大人になるまでの長いようで短い時間の中で、親が子供にしてあげられる事とは一体何なのだろう。などと、真面目な事を考える日は普段から怠けている自分とてたまにはある(なんだか意外です、なんて失礼な言葉はわざわざかけなくてよろしい)。しかし、物心付いた頃から自分の傍にもう親はおらず、唯一の親族だった祖父とは大人になるまで疎遠であったせいか、それまで存在さえも知らなかったので、自立出来るまでの十数年間を血の繋がりの無い人々に囲まれながら、故郷の養護施設で育てられていた自分にとって、正直なところ、足りない頭で懸命に考えた所で一生理解できるはずのない問題である事に違いはなかった。

「マゴにい。あたし、ご飯食べたらお掃除してく…」
「今日はお掃除なーし」
「へ?」

 二人で居間のコタツ机を囲み、お手製の炒飯を頬張りながらいつもの調子で掛けた言葉を途中で遮られた彼女は、不思議そうに首を傾げながらごくりとコップに淹れられた麦茶を飲み込んだ。

「今からお出かけするぞぉ」
「えっ! お、お出かけ!?」

 以上、お察しのとおり、空から舞い降りてきた朗報に彼女が一瞬で瞳を輝かせた、ある平日のお天気がよろしい昼下がりから今回のお話は始まる。珍しく少々遠出をするという事で、年中無休のこのボロ銭湯も今日だけは営業をすっぱり諦めて臨時休業にしてしまった。といえど、店からは以前から看板娘にばれないよう、こっそりその告知をしていたので毎日のように訪れる常連客たちの姿はどこを見渡しても現れる事はなかった。
 色褪せかけてきたエゾッコメッシュを手に取り、寝巻のFCジャージーを脱ぎ捨ててはよれよれのハラシロラグランへと着替え、そんないつものスタイルに真っ黒のショルダーバックを肩に掛けながら、その中に十年近くは使っている革財布を乱雑に突っ込み、窓と門構えの戸締りをしっかりとチェックをすればお出かけの準備はばっちりだ。彼女はというと、クラゲの形をしている小さな紐付きのがま口を首から下げ、どっかの誰かさんの予備として勝手に置かれているイロメガネ(持ち主の許可なしに貸してあげた)を装着すればイカしたおめかしも完了である。

「さぁ、乗った乗った」
「ラジャー!」

 ボロスクーターの後部座席へ新たに取り付けた子供用のシートに颯爽と乗り込んだ看板娘の前に足を跨ぎ、ハンドルを握り締めエンジンの様子を伺う。そして持っていた一回り小さいピンクのヘルメットを後ろへ手渡し、自身もいつも被っている傷だらけの青いヘルメットをしっかりと装着した。

「お嬢さん、準備はオーケーかな? イエ〜イ」
「イエーイ!」
「ようし、それじゃあ出発シンコー!」
「シコシコー!」
「…いや、シコシコじゃなくてシンコーね」

 ぎゅわんぎゅわんと右手首を捻りスクーターに命を吹き込んでは、何もない土の道路をがたごとと車体を揺らしながら全速前進で突き進んで行く。流れるように体に纏う気持ちのよい風が堪らない心地良さを生んだ。目的地は店からだと少々時間の掛かるところに聳え立っている。買ってあったホットココアをポケットから取り出して、ぶるりと体を震わせながらもかわいらしい鼻歌が流れている小さな後部座席へそっと手渡した。


***


「うわぁ、すごおい…!」

 道路が空いていたのか、昼に店を出てゆっくりめのスピードで走っていた割には一時間ほどで無事目的地へと到着した。
 ナワバリバトルのステージにもなっているこの場所、アロワナモールは普段とはまた違った活気に包まれていて、インクリングだけではなくクラゲやエビ、その他大勢のお客さんが多数に並ぶ店を回りながら買い物を楽しんでいる。
 ここへ来た目的はと言えば、勿論新しいフクやクツを見てみたいという理由もあるのだが、実はというと今回は自分のものを買いに来たわけではない。しめしめと期待に胸を躍らせながら立ち並ぶ店々を眺めていると、目の前にふらふらと覚束ない足取りで、目をきらきらと輝かせながら呆然と立ち尽くす看板娘がいた。

