状況的には少々不利である事に間違いはなかった。一面に塗られた水色を何度ピンク色に塗り尽くそうともその度にやられてはまた塗り返され、押しても押してもそれ以上に勢いで押して入ってくる相手チームの力技はなかなかに凄まじい。
物陰からじっくりと狙う暇もなく、インクの中を滑らかに泳いで近付いてくる相手の猛攻から逃げ切るのに必死でナワバリもくそもまるでない。体中のあちこちに水色をくっ付けながらしつこく追い回してくる相手をどうにか引き離す事に成功すると、壁の裏側にそっと腰を下ろしては悲鳴をあげた体にゆっくりと息を吸い込み吐き出した。その曲がり角からそっと顔を覗いて遠くを見つめると、チビッコ達がなんとか足掻きを見せているらしく、なにくそがとでも言うように堂々とど真ん中から突っ込んでいるようで、戦況から誰が見てもなかなかのピンチだというのにその微笑ましさに思わず笑みがこぼれた。
(あ…いた)
その後ろから彼らのサポートをするようにジェットスイーパーで援護射撃をしつつ壁を塗りたくっている相方の姿を見つけた。元からあまり感情を表に出さないような彼だったが、それは今でも変わらず劣勢の割には余裕があるようにさえ見えた。
乾いたコンタクトレンズをしぱしぱと瞬きで無理矢理潤わせて、再度肩に担ぎあげたスコープを見通すように目を細め、その先の様子を伺いながら狭い視界の中で動き回る相手に狙いを定める。すると、眺めている中に迂回して相方の背後に忍び寄ろうとしている飛沫をインクの海の中に見つけた。必死に目で追う。動きが止まり、ヒトへと戻ったインクリングが持っていたブキを構えた瞬間にすかさずその姿を撃ち抜いた。
「よし」
悪いな、と独り言のように呟いて飛び散った水色の横を走り抜けると、先へと行っていた彼がいつの間にかスーパージャンプで自身の側へと戻ってきていた。
「悪い、助かった」
「いやいや、それ程でも」
帽子の鍔を下げたまま、照れ臭そうにお礼なんて言われると俄然やる気が湧いてくる。やっぱり俺がいないとだめだなぁ、と調子のいい事を言えば持っていたジェットスイーパーの先端で額を小突かれた。
「後でまた来る」
「いや、それより塗れよ。このままだと負けるだろ」
「大丈夫だ、まだ一分ある」
「あのなぁ、その余裕は一体どこから来るんだ?」
はぁ、と一息ついた途端にインクの海へと潜ってしまった彼は、声をかける間もなく颯爽と再び敵陣の中へと姿を消してしまった。こちらもさぼっている訳にはいかない為、仕方なく距離を置きながらも後を追うように海の中を泳いでゆく。
「…っし。ここからなら、狙いやすいな」
チャージャー使いである自身は仲間のサポートを中心に行動をする為、相手チームのインクリングと遭遇する確率は近距離武器と比べると圧倒的に低い。ただし、今回のようにぐいぐい押し進んでくるタイプのインクリングが多い場合だと、接近戦では到底勝ち目のない武器である為、いつも以上に警戒心を怠らない事が重要なポイントだった。
壁に沿いながらそっと移動をして、相手チームからは見えない陰からスプラスコープを構える。前方には一度やられて舞い戻って来たチビボーイが必死にローラー同士でインクの掛け合いをしていて(バッシャバッシャととにかく激しい)、その周りでチビガールがサポートをしているのかと思いきや、のん気にも壁や高台を塗り潰しながら鼻歌を歌っている(楽しそうで何よりである)。
(あいつは……)
周囲を眺めても見当たらない辺り、敵陣の奥まで突っ込んで行ってしまったのだろうか。スコープからそっと目を離し、乾燥しているのかどうもちかちかと視界が鈍る瞳を擦ったその時だった。
「やばっ」
不意にぽろりとそれが目から落ちた瞬間、視界は瞬く間にぼんやりとモザイクが掛かってゆく。
(コ、コンタクト落とした…!)
