昨夜は酷く疲れが溜まっていて風呂から上がった後にすぐさまソファーへと沈んでしまったものだから、思い出そうとしたところでいまいち鮮明な記憶は取り戻せそうにはない。ただ一つ、微かに頭の片隅に残っていたのは、意識が遠のく寸前に彼女が風呂に入ると宣言した事だけは確かに覚えていて、その結末の最後を見届けられないまま朝を迎えてしまった結果、次の日の昼間である現在に至る。
 まるで水死体のように浴槽の蓋へうつ伏せになってしっかり裸で寝こけていた彼女を慌てて抱き起こし、もしや本当に死んでいるのではないかと酷く心配して渾名を呼びながら頬を叩けば、ふにゃふにゃと意味の分からない言葉を羅列し仕舞にはド派手な男らしいくしゃみをかましたものだから、それ以降余計に気を掛けるのはもうやめた。
 しかし、ぬるくなった湯船に何時間も浸かっていたせいか本当に風邪を引いてしまったらしく、額にそっと触れれば少し熱いと感じる程には既に熱を帯び始めていた。脱衣所に積まれたバスタオルをひとつ取り出して、怠そうに浴槽から出た彼女に投げ付けては着替えたら教えろと一言告げ居間へと出ると、その数十秒後にバタンという表現では済まされない程の大きな音を立てて倒れてしまったものだから、半ばやけくそな形で素肌の上に投げ捨ててあったジップアップグリーンを着せては肩で担ぐようにベッドまで運んだ(裸を見るのが恥ずかしいだとか、そんな余裕などなかった)。

「は…ハット、ちゃ…ふ、あっ…ふぁっくしょいやぁ!」
「呼ぶのかくしゃみするのか、どっちかにしろ」
「ふあーい」

 ずるずると鼻を垂らす顔をティッシュペーパーでぐりぐりと撫で回し、もう何個積もったかも分からない程にぎゅうぎゅうにゴミ箱へ突っ込まれた紙屑の山の僅かに空いた隙間へと無理矢理に押し入れた。

(バカは風邪引かないって、よく言うんだがな)

 さすがに風呂の中で一夜を過ごせばどんなに健康なインクリングでも風邪は引きかねないけれど、普段から人生の中で一度も病気に罹った事のなさそうな健康体が、こうして目の前で唸りを上げながら苦しそうに咳をしているとやはり多少頭のネジが抜けていても体調は崩すものなのだという事実を目の当たりにしているようで、今まで散々軽く考えていた事に少しだけ反省をした(全面的に見れば明らかに彼女の自業自得なのだが)。
 看病をするにも氷もなければ冷却シートもなく、水分補給のできるまともな飲料水さえ持ち合わせていなかった為、彼女が次第にうとうとと意識を手放し始めた頃にそっと側を離れては、テーブルの上に置いてあった鍵と財布だけを持ち出して近くのコンビニへと足を運んだ。
 午前中のコンビニは人影も少なく、必要なものだけを厳選して買い物カゴに突っ込み、レジでおカネを払ってはそそくさとアパートへと戻った途端、部屋の中が妙に静まり返っている事に違和感を覚えて一瞬玄関で立ち止まっては首をかしげた。

(…まぁ、寝てるんだから当たり前か)

 なんだかんだで長い付き合いとなっている彼女のアパートに泊まったのは今回が初めてではない。朝起きるのが苦手、寝相も悪くていびきがうるさい、朝ごはんはトーストと必ず決めている事、そして暑くても寒くてもどんなに帰って来た時間が遅くても、毎日長風呂に入らないと気が済まない性格で部屋の片付けも下手、というくらいのステータスは、嫌でも忘れられないくらいに脳へと深く刻まれてしまっている。
 おそらく熱で頭がぼうっとしているから余計、彼女自身も大人しくしているのだろう。そう思い、寝室のドアを開いた瞬間、すぐさま、しかし起こさないようにゆっくりと踏み入れようとしたその足を戻してはその入り口を閉ざした。

(……あのバカッ…どうすれば、ああいう状態に…はぁ)

 扉を背に荷物を胸に抱えてずりずりと床へとへたり込み、外からすれば平然としているように見えるであろうものの、脳内で響いては止まないばくばくと揺れるように弾む心臓を掴むもなかなか落ち着きを見せる事はなく。今まさに、こんなにも自分の脳内を掻き回している張本人は未だに帰って来た事さえ気付かずに睡眠を貪っているのだろう。

(何故か、明らかに全裸で)

 正しく言えば、脱いではいるものの胸から太腿にかけてはなんとか毛布を被っているので、見てくれだけならば全裸ではない。しかし、その毛布が少しでもずり落ち床へと落ちてしまえば完全に一糸纏わずの焦げた全裸である。出掛ける前はジップアップグリーンと黒のスパッツを着用して寝ていたのを確かにこの目で視認していた為、着ていたという事実に間違いはない。という事は、自分が出かけている間に一度起き、暑苦しかったのか寝惚けて全てを脱ぎ捨ててしまった可能性は無きにしも非ず。

「さて…どうしたもんかな」

 とにかく買ってきた冷却シートをいち早く彼女の額に貼り、水分を取らせ、軽く食べ物を入れた後に薬を服用させなければ治るものも治らなくなってしまうと思い、意を決してもう一度閉ざされた扉を開け放つと予想していなかった存在が目の前にこちらを見上げて立ち尽くしていた。

