(ど、どうしよう…)

 ソファーに二人仲良く並んでは甘いデザートを食べながら今日の出来事や明日の予定などを話す日々がいつの間にやら日常と化していて、出会ったばかりの頃は彼に対してあんなにもツンケンした態度を取っていたというのに、今ではこんなにも素直に受け入れる事が出来るようになった事実は自分自身が一番驚いているように思えた。と言えど、それとこれとはまた別問題であり、今回ばかりはどうすればいいのか全く見当がつかずに頭を抱えてしまっているのが現状である。
 事の発端は今から数時間前の事。弟であるケンイチと仲良くしてくれているだいきの弟のユウキくんが、他の友達も交えて一緒にお泊り会をする事になったと言われ、その際に彼のペットであるウミウシを預かって欲しいと頼まれたものだから思わず如何にもと言った動揺ぶりを見せてしまった。その場で慌てて了承はしたものの気は重く、しかし嬉しそうににっこりと笑顔を掲げながら頭を下げ礼をするユウキくんにやっぱり無理ですなどと言える訳もなく(ケンイチもこれくらい礼儀正しい子になってくれるといいのだけど)。

「明日の朝また迎えに来るので、それまでよろしくお願いします! あ、えと、ご飯はこれで…それと、この子が気に入ってるクッションが……」

 一通り必要な物を全て揃えてきてくれたのか(非常にマメである)、渡された大きめの紙袋の中には密封袋に入れられた普段あげている餌(意外にも肉食で一見岩の塊にしか見えないカイメンという多細胞生物を食べるらしい)と小さなクッションや海水の入った水槽などがぎゅうぎゅうに詰め込まれていて、隣りでウミウシを抱っこしているだいきに代わり少々重みのあるその荷物を出来る限り笑顔を掲げたまま有難く受け取った。
 それから小一時間が経過した頃。久し振りに再会を果たしたウミウシとの戯れが楽しいのか、ソファーに座り膝の上に乗せたクッションに沈ませてよしよしと撫でているだいきを他所に、いつ自分の方へと転がり込んでくるのか分からない恐怖に一人怯えていると、何を思ってか、そのウミウシを抱き上げた彼がにっこりと笑みを浮かべながら側へと寄ってくるものだからどきりと心臓を唸らせてしまった。

「ナナちゃんもほら、ぽち抱っこする?」
「えっ! あ、いや、その」
「この子、すごく大人しいんだよ。人懐っこいんだ」
「あっー、えと、その…だ、だいき、ちょっと待って…いや、本当に待ってくれ! さすがにやっぱり無理!」

 ユウキくんの手前、まさか自分はウミウシが苦手であると公言する訳にもいかず、といえどさすがにいきなり触るだなんて言語道断、本物を目の前にしてその恐怖は一段と高まってゆき、ぶんぶんと首を振りながら両手を突き出しては拒否をせざるを得ない。

「…あ、そっか! ナナちゃん、ウミウシ苦手だったっけ。ごめんごめん、すっかり忘れてた」
「はぁ、はぁ…こ、こっちこそごめん…。その子に罪はないけど、ダメなものはダメなんだ…」

 異様なまでの疲労感と共に肩を上下させる程に息を切らしている一方、しまったしまったと軽い冗談のように受け流されてしまい思わずがっくりと肩を落とした。しかし、どこか物寂しそうにこちらを見遣るウミウシと目が合うと、どことなく感じるかわいさも少なからず感じて無意識にもそっと手を出しそうになるも、触れる瞬間の怪奇な感触を想像してはすぐさま引っ込めてしまったのだった。


***


 今は一人暮らしをしている弟のユウキから事情によりペットのウミウシ、ぽちを預かって欲しいと頼まれた時は正直なところとても嬉しかった。久しぶりの再会でもあって、懐かしいぽちの抱き心地に思わずぐりぐりと頬ずりをしてしまう程だったのだが重大な問題が一つあり、それは恋人のナナちゃんがウミウシの存在そのものが苦手である、という事である。
 単にユウキが持参してくれた水槽の中へと隔離してしまえばいいだけの話でもあるのだが、せっかく久々に会えたのだから出来るだけ触れ合っていたいという気持ちもあり、いっその事同じ布団で寝たいという願望も沸々と生まれ始めていたものの、それはそれでナナちゃんが恐怖の一夜を過ごす羽目となってしまう為にそればかりは満場一致で却下案件である。

(こんなにかわいいのに、何が苦手なんだろう)