いつかやってしまいそうだとは一応思ってはいた、が後悔先に立たず。後の祭り。あれ程気を付けろと相方にも念を押されていたというのにこの様である。一度ブキを背負い直して足元を粗方探すも視力の悪さと焦りが邪魔をして全く見つけられない。周りに人気はなく、とりあえず一息深呼吸をしてもう一度探してみよう、そう思い、壁を背に腰を下ろした瞬間だった。
「あっ…ちょ、待」
味方ではない事は明白だった。気が付けば、真下の平地から壁を伝って伸し上がってきていた、相手チームのイロメガネを掛けたガールがパブロを振り上げている様がぼやけた視界といえど確かに映っている。思ってもみなかった事態に声を出すどころか、体が全く動かない。早く逃げなければやられてしまう、そう分かっているはずなのに何もできずにいて、ただただ頭の中で目を覚ませとでも言うようにうるさい警報が鳴り響いているだけだった。
「ううっ!」
もうだめだ、と率直にそう思った瞬間。何かが自身を覆い被せるように影の中へと溶かし、まるでそれに身を守られている不思議な感覚に閉じていた瞳を恐る恐るゆっくりと開いてみた。
(あ……れ、この匂い…)
ふわりと安心する何かが鼻を掠めてゆく。身構えていてもなかなか水色のインクを被ることもなく、その時の瞬間はまるで時間が止まっているかのように酷く長く感じた。
すると、目の前には何故かピンク色と水色の名残のようなインクが地面に広がっていて、あのにやついた表情を落としたパブロ使いのガールの姿はきれいさっぱり消えてブキだけがインクの中でぷかぷかと浮いている。そして、その横に見覚えのある青い武器が一瞬見えたが、同様にとぷんとインクの底へと沈んでしまった。
何が起こったのか分からなくただただ一人混乱している中、今自分の目の前にいるのはヒーローローラーともみじシューターを手にしたチビッコ二人で。
「おにいちゃん、大丈夫だった?」
「パブロ、倒しといたよ」
「へ? あ…えと、悪い。ありがとうな」
にこにこと掲げられた笑顔がなんとも眩しく頼りがいのあるその輝きに、情けなくもあるが同じ仲間として誇りも思えた。しかし、そんな小さなヒーロー二人の頭をよしよしと撫でながらもやはり一つ気になっている疑問がすっと頭の中に浮かんでしまう。
(やっぱり、さっきのって…)
ピンク色に染まりきった景色を見渡すも、結局彼の姿を見つける事は出来なかった。とにかくスタート地点に戻ってみよう、そう思った直後。無常にもタイムアップの笛がBバスパーク中に高らかと鳴り響いたのだった。
***
「あ……」
広場の隅、日の光が入らない路地裏のコンクリートを背に地べたへ座り込んだ相方を見つけた。バトルが終わった後に捕まえようと思っていたのにロビーの中をいくら探しても見つけられなくて、チビボーイにニーチャンならもう外に出たよ、と不意に告げられたので危うくもっと早く言えよ、なんて文句を言いそうになったが、それはあまりにも大人げないのでそのまま声に出さず飲み込んでおいた。
いつも深めにサファリハットを被っている彼の表情は相変わらずこちらからは窺えず、しかしいつもとは何かしら違う雰囲気を纏っているせいかいつにも増してなんだか少し近寄りがたい状況になっていた。意を決して、恐る恐る隣りへと座り込む。
「……」
「……」
何も言葉が出ない。普段から会話という会話は少ない方だったとはいえど、今までは一緒にいるだけでなんとなく居心地が良く、何かを話さないと気まずいという事は一度もなかった。しかし今だけはそうはいかないらしく、じんわりと感じる不機嫌そうな冷たい雰囲気に思わずごくりと息を呑む。
(や、やっぱり俺のせいかなぁ…)
彼が不機嫌になっている原因として考えられる理由としては自身の中に嫌でも心当たりがあった。つい先程終わったばかりのバトルが終了する間際、相手チームのパブロの猛攻に危うくやられそうになった自分を守ってくれたのは確実に目の前にいる彼だった。絶体絶命だったあの状況でやられずに済んだのは、彼が体を張って守ってくれたおかげで、目の前の足元に広がっていたピンク色のインクの名残がそれを証明している。
正直なところ、不謹慎ではあるが心の中ではとても嬉しかった。ボーイとしてそれが正しい感情であるかどうかはさて置き、その様はあまりにも格好良すぎるものだから少しばかり悔しさも感じる。しかし、当の本人はどうやらそれを喜ばしく思っている訳ではなく、あまりに不甲斐ない恋人に呆れてしまったのかも知れない、と思い始めた途端に気分はがくっと落ち込んでしまった。
「……あの、さ」
「…何だ」
「その、ええと…さっきは、ごめん」
なかなか言えずにいた、勇気を持って振り絞った言葉が地面に向かってぽろりと落ちる。我ながら酷く情けなくなった。まともに顔を見て謝る事も出来ないなんて失礼にも程がある。しかし、それでも視線を上げることは出来ずに視線を落としたままに話を続けた。
「別に怒ってないし、謝ってほしい訳でもない」
