週に一度、今も現役でお手伝いをしてくれている看板娘は今日も店内を元気に駆け回り、古い床板を軋ませながらきびきびと働いてくれている。長いようで短く感じた、ここに三人で暮らしていた懐かしい日々は今思い出しても不可思議でスリリングな、そして様々な偶然が折り重なって起きた奇跡だったのだと思う。
他人の家の子供は大きくなるのが早いというけれど、特にガールの成長は著しく早く感じる。少し前まで自分の腰ほどまでしかなかった身長がみるみるうちに延び、今では俯けばすぐそこに彼女の顔がある。すっかり大人になってしまって、と溜息を吐いた。
「マゴにい知ってる? それ、セクハラっていうんだよ」
そんな、いつの日か聞いたような台詞で突き返され、初めて出会った頃と比べるとずいぶん強くもなったなあと感慨深げに苦笑した。
今ではハイカラスクエアにほど近いアパートで一人暮らしをしているようで、時より焼きイカちゃんと買い物やナワバリバトルをした時の話、他の三人を誘ってスメーシーワールドへ遊びに行った時のことなどを楽しげに話してくれる日もある。なんでも一人でできるようになって嬉しいような寂しいような、それでもやはりこうして信頼した仲間と毎日を楽しく過ごしている彼女につい笑みが零れてしまう。
「次行く時はマゴにいとヨリちんも誘うね!」
「あはは、俺らじゃなくてまずお母さんを誘いなさいよ」
「ママはその……なんというか。あんまり邪魔したくないんだよね。いい感じみたいだから」
それにこの間も行ったばかりだし、と少々神妙な顔つきで彼女が話しているのは再会して間もない母親のことで、どうやら近頃親密な間柄のボーイがいるらしく、勿論娘である彼女にも紹介はされているようで年甲斐もなく遠慮をしているというか、出来るだけ二人の時間を増やしてあげたいという気持ちが強いようだった。母親からすれば寧ろ三人での時間を大切にしたいところなのだろうが、あんなに小さな子供だったリンももうそれなりのお年頃であり、元々気を遣いすぎる面は前々からあったため、恐らく距離感の詰め方がまだよく分かっていないのだろうとは思う。
「……そっか。じゃあ、いっそのことみんなで行こうよ。リンちゃんのパパ候補でしょ? 俺も会ってみたいし」
「えー。あたしはマゴにいとヨリちんの三人で行きたいんだけどなあ」
「まあまあ、そう言わずに。意外と気が合うかも知れないじゃないか」
「むう……」
「遊園地がハードル高いなら、まずは二人を店に招待でもする? 初回は無料サービスしてあげてもいいぞ」
「あー、またそういう上手いこと言ってお客増やそうとしてるな! マゴにいってばあざとーい!」
冗談を交えながら(実際は冗談でも何でもないけれど)ケラケラと笑っているリンの表情は先程よりも随分と緊張が解れたように見え、そっと胸を撫で下ろしては小さく息を吐いた。
世間話もそこそこに意気揚々とデッキブラシを担ぎ上げ、そろそろ風呂場の掃除をすると元気に走っていったその背を見送りながら、こちらも番台の準備と備品整理、そして客のお楽しみでもある瓶牛乳の棚卸しを始める。一番の人気はやはりコーヒー牛乳で、次点にイチゴ、そしてフルーツと普通の牛乳がどっこいどっこいの売上となっていた。
(店開ける前の一本がこれまた美味いんだよなあ)
まだ誰もいない静かな休憩所で一人、こっそり一本くすねてコーヒー牛乳を飲むのは祖父から店主を引き継いだ時からの日課になっている。沸いた風呂の湿ったゆけむりの匂いと、デッキブラシでしっかり磨いたタイル床に浮く泡をシャワーで流す音、そして時々、ヨリとリンがじゃれ合いながら騒ぎ立てる声でこっそり笑みを零す。幸せだなあ、そう改めて感じるには十分事足りる日常だった。
「ッ、やっば」
持っていたコーヒー牛乳の残りが半分ほどになった頃、玄関の引き戸が開いた音を確かに聞いた。反動的にソファから立ち上がり、一気に飲み干しゴミ箱へ瓶を投げ捨てる。そして休憩室から番台へ続く廊下を駆け抜けると、そこには確かに誰かが棒立ちで立っていて、しかしその顔は何度見てもやはり知らない顔だった。