「あっ、あそこ。あっちも! あぁもう、いっぱい行きたいところあってどうしよう! 困った!」
「もしかして、こういう所来るの初めて?」
「うん! あたし、フクのお買い物、行った事ないから」
「お母さんが、いつも買ってきてくれてたの?」
「んー…たぶん。よく分かんないや。知らないうちに、家にあったやつ適当に着てたから」
「ふぅん…そっか」

 入口から通路に沿って少し先へと進むと、これまた人で溢れた中央にある広場へと出た。施設案内を配っているインクリングのお姉さんや、子供達に囲まれてあたふたしている風船の束を持ったクラゲの着ぐるみ、色鮮やかなカラースプレーが振り掛けられたクレープや十段重ねのカラフルアイスを売っている小さな屋台なども置かれ、まるでハイカラシティのフェスのような賑わいをみせている。

「風船、風船欲しい!」
「こらこら、そんな慌てて走ると転、ぶ…あ、転んだ」
「………ころんだ」
「そうだね、転んだね…」

 振り返った先でぴょこぴょこと跳ねている着ぐるみに向かって走り出したその時、急に反転をしたせいで縺れた足が絡み合い、数歩進んだ先で看板娘はべちゃりと倒れた。大した勢いがなかったおかげか怪我はしていないようだったが、先程と打って変わって少しばかり表情がしょんぼりと俯き気味になった彼女に思わず苦笑した。
 その後、無事にピンク色の風船を手に入れ、二人で人の波をかき分けながらモールの奥へと進んでいくと、一際目立つ可愛らしい子供服が目に映る店の前へと出た。ガラスのショーケースの中にはドレスのようなふりふりのレースワンピースやチェック柄のサーキュラースカート等(何故そんなハイカラな名前を知っているかというと、勿論、値札のところに書いてあるものを読んだだけだ!)をいかにもお洒落な感じに着こなしているマネキン達が多数並んでいた。それらに言葉の通り目を奪われている看板娘の足は急ブレーキを掛けたまま暫く動きそうにもない。ふむ、と顎に手を当てて一息入れる。

「…そこのお店、入ってみようか」
「え、あっ…でも、その…マ、マゴにいのお買い物先にしなきゃ! ちんたらしてたら閉まっちゃうよ!」
「んー…だったら、やっぱりここで合ってるかな」
「…へ?」

 おいで、と促しながらドアノブへと手を掛ける。カランカランとドアベルを響かせ店内へと踏み入れると、外から様子を見た以上に可愛らしい小さなフクが無数に陳列されていた。背後に隠れるようにおどおどとしながら自分のフクの裾を掴んで離さなかった彼女も、きらきらと輝くような商品たちに負けじと目を輝かせている。

「う、わああ…!」
「さ、お買い物始めますよ」
「え? マゴにいこういうのも着るの?」
「そういうご冗談はおよしなさい…。勿論、君が着るんだよ」

 自分でもちょっと引くくらいににやにやと笑いながら不慣れなウインクを飛ばすと、驚きでしっちゃかめっちゃかになっている頭の中でようやく言われた事の意味を理解できたのか、花のような満面の笑顔がゆっくりと目の前に咲き乱れていたのだった。

「今日は君に賞与を支給する為にここへ来ました」
「しょ、しょうよ…?」
「毎日頑張ってる子に定期的に贈られる特別なプレゼントの事です。ええっと…これとかどうだろ」

 すぐ側のハンガーラックに掛けられた、真っ白のシンプルなワンピースを手に取りしゃがみながら体に合わせるようにそのフクを当てると、照れ臭そうに頬を染めながらも彼女は嬉しさを滲ませていた。しかし、どこか不安そうな瞳が揺れているのが気になって、その表情を見上げては慌てて持っていたフクをハンガーラックへと戻した。

「あっ…こ、これは違うか! ごめんな、俺あんまりこういうの選ぶセンスなくて。やっぱりこっちのふりふりの方が…」
「ち、違うの! そうじゃ、ないの…」
「へ?」
「あたし、そんなのもらっていいほど、がんばれてない。いつもマゴにいに、迷惑ばっかりかけてるから…」

 眉尻が下がり俯いて瞼を閉じた彼女は、直前の表情と正反対に思える程に元気のない様子だった。同年代の子供と比べると恐ろしいくらいに謙虚なその態度が今は無性にも辛さを感じて、思わずその場に立ち上がっては触れる程度の優しい力で彼女の頭を撫でた。