「じゃあ、呆れちゃってる?」
「……そうだな。呆れてる」
分かっていたはずの事を直接彼の口から言われるとなかなかの言葉の重みがある。両膝を抱えた手の上に額を乗せて隠れるように大きな溜息をき、小さく呟いた、ですよね、という一言が我ながらなんとも虚しかった。そんな事を思いながら一人浮かない顔をしていると、意外にも彼は不思議そうな表情でこちらを窺っていた。
「何でオマエがそんな顔するんだ」
「え、あ、いや、だって…呆れてるんだろ? 俺がヘマしすぎてて」
「……誰が誰に、何だって?」
「だ、だからっ」
「俺はオマエに呆れたなんて一言も言ってない」
珍しく力の入った、少し強めの言い方で発せられた彼の言葉にびくりと体が震えた。拍子に顔を上げると、珍しくも慌てた様子の彼と、サファリハットの鍔の裏に隠れていたその尖った赤い視線がこちらへ向かって突き刺ささっていた。
「勝手な解釈をするな。俺はただ、俺自身にいらついてるだけだ」
「は? 何だよ、それ…どういう事…」
「あの時、もう少し後ろへ戻るのが遅れていたら、オマエがやられていた」
「でもそれは、単に俺が馬鹿やったからで、オマエがどうこう責任感じる必要なんて…」
「また来るって、約束した。そうだろ」
そう零しながら見えていなかった彼の表情がようやく垣間見え、しかしどうしてこんなにも悲しそうな、それでいて心苦しそうな顔をしているのか自分は全く分からなかった。
泣きたい程に悔しくて堪らないのはこっちだというのに。てっきり見限られたのかと思っていた、バトルが終わっても素っ気ない、すぐにロビーからいなくなる、見つけたと思えば機嫌が頗る良くない相方がいて。
「何だよ…ほんと、何なんだよもう! オマエがやられるところ見る羽目になるなら、約束なんて守ってくれない方がよっぽどマシだ!」
「おい、ちょっと待」
「お、お、俺だって、ボーイだし、すっ、好きなヤツが目の前でやられちまったら、そりゃ、正直、嫌だし、悔しいから……え、えっと、その…」
感極まった末に、自分でも気付かないうちに体が勝手に動き出していた。つい勢いで掴んだ彼の両肩をがくがくと揺らしながら溜まりに溜まった文句を吐き出してしまったところ、それにつられて恥ずかしながら無意識にも涙ぐんでしまった。泣くのか怒るのかどちらかにしろ、と小突かれてようやく冷静さを取り戻し、再び地べたへと座り込む。
「だからつまり、何が言いたいかっていうと…」
「…もういい、分かった。今後一切、今日みたいな事はやめる」
「へ?」
「次は絶対に、やられる前にオマエを守ってみせるさ」
「おっ…ま、ばかやろ…! とんだ分からず屋だな! 上等だよ、やれるもんならやってみろ! 逆に俺がオマエの事守ってやる、か、ら…」
その時、不意に腕を掴まれた。
あまりの突然の事で引っ張られては彼の胸の中へと体が落ちて、そのまま腰に回された太く逞しい両腕にきつく抱き締められる。そんな事をされるなど微塵も想像していなかったので、勢い余ってサファリハットの唾が額にガツンと当たってじんわりと生まれた痛みにすかさず文句を言えば、目の前には静かに微笑む彼が確かにそこにいた。
「…悪かった。でも、こればかりはやめられそうにない」
あの、冷静沈着で感情を表に出さないあの相方の頬が赤い。
それを隠すかのように再び被っているサファリハットを深めに被った彼に、何故だか胸の奥がきゅんと震えたのが分かった。
(あぁもう、なんかかわいいんだけど…)
思わず声に出して呟きそうになった。普段は無口でクールな雰囲気を決め込んでるくせに、こんなところで意外な一面を見せるなんて実に卑怯極まりない。
どんどん頬から体全体が熱くなっていく上、体がぴったりと密着している為、それが彼に伝わってしまっているのかと思うと酷く照れ臭かった。
「急に、謝るなよな。全く…」
「謝りたいと思ったから謝った。それだけだ」
「あっ…えっと、俺の方こそ、なんかごめん。さっきは助けてくれて、本当にありがと。次こそはさ、オマエの力になれるように俺ももっと頑張るから」
「…バトル以外にも頑張って欲しい事が山程あるんだがな」
「え、何それ。そんなの聞いてないけ…」
その瞬間、全てがスローモーションのようにゆっくりと時間が流れているように感じた。彼の顔がすぐ目の前まで迫って、気付かない間に小さなリップ音が頬へと弾けていた。それが一体何だったのか理解をしたその直後、驚きと照れ臭さで顔がビリビリと痺れ始め、挙句の果てには顔を真っ赤に染めたまま頭が真っ白になって固まってしまう始末で。
「そろそろ慣れろよ、バーカ」
そう腹を抱えながら高らかに笑う彼が腹立たしくも実に面白く、呆然としたままに熱を帯びた頬を摩りながら、つられるようにこみ上げた幸せに微笑みを落とした。
(2016.01.15)
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