースの取り換えが終わった自分はというと、番台の前から手を伸ばし、彼女の脇の棚にしまってあるロッカーの鍵を取り出してパッチンくんに手渡した。
「それ、なあに?」
「ロッカーのカギだよ。その下足札を受け取ったら同じ番号の鍵を渡すんだ」
「へえ、なんかおもしろい」
「俺はパッチンくんの方が余程おもしろいと思うけど」
「どういう意味ですか、それ…」
じっとりとした目で俺を見詰めるパッチンくんの熱い眼差しを無視して彼女への説明を続ける。追い出すように背中を押して男湯の脱衣所へ突き飛ばすと、番台へと足を踏み入れ彼女の体を持ち上げては高く抱き上げ、そのまま座布団の上に胡座を掻く。そして、その膝の上へと彼女の体を降ろした。
「これ、セクハラって言うんだよ」
「随分マセた事言うんだね。嫌だったかい?」
「………ううん、いやじゃない」
「そっか、それは良かった」
腰に回した両腕をぎゅっと彼女の小さな手に握られる。昨日は氷のように冷えていたはずの低い体温はいつの間にか優しさを帯びていて、フク越しでも伝わるその温かさに思わず笑みが零れた。
そして、その後に訪れたパッチンくんのお友達や常連のお客さんにも危なく通報されてしまいそうになるも、パッチンくんの必死の訴えにより大事にならずに済み、次第に彼女は「ボロ銭湯の一輪の花」として見事な看板娘へと地位を確立していったのだった。
(2016.04.12)
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