「…俺は、君が頑張ってないなんて一度も思った事はない」
「え…?」
「風呂掃除とか番台さんとか、お洗濯とかごみ捨てとか、新聞取りに行ってくれるとか、探せば探す程助けてもらってる事は盛り沢山だ。でも、それ以上に、君は俺にさえ真似出来ないすごい力を持っているんだよ」
「すごい、力?」
「俺やお客さんの心をきらきらに照らしてくれる、君の明るい花のような笑顔の事だ。それを見ただけで、たとえ辛い事があってもまた明日から頑張ろうって気持ちになる。今までの君の努力の結晶が、たくさんの人を元気にしてるんだ」

 ずっとずっと、照れ臭くて言葉にならなかった気持ちが自分でも驚く程にぽろぽろと口から溢れ出ていった。嘘など、一つも含まれない。退屈で目的もなく、それでも必ずやってくる毎日をなあなあと過ごしてきた中に射し込まれた光が彼女だった。ずっと、こんなつまらない世界で生きなければいけない日々など一瞬で終わってしまえばいいと常に思い続けていた自分が確かに存在していた。大切な人を失ってしまったあの日から、降りかかる罪の重みに耐えながら生きる苦悩だらけの人生に何の価値がある。こんな思いをしなければいけないのなら、いっその事、消えてしまいたい。そう心の奥底で葛藤を繰り返しながらも行動に移すまでの勇気などこれっぽっちもなく、結局なんだかんだであれから十年以上の月日が経っていた。
 情けないと思った。彼女の傍にまた行けるのであれば、そんな恐怖など恐れるに足らないはずなのに、その一歩が踏み出せないまま再び見慣れた朝日を迎えては苛立ちを生んだ。

(どうして、生きているんだろう)

 祖父が亡くなった後も、毎日毎日そんなくだらない事ばかりを考えながら無言で風呂を沸かし続けた。しかしそんな中、暫く会っていなかった見覚えのあるガールが働かせて欲しいと前触れもなく店に訪れたあの時、繰り返されていたつまらない日常のどこかに亀裂が入ったような気がして、意味もなく胸を躍らせていたのを今でもよく覚えている。そして目の前の彼女が恐る恐る店へと現れたのはその一ヶ月程あとの事だった。

「お礼を言いたいと、ずっと思ってた。君のおかげで今の俺がいる。リン、ありがとう。君と出会う事が出来て俺は本当に幸せなんだ」
「ほ、ほんと? それ…ほんと?」
「ぜーったい、ほんと」
「うっ…うぅううっ、マゴに…マゴにいっ…! あたしも、すっごくしあわせだよ…!」
「こらこら、泣くんじゃないよ。お、俺までなんか、泣いちゃうだろおっ…」
「……マゴにいの、泣き虫」
「今まさに泣いてる人に言われたくありましぇえん」
「ばかっ…好き、あたし、マゴにい大好き!」

 抱き着いてきた勢いで情けなくも床に尻餅をついてしまい、思わず二人して腹を抱えながらけらけらと笑ってしまっていた。あの日抱き締めた小さな体と比べて、不思議と温かく大きくなっているようにも感じ併せて込み上げた嬉しさが、回した腕に更に力を込めていた。そんな外から見たら怪しい光景にレジの方からは少々ちくりと棘のある店員の視線が背中に突き刺さり、それを察した彼女は早々と欲しいフクを決め、支払いをさっさと済ませるよう指示も頂いたところでそそくさと代金を払っては二人で店の外へ出た。

「…えへへ。マゴにいからの、プレゼント。んふふ、嬉しいな」
「次は何百年後かも知れないから大事にするんだぞ〜」
「えぇ! しょうよって、定期的にあるんじゃないの?」
「残念ながら、うちの店にはそんな規則はありません」
「ぶーっ、マゴにいのけちんぼ! イカでなし!」
「あいつらの口癖真似するの、ほんとやめなさいね! ろくなイカになりませんよ!」

 真っ白なノースリーブワンピースの入った、レディースショップらしい英字ロゴにラメ加工がされた紙袋を提げながら、にこにこと笑顔を振りまいてスキップをしていた彼女の足取りはとても軽かった。

「さ、お家に帰ろう」
「うん!」
「今日のご飯はなんと焼き肉です」
「……また、赤字ならない?」
「子供はそういう心配しなくていいの!」

 差し出した左手に自然と小さな右手が重なる。閉店間近の時間を知らせる寂しげな音楽がモール内に響く中、自分の心の中はまるで銭湯に入っているときのようにぽかぽかとぬくもりを感じていたのだった。


(2016.07.19)


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