 触れてみればまるでゼリーのような柔らかさと気持ち良さ、軟体の体にはインクリングのような鮮やかな色使いの模様があちらこちらに散らばり、そしてなんといっても角のような触覚を二本、ぴんと真っ直ぐに立ててはゆっくりと前進するその姿は疲れた心を癒してくれる存在に間違いはない。
 するとナナちゃんに拒絶されて少しばかり落ち込んでいるのか、胸元の方へと寄ってきたぽちの頭を慰めるように撫でてやり、その小さな体が潰れないくらいの抑えた力でぎゅっと抱き締めてやる。すると少し元気が出たのか、クッションの上へと戻ったぽちは慣れない環境に疲れてしまったらしく、そのまますやすやと深い眠りについてしまった。

「…寝ちゃった、のかな」
「うん、そうみたい。ちょうどお昼寝が出来ていいんじゃない?」
「そ、っか…」
「?」

 どこか寂しそうな表情のまま抱えていたマグカップへと目線を落とし、そのまま小さく溜息を吐く彼を不思議に思い疑問符が浮かぶ。まさかぽちを抱っこしたかった、という気持ちの変化があったとは到底思えず、しかし余所余所しい雰囲気を纏っているように見えるのは気のせいではなかった。
 そしてそれは夕飯を食べ終え、風呂を済ませた後いつもなら二人でゆっくりソファーで寛いでいる時間まで続き、しかし当の本人はそれに気付いていないというあまりに息苦しさに、うとうとと眠そうにしているぽちを胸に抱きながら眉尻の下がったナナちゃんへそっと声を掛けてみた。

「え、えと…ナナちゃん」
「………」
「ナ〜ナちゃ〜ん」
「…は! ご、ごめん。ぼうっとしてた。何かあった?」
「いや、別に何か用ってワケじゃないんだけど…」
「…あ、そういえば。今夜はどうする? その子、知らない場所なのに一人で寝かせるのもかわいそうだし…」
「ま、まぁ…」
「あ、それじゃあ…ボクはここで寝るから、だいきはぽちと一緒にベッドで寝なよ。一晩くらいは別に問題ないし」
「えっ」

 ナナちゃんと、別の布団で寝る。同居し始めて以来の初めての出来事に思わず戸惑うも、冷静に考えればぽちの為を考えると彼と別々で一夜を過ごす以外に方法はない。自分でも驚く程の衝撃を受けて反論したい気持ちはあれど他に何も良いアイディアなど思い付くはずもなく。

「そ、そう…分かった」
「何かあったらいつでも言って」
「うん…」

 ナナちゃんと一緒におやすみしたい、などという我儘を言う勇気はなく。胸の奥でもやもやしたままの感情を吐き出す事が出来ないまま、その場に立ち上がり洗面所へと向かう彼の背中をじっと見つめたまま何も出来ない自分に重い溜息を吐いたのだった。


***


 我ながら自分で自分の首を絞めるのが得意なものだと感心する。指先で触れるのも躊躇われる程に苦手意識のある生き物を目の前にし、かつて共に暮らしていたウミウシとの再会を喜んでいただいきから引き剥がすなど到底出来る事ではなく、しかし突然の来訪者に恋人を取られてしまった事による嫉妬心は少なからずも奥底に存在しているものだから質が悪い。
 といえど、そんな邪な感情を彼に訴える程子供でもなく、寧ろたった一日だけなのだから別に構わないではないかと芽生えた気持ちを抑えつけるように自分から今夜は別々に一夜を過ごそうと自身の為にも思い切って提案をした。すると予想していなかった事だったのか、拍子抜けした様子で戸惑いながらも頷いただいきに安心をするもその反面どこか寂しさのようなものを感じて現在に至る。

(いつからこんな風になっちゃったんだ、ボクは…)

 ケンイチの兄として見本になるような真面目で誠実な生き方をしてきたつもりだった。年齢的にももう子供ではない。我儘も言わず、弟に対しては優しくも時より厳しく接し、ナワバリバトルにも誠心誠意で日々努力し挑んできた。そして今では心の拠り所でもある大切な恋人の隣りで照れ臭くも幸せな毎日を過ごしている。自分自身に対しても甘さはないように戒めて行動をしてきたというのに、この体たらくはなんだと誰かに叱ってもらいたい程に彼に甘えたい気持ちで胸はいっぱいで、こうして一人でソファーに寝そべっていると余計な事ばかり考えてむくむくと膨れ上がってゆく。今頃大好きなウミウシと一緒に二人ベッドですやすやと眠っているのだろうと想像するだけでしんみりさは増し、その上自分自身の心の狭さに思わずがっくりと肩を落としてしまった。