(客、だよな……)
定期的に訪れる客の顔はほとんど覚えていたし、時々足を運んでくれるだけでも顔を見ればすぐ思い出せるくらいの記憶力は持っているつもりだった。地域密着型である古い銭湯となると新規の客など滅多に増えないし、いたとしても子供達の友人のそのまた友人だとか近所のおじさんの親戚だとか、とにかく何かしら誰かと繋がりのある者ばかりで、全く見知らぬ客が来るのはそう滅多にあることではないと思っていた。つい、数分前までは。
「え、っと……いらっしゃいませ」
「どーも」
「申し訳ないんですけど、まだ準備中なんで休憩室で待ってもらっても?」
「はいよ。沸いたら教えてね」
少なくとも自分より年上のボーイであるように見えた。若々しさを感じられる褐色肌と恐らく鍛えているであろう引き締まった身体、無駄のない筋肉質は肉体美とでもいうのか実に美しい。しかし、深い声色やそのどっしりとした態度から実は見た目より高齢か、もしかしたら壮年期くらいなのかも知れない。
(いくら気になるからって、お客さんの顔ジロジロ見るのは悪いよなあ)
特に文句も一つ言わないまま廊下の先へと消えていく彼を、滅多にないことだったのでついつい目で追ってしまったが、さすがに失礼かと思い直して渡された代金を大人しくレジの中へと突っ込んだ。しかしその後、脱衣所の入口に掛けたばかりの暖簾の先から聞こえる湯の出る音、そして力いっぱいにデッキブラシで床を磨く音が聞こえ、客が来てしまっては仕方がないと重い腰を上げた時、休憩室から聞こえたある一言が妙に気になってしばらく頭にこびり付いたまま離れることはなかった。
***
次の日。いつもの通り、ヨリが出稼ぎにハイカラスクエアへと出掛けた朝。すぐさま洗濯物を干し終え、適当に朝飯を済ませては馴染みの番号へと電話を掛けた。幸か不幸か、今日は特別急ぎの用事もなく、不安を取り除けるのであれば今すぐにでも行動に出るべきだと直感でそう思った。相手先もどことなく普段と違う雰囲気を悟ったのか今すぐにでも時間を作ると言われ、きちんと玄関の引き戸の鍵を閉めてから店の庭に駐めておいたスクーターを車道へと引きずり出した。
(確かに言ったんだ、アイツの名前を)
聞き間違えるはずがない。あれ程までも寂しそうに、そして愛おしそうな細い声で彼の名を零したあの客人は間違いなく、ヨリと深い繋がりのある人物であると。ただの思い過ごしであるのならそれでも良かった。ただ、自分の甘い考えのせいで彼が傷ついてしまうようなことになるのはどうしても避けたい。いつも助けてくれた幼馴染を、大切な家族を守る、ただその一心で(仕事においては)信頼を寄せている友人の店へと足を運んだ。
「何か嗅ぎ回られてはいるっぽいよね」
銭湯から十五分ほど走った人気の少ない場所。地下へと繋がる急勾配のコンクリート階段、それまでの細く暗い路地道も随分通い慣れてしまった。埃っぽい通路を抜けた先にある木製の扉を開くと、がさついたドアベルがチリンと店内に響く。その奥のカウンターでのんびりと革張りの椅子に身を沈め、眉間に皺を寄せていたダビデから遠回しに警告を受けていたのは、あの客が店にやってくる一週間程前のことだった。別件で呼び出され、いつ来てもどこかうさん臭さを感じる彼の店へ訪れた際、そういえば、とまるでおまけのように話すものだから危うく聞き逃してそのまま帰りそうになった。一体どういうことなのかと慌てて踵を返すと先程までにやついていた表情はそこにはなく、珍しく真剣な面持ちでダビデは握った携帯電話の画面を静かに見下ろしていた。そして、今日。
「ヨリが、ですか?」
「うん、そう。この間会った時もさ、変な視線感じたんだよ。やっぱり気のせいじゃなかったらしい」
なるほど納得と言わんばかりに頷くダビデの声の軽さに溜息を吐きながらも、心当たりがある身としては問題視せずにはいられない。聞けば先日、たまたまふらりと彼の店へ立ち寄ったヨリがカウンター越しに二人で雑談をしていた時、不思議と誰かに見られているような感覚を帯び、ふと玄関の扉へそっと視線を向ければドアの汚れた小窓から何か動くものが見え、姿は捉えられなかったものの微かに揺れたドアベルの音にずっと疑問を抱いていたという。
