広場の駅側に置かれた二人用のベンチに腰を掛けては、雲一つない空を見上げて思わず小さく溜息を吐く。長年使い続けてきた、自身の手にしっくりとくるはずのカーボンローラーデコもどこか悲し気な雰囲気を齎しているようにも感じて、そっとベンチの横に立てかけていたそれをちらりと横目に覗いては先程の出来事を思い出して頭を抱えた。
 遡る事ほんの数十分前。いつもの通り、前日に約束していた時間にハイカラシティへ待ち合わせていた年下で後輩でもある恋人、ひおくんと共にナワバリバトルへと参加しようとしていた時の事だった。メールの受信ボックスには先にロビーで待ってると一言綴られたメッセージが届いており、意気揚々と彼のいる控室のドアノブに手を掛けたその時、廊下の先から聞き慣れた声が微かに耳に入ってきた事に気付いた。引き寄せられるように足音を立てずゆっくりと出所である曲がり角の先、見つからないよう顔は出さずにそっと聞き耳だけを立ててみると、そこには先に控室に行っているはずのひおくんと知らないガールの二人が何かを話しているようだった。

(き、気になる…)

 盗み聞きをしているという時点で少々罪悪感は残るも、大好きな恋人がどこぞの誰かも分からないガールと二人きりで話をしているとなれば気にならない訳がない。彼に手を出そうとでもいうならばなんとしても自分が止めなければ。そう強くひとり心に決めていると、意外にも二人は友好的な態度でさぞ楽しそうに会話を交わしているものだから思わず肩を落としてしまう。そんな中、予想だにしていなかったキーワードが彼女の口から飛び出し、危うく変な声が出そうになったのだった。

「はい、約束のチョコ」
「おっ、さすがだね。ありがと」
「喜んでくれて嬉しいわ、それじゃ」

 約束の、チョコとは。
 本日、二月十四日。一般的に世間ではバレンタインデーとして好きな相手にチョコレートを贈る、というイベントが年に一度各地で起こる日。片思いの相手に告白するもよし、恋人や伴侶に日頃の感謝を込めてプレゼントするもよし、各々が込めた気持ちを形にして伝える素晴らしい日ともいえるだろう。

(そんな日に、ひおくんがっ…チョコ、貰ってる…!)

 しかも、恋人の自分ではなく名前も分からないガールからとても嬉しそうに受け取っているものだから、その衝撃といったらない。
 あまりに動揺したせいもあり、見つかっても構わないとその場から慌てて駆けだしてはロビーを飛び出した。日の当たらない喫茶店の陰にぽつんと設置されたベンチに腰を下ろし、小脇に抱えていた相棒のカーボンローラーデコを思わず強く胸に抱き締める。いつの間にか悲しみで溢れた胸のうちを沈め込むようにそのまま俯いて、目元から零れそうになった涙をずるずると鼻を啜りながらもなんとか引っ込める事が出来た。
 そして、話は冒頭へと戻る。理由はあれど一緒にナワバリバトルをするという約束をほっぽって逃げてきてしまったので、今頃ひおくんの機嫌を損ねてしまっているだろうと思うだけで気分はどんどん見えない底へと沈んでいった。

「ううっ…ひおくん、ごめんね」

 小さく呟いた声もあまりの力のなさに風と共に一瞬で消えていく。今日という日がバレンタインデーである事を忘れていた訳ではなかった。家では双子の妹であるなるじおんが想い人であるまぶきというボーイの為に手作りチョコを作っていて(正直、気に食わないけどね!)、あまりそういった事が不慣れな彼女のサポートをしていた為か、完成した頃になってようやく、自分がひおくんに送る分の材料がすっかりなくなってしまっている事に気付いた。致し方なく今日になって待ち合わせの場所へと行く前に既製品を買っていこうと思ったのだが、やはり当日ともなるとどこの店に行っても売り切れ続出、ましてやそこに群がるガールの波に揉まれ少々どんくさい自分には手にする事など出来るはずもなく。

「結局何も用意できてないし…はぁ、どうしよう。ひおくん取られちゃったら、僕…」
「誰が何に取られちゃったって?」
「そりゃ、ひおくんが僕じゃない誰かに…って、ふえぇぇえ!?」

 はぁ、と何度目になるかも分からない溜息を吐きながら呟いた言葉に対して返って来た声の主は間違いなく、今まさに頭の中でぐるぐると思い詰めていた存在そのもので。トレードマークであるヤキフグサンバイザー、褐色肌によく映えるイカノメTブラックを身に付け、にやにやと怪しい笑みを零しながらこちらを見下ろしているのは確かに大好きな恋人以外の何物でもなかった。

「あっ、ひ、ひお、く」
「全くもう、ロビー探してもいないからこっちまでウロウロしちゃったんだからね。自分から申し出た約束くらいちゃんと守ってよ、先輩」
「う、うん。ごめん…」
「…ま、どうせ。変な誤解させちゃって飛び出してったんだろうけど」
「へ?」

 もしかしてというよりはやはりバレていましたか、と心の中で一人申し訳なさに潰れそうになりながら一人呟き、気まずそうに視線を逸らしているといつの間にか隣りへと腰を下ろしたひおくんに腕を掴まれ、半ば無理矢理に彼の方へと顔を向けさせられるとその目の前にあったのは、つい先程この目で見たばかりの小さな箱が彼の手のひらの上に置かれていた。

「そ、それ…」
「何勘違いしてんのか知らないけど。あの子、別にそういうアレじゃないから。ボクから彼女に頼んだんだよ、このチョコ確保しといてって」
「なんで、そんな」
「…だって先輩、こないだこれ美味しそうって言ってたから。…それだけ」

 どこか照れ臭そうに真っ赤な箱を押し付けてくるひおくんに枯渇した心が一瞬で潤っていくのを感じつつも、そういえば一週間程前に二人でアロワナモールへと買い物に行った日の事を思い出していた。たまたまオシャレな洋菓子が売っている店の前に立ち止まり、その時はもうすぐバレンタインデーという事もあってか既に売り出す商品のラインナップが店頭に飾られていて、ガラス越しに見ていたそのチョコレートが今目の前に鎮座しているものだった。

「ひおくん、もしかして…覚えててくれたの?」
「…当たり前でしょ。どうせ贈るなら先輩の欲しいやつが良かったし、見つけた時にはもう品薄状態でたまたまあの店で働いてるって子、見つけたから無理言って一つ取っておいてもらったの。ボク結構頑張ったんだから、感謝してよね」

 腕を組みながら自身の努力をそう訴える彼のぶっきら棒な優しさに危うく込み上げる嬉しさにまた涙が溢れそうになって、それを隠すかのようにその細い腰へとチョコごと勢い良く抱き付いては、いつもの調子で広場全体へと響き渡る程に恋人の名前を高らかと叫んだのだった。

「うぅぅう、ひおくん大好きぃぃー!」
「あぁもう、センパン鬱陶しいー!」


(2017.02.14)


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