(こんな事でうじうじ悩むくらいならさっさと寝た方がマシだ…)

 恐らく一時の気の迷いだろう、寧ろそうであって欲しいと心の中で願いながら、押し入れから持ってきたタオルケットを頭から被りそっと目を閉じる。いつしか人の体温を感じながら眠る日々が日常茶飯事となっていて、それがない今夜が妙に違和感があり無意識のままに自分の中で起きていた変化に今更気付いたような気がして頭が痛くなってきた。
 結局眠れないまま一時間程が経過した頃。それでも少々眠気を催してきたところで喉の乾きを感じ、水でも一杯飲んでもう一度横になろうと被っていた布団を退けたその直後だった。

「う…わっ! な、ちょ…だ、だいっ」
「シッー。ぽちが起きちゃう」
「う、おぉっ」

 真っ暗な視界が見慣れたリビングを映し出した時、目の前にはすやすやと眠りこけているウミウシを抱っこしただいきの顔がアップで映り込んできたものだから危うく心臓が止まりかける。ゆっくりと呼吸を整えながら彼の方を見遣ると、片手には水の入ったコップが握り締めており、どうやら同様に喉が渇いたらしい彼も喉を潤しに来たようだった。

「ボク、もう台所で飲んできたから。ナナちゃんも飲む?」
「あ…うん。ありがと」

 時刻は夜の一時。未だばくばくと暴れる心臓を落ち着かせるように渡されたコップに口を付け体の中へと水を流し込む。その間にいつの間にやらテーブルの上に海水の入った水槽が置かれていて、だいきが抱っこしていたウミウシを起こさないようにそっとその中へと放すと、やはり水の中の方が居心地がいいのか、気持ちの良さそうに身体を伸ばしながら目を覚ます事無くすやすやと眠り続けていた。

「いつもこうして寝かせてたの、さっき思い出してさ」
「でも、どうして…」
「…えへへ、やっぱり寂しくて。ナナちゃんのぬくもりないと、夜眠れなくなっちゃった」

 眉尻を下げながら困ったようにそう呟く彼にどこか安心した自分が確かにいて。お邪魔しますと言いながら一枚のタオルケットの中へ潜り込んできただいきに慌てて持っていたコップをテーブルに置き、そのまま抱き締められるようにずるずると体が胸の中へと沈んでゆく。外側で横になるこちらの体が落ちないようにがっちりと背中に回された腕に引き込まれ、首の下に置かれたもう片方の腕におそるおそる頭を乗せた。交差するように絡み合う両足に思わずびくりと体が震え、しかし然程彼の方は気にも留めていないらしく、ようやく得る事の出来たぬくもりに満足したのか、とろけるような笑みをそっと浮かべていた。
 かく言う自分も心の奥底で求めていたものが再びすぐ側へ帰ってきてくれた事により、先程までうじうじと悩んでもやついていたものが一気に取り払われたその単純さに苦笑して、一人静かにくすくすと零してしまった声が聞こえてしまったらしく、不思議そうにこちらを窺っていただいきを見上げてはっと口を噤んだ。

「ナナちゃん?」
「あっ、えと…その」
「…えへへ。今、ボクも同じ顔してたよ」
「えっ…」
「やっぱり、一緒じゃないとやだもん」

 すりすりと頬ずりをしながら少し赤らんだ顔で甘える彼が可愛くも感じ、彼が自分と同じ気持ちを抱いていた事実がとても嬉しくて、我慢しようとしても笑顔が零れてしまい締まらない表情を隠す事など到底出来なかった。

(なんだかすごく、気恥ずかしいけど…やっぱり嬉しいや)

 本当はウミウシの存在など関係なく、いつも通り二人で過ごしたかったんだ、なんて本音はさすがに言えないまま、そっと振り返り背後で寝ているウミウシの方へ視線を向けてみる。ふよふよと水の中で軽い体を浮かせながら気持ち良さそうに眠っている様子に、あれだけ散々嫌悪していたというのに不思議とその姿に可愛さを感じ始め、そういえば碌に名前も呼んであげていなかった事を思い出してふと呟くようにそっと声を掛けてみたのだった。

「…ぽち」

 あまりに小ささに気付いてないのであろう勿論反応はなく、時々寝返りを打つ度にどきりと心臓が震えるも、再びふにふにと柔らかい体を漂わせるウミウシに思わず小さく笑った。