「アイツを一人にしておくのはあまり良くないかもね。色々と借りもあるし、マゴさんが良ければ俺は手を貸すよ」
「あ、ありがとうございます」
ダビデがここまで協力的だと逆に不安になる、とは間違っても声に出して言えなかったが、一人で悩んでいるよりかは誰かと情報共有をしている方が余程安心だった。それに、ヨリが表沙汰に出来ない仕事をしていた期間については自分よりも目の前にいる彼の方が精通しており、どう対策をするべきか、はたまたその為には何を準備し誰を頼るべきなのか、その辺りの事情や伝手を知っているのも仲介屋であるダビデであって他に頼る当てもいない。
「……何か聞きたいことがあるって顔、してるけど」
「えっ。い、いや、別に……」
「あはは、言わなくても分かってるさ。……思い出話は、ちょっとばかし苦手なんだがね」
ゆっくりと目を細め、小さく息を吐くダビデの表情は普段と比べて至って真剣だった。ヨリがこうしてトラブルに巻き込まれそうな時は大抵、行方をくらませていた十数年の中で繋がりを持った者との因果が起因となっている可能性が極めて高い。再会する以前の頃も噂程度ではあったが、ヨリと思われるボーイが夜な夜な街をうろついては、少々まずい仕事に手を出しているという話を以前から聞いていた。勿論当の本人の口から聞くまではそんな話を本気にはしていなかったし、例えそれが事実だとしても、きっとそうしなければならなかった理由がヨリにはあったのだと思っている。
(ダビデさんが嘘をつくとは思わない、けど)
本音を言うと、聞きたいこともあったし知りたい事ことも山程あった。その先でどんな気持ちになろうとも、全てを受け入れてあげたいとさえ思っていたし、それで彼が背負い続けているものの重さが少しでも軽くなるのであれば力になってあげたい、その一心でしかなかった。だけれどそれはあくまでも二人の問題であって、いくら関係者といえどダビデを巻き込むべきではないと理解はしていたし、恐らくヨリもこんな形で今まで自分自身の中に押し込んでいたものを誰かに知られてしまったらきっと彼は傷付きショックを受けるだろうと思っていた。
「……すみません。俺、もう帰ります」
「いいの? カネは取らないぜ」
「いいんです。前から決めてたので」
「そ。……まあ、今日じゃなくても必要と思ったらまた来なよ。マゴさんには知る権利、俺はあると思うし」
いつもよりどこか元気のないように感じるダビデの小さな声を聞いた時、一瞬でも、何も聞かずに背を向けたことを後悔しそうになった自分に嫌気が差した。知りたくないはずがない。でも、知るのであれば本人から直接聞きたい。そうでなければ、これまで目を背けていたものを受け止めた後冷静でいられる自信が今の自分にはなかった。
どこか心配そうな顔つきのダビデに礼を告げてから店を出て、今自分がすべきことは一体何なのかを考えながら一人帰路を辿る。迷っている場合ではない現状を分かっているつもりでも、一度頭の中に浮かんでしまうと見て見ぬ振りが出来ない自身の不器用さにずきりと頭が痛くなった。
ヨリと再会してそれなりの年数が経とうとしているものの、彼が自分から昔の話をしようとした様子はなかったし、こちらから聞き出そうという気持ちは今も芽生えていない。ただでさえ思い出したくないような過去を無理矢理掘り返す気は到底起きず、いずれ必要になれば自ら話してくれるだろうと信じていた。しかし、このような状況になってしまってはのんびり構えている場合ではない。最悪のケースを避ける為にも側で警戒しておくのが最善であると判断し、逸る気持ちと共に自然と駆け足になったせいか店に着く頃には酷く息が乱れていて情けなさに少しばかり自信を失った。
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