「明日、ユウキに返す前に抱っこしてみる?」
「うっ…うーん…」
「クッションの上だったら直接じゃないし、暴れるような子でもないから大丈夫じゃないかな」
「まぁ、それ、だったら…」
「きっとぽちも喜ぶよ。さっきまで、少し寂しそうにしてたんだ」

 どうやら距離を置いていたのは自分だけだったらしく、苦笑しながらそう零すだいきに少々悩みながら静かに頷き、そのままゆっくりと瞼を落とせば、先程よりも背に回された腕に引き込まれ、感じ慣れた彼の体温に包まれながらそっと意識を沈めていった。

「おやすみ、ナナちゃん」
「うん、おやすみ。…ぽちも、おやすみ」

 そのまま目を覚める事なく迎えた次の日の朝。きっかりいつもの起床時間に目が覚め、なんとかソファーから落ちずに済んだがやはりボーイ二人が添い寝するには狭かったようで、どこか体の節々に痛みを感じつつも、まだぐっすりと眠っているだいきの腕の中からなんとか脱出し、名残惜しく感じるも今のうちに朝食の準備を済ませておく。
 すると、焼きたての食パンがチンという軽快な音と共にトーストから勢い良く飛び出した瞬間。水面からそっと顔を出し、こちらの存在に気付いたのか静かに見守っているウミウシの視線を感じ、なんとなくそれが気になって目の前まで近寄った。

「…君も、お腹空いたの?」
「…」
「そういえば、ユウキくんから預かってたのがあったっけ」

 思い出したように大きな紙袋の中から取り出したのは、カイメンという海に生きる多細胞生物でウミウシにとってご馳走ともいえる代物らしく、密封袋に入れられたそれを手で掴み、ぽちゃんと水槽の中に落とすと底へ沈んでいったそれを追い掛けるようにウミウシは水中へと潜り、表面にひっつくと器用にも口をぐにゃりと伸ばし広げそのまま撫でるように食事を始めた。
 これがウミウシにとっての見慣れた食事風景かどうかは自分には良く分からなかったものの、どこか嬉しそうにカイメンへと吸い付く様子にこちらもつられて思わず口角が上がる。

「うーん…ナナちゃん…」
「…おはよう、だいき」
「おはよ…いい匂いがする〜」
「そりゃ、今ご飯できたから…って、ちょっと!」

 大きな欠伸を吐き出しながらようやく布団から抜け出せたのか、背後から首筋にぐりぐりと額を押し付けて腰に腕を回し、そのまま圧し掛かるように抱き付いてくるものだから危うくそのまま水槽へと手を突っ込むところだった。ばか、と腹まで回った手のひらの甲をぐいっと指先で捩じると、ようやく小さな悲鳴と共にぱっと解放され、そそくさと熱の籠もった頬を隠すように再び台所へと戻る。

「ほら、今日はだいきの好きなバナナチョコレートクリームサンドにしたんだから。早く準備手伝って」
「えっ、本当!? さすがナナちゃん! ちょうど食べたいな〜って思ってたんだ、えへへ」

 焼きたての食パンに輪切りにしたバナナとチョコクリーム、そしてたっぷりの生クリームを挟んで半分に切ったホットサンドを皿に盛り、グリーンサラダとアイスココアを添えて(ここまででなんとも胸焼けしてしまいそうなラインナップであるが、彼曰くベスト朝食コンボらしい。勿論食べるものは同じではあるがせめて飲み物だけでも普通の牛乳を自分はセレクトしておく)、嬉々と笑顔を浮かべるだいきがその皿を台所から居間のテーブルへと運んでゆく。
 まだまだ日が昇りきらない朝日が眩い頃、食卓に並べられた朝食を前に二人手を合わせ、いただきますと声を揃えてはまだ温かいホットサンドを二人して一口がぶりと噛み締めた。

「んー、おいしい! ナナちゃんの朝ごはん、最高!」
「毎度の事だけど、よくそんな甘いものオンパレードで食べられるな…あ、ちょっと待った! ぽ、ぽちが!」

 ここまで美味しそうに食べ物を食べるボーイはだいきとケンイチ以外で今のところ見た事がない。一口が大きいせいか彼の口元に付いたチョコレートソースをティッシュペーパーで拭いながら、ふとフローリングの上へ退避させておいた水槽に目を向けると、縁に足を掛け今にも外へ飛び出しそうになっているウミウシが視界に入った。割と高低差がある為、このままでは怪我をしてしまうかもと思い慌てて側へと駆け寄り、無意識に両手を差し出したその直後。

「危、な…」

 ぽよん、と柔らかな感触と水気のある冷たさが手のひらを滑り、しかしその小さな体を受け止めるのに必死で今までに味わった事のないその感覚を噛み締める暇などなく、カーペットの上に滑り込む勢いで飛び出したものだから勢い余って水槽にまでぶつかり少しばかり頭から水を被ってしまったものの、どうにかウミウシの救出に成功する事ができたようでほっと胸を撫で下ろしたのだった。

「セーフ! ナナちゃん、ナイス!」
「良かった…。全くもう、危ないところだっただろ…ぽ、ち…」

 安心したのも束の間、必死過ぎて気付いていなかった自分が悪いと言えば悪いのは当然で、昨日までは指先で触れる事も出来なかったあのウミウシを緊急事態だったとはいえしっかりと両手で、しかも素手、想像していた通りの不思議な柔らかさがどっしりと目の前で構えている状態に今にやってようやく気付き、全く想定していなかったその現状に頭は真っ白になりどう対処していいかも分からずに体は硬直する。
 混乱はしつつも側で呑気に良かったねなどと言いながらウミウシの頭を撫でているだいきに助けを求めようもその声さえ出ず。ただひたすらに息を荒げる事しか出来ずにいると、玄関の方からごめんくださいという聞き慣れた声とインターホンが部屋に響き、あろう事か恐らくユウキくんであろう自分の弟を出迎えに颯爽と最後の希望が玄関へと走っていってしまったものだから居た堪れない。

(あ、ちょ…だいきのアホー!)

 自分らしくもない、とにかく冷静にならなければ。心の中でそう何度も言い聞かせ、ごくりと息を呑みながらもう一度ウミウシへと勇気を出して視線を向けてみる。すると、何故だか嬉しそうに首を傾げ、ゆっくりと伸びてきた触覚がそっと頬を撫でてきたものだから驚いてびくりと体を震わせてしまい、しかしその冷たさが不思議と暴れていた心臓を落ち着かせ、そしてこちらの心情を察したのであろう、ゆっくりと手からフローリングへ降りたウミウシは部屋へと招かれたユウキくんの元へと真っ直ぐ進んで行ったのだった。

「ぽち! 元気にしてたか?」
「してたしてた。ナナちゃんとも仲良くなったみたいだし」
「あ、いや…ええと……」
「そうなんだ! 良かったぁ…ケンちゃんが、おにいさん実はウミウシ苦手なんだって言ってて、どうしようかと思って…」

 せっかく彼の為にと黙っておいた秘密はどうやら昨夜のうちに弟によって周知されてしまったらしく(格好悪いにも程がある、あとでケンイチには制裁を与えておかねば)、こうなれば仕方がないと素直にそれが事実であると認め、しかし今まさに人生で初めてウミウシを抱っこできた事を伝えると、ユウキくんは嬉しそうに笑顔を浮かべながらも、一息つく間もなく纏めた荷物とウミウシを片手に玄関へと向かってしまった彼の背中を慌てて追い掛ける。

「お茶でも飲んでいかないかい?」
「いえ、そんな。こちらこそ朝ごはん中だったのにお邪魔してしまってすみません。それにこの後ちょっと用事があるので…」
「じゃあ、落ち着いたらまた遊びにおいで。ぽちと一緒にさ。ね、ナナちゃん」
「…うん、そうだね。ケーキ、用意して待ってるよ。その時はケンイチも連れておいで」

 玄関で慌ててクツを履き入れていたユウキくんに二人でそう声を掛けてあげると、すぐさま返ってきた元気の良い返事と共にオーロラヘッドホンの上へ器用に乗っていたウミウシが嬉しそうにその場で飛び跳ねたものだから思わず三人で笑ってしまった。

「お邪魔しました!」

 子供らしく元気よく飛び出していったユウキくんと別れたその後。途中だった朝食を早々と済ませ、思えばウミウシを救出した後に手も洗わぬまま放置してしまった事もあり、濡れてしまった床を掃除してすぐさま手は洗うも潮臭さはしばらく消えそうにもなく。

「うわ、ナナちゃん手ぇぽちくさっ! あははは!」

 などとだいきに笑われてしまう始末で、必死に助けてあげたにも関わらずこの仕打ちはなんなんだと、せっかく少しは好きになりかけたウミウシから再び距離を感じ始めたある日の午後だった。


(2016.06.26)


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