「あ、ハットちゃん。おかえ、」
「あぁッー!?」

 それからの行動は自身でも驚く程に迅速かつ無駄な動きのない、端から見れば順を追った緻密なひとつひとつの行動に驚きを隠せない事だろう。
 扉を開けた瞬間に視界全体に映ったのは、まさしく生まれたままの姿の何一つ隠すものを身に付けていない焼きイカそのものだった。すぐさま視線を落とし、その脇をするりと通り抜け、床に落ちていたジップアップグリーンを顔に投げ渡すと、そのままキッチンへと向かい靄ついた頭の中を全て振り払いながら一切何かしらを考える事なく、ただただ無心で買ってきた白米をビニール袋から取り出しては準備しておいた土鍋の中へ水道水と一緒にぶち込んだ。そのまま火をかけながら箱から冷却シートを一枚抜き、欠伸を掻きながら着替えを済ませベッドに腰を下ろしている彼女の額にぺちんと叩き付けた。

「わははは、つめたーい!」
「わはは、じゃねぇよ。まだ熱下がってないんだから寝てろ!」
「だって暇なんだもん。お腹減ったし」
「…今お粥作ってるから、もう少し待て。出来たらまた呼びに来るから」
「へーい」

 眉をへの字に曲げながらもようやく再び横になってくれた彼女に背を向け、火を付けたままだったキッチンへさっさと戻ろうと踵を返しては、ぐつぐつと煮え始めていた土鍋の中身をおたまで掻き混ぜていく。塩だけで味付けたあっさりとしたお粥なら、気分が優れず食欲が落ちていてもするすると喉を通っては腹へと流れていってくれるはず、と長年、年の離れた弟と妹達の世話をしていたつい最近までの過去を思い出してはこっそりと苦笑しながら、器に盛った熱々のお粥にスプーンを添えてお盆に乗せ、彼女のいる寝室へと戻ろうとした直後だった。

「…っ!」

 部屋の中からばたんと何かが倒れる音が聞こえてきて、大丈夫かと扉越しに声を掛けるも返事はなく、唐突に嫌な予感がして持っていたお盆をテーブルに置いてから慌てて部屋へと押し入ると、目の前には体が上下に起伏する程に息を荒くした焼きイカがうつ伏せになってベッドの横に倒れていた。

「おい、しっかりしろ!」

 ずっしりと重みを増したその体はじんわりとフクに染みた汗で沈み、慌てて両腕で横に抱き上げてベッドの上へと座らせた。無駄に揺らさないようジップアップグリーンを丁寧に肩の部分だけを脱がせ、枕元に落ちていた冷却シートを拾って貼り付けては、サイドテーブルに置いていた洗面器でしっかりと浸して絞り切ったタオルをべたべたになった背中へこすり付けた。

「んあ…きもち……」
「ったく、大人しくしてろっつってんのにこれだ」
「うぅっ、ごめんなさい…」

 数分前までたかが彼女が全裸だった事に対して、わなわなと心臓を震わせていた自分を頭ごなしに叱ってやりたいと思った。想像以上に苦しそうにしている彼女の体は異常な程に熱を発していた為、咄嗟に先程買ってきたミネラルウォーターを無理矢理飲ませながら体を丁寧に拭いてやると、ようやく心身共にすっきりしてきたのか、閉じていた瞼の隙間から少しずつ蕩けたピンク色が浮き出して、振り返ったその視線ががっちりと自身にぶつかった。

「…焼きイカ、」

 少しばかり様子のおかしい彼女に、どうした、と一言声を掛けようとすると、フクが肌蹴たままにも関わらず胸元へと落ち、唐突な彼女の行動に驚きながらもその柔らかい体を必死に抱き留めた。

「お、い」
「……か、ない、で」
「あぁ?」
「ひとりは、やだよ…」

 がっしりと力いっぱいにさくらエビポロの裾を掴み、胸に顔を押し付けるように体を寄せた彼女から零れた声は確かに震えていて、前髪で見えなくなったその陰からぽろりと一粒、透明に光った雫が床へと落ちては弾けて消えた。
 次第にしゃくりを上げ始めた彼女の頭をそっとあやすように優しく撫で、見上げた涙でぐしゃぐしゃの顔をごしごしと腕で拭ってやると、痛い痛いと喚きながらもようやくけらけらと笑いを零したものだから、落ち着かないままだった胸の奥がようやく静寂を取り戻したような気がした。

「…寝るまで一緒にいてやるから。ほら、さっさとフク着ろ」
「うー…あ、これ、ハットちゃんのガチホワちゃん? アタシのは?」
「一応、これでも探したんだ。でも部屋が汚すぎて見つからないから、とりあえずこれで我慢しろ。お前が嫌じゃないならな」
「あっ…うん! えへへ…やったぁ」

さすがに友人とはいえ、ガールが恋人でもないボーイ(と思っているのは自分だけなのだが)にふくよかな胸と裸体を晒したままというのはやはりよろしくない。当の本人は全くもって気にも留めていないのだが、目のやりどころという問題が発生するので、体の為にもとにかく何かで隠してもらおうと、剥ぎ取ったジップアップグリーンの代わりに側に畳んで置いておいた自前のガチホワイトを無理矢理に着させた。
 ここでようやく横になってくれた彼女に毛布とふかふかの羽毛布団を掛け、泣き疲れてしまったのか、重みを増した瞼をなんとか持ち上げようと瞬きを繰り返すその様子に思わず苦笑した。

「…ほら、手」
「んっ…ハット、ちゃ…」
「これで、寂しくないだろ」
「えへへ…そうだね」

 布団の中からほんの少しだけ差し出された指先を包むように両手で握る。それに応えるかのように折り曲げ、握り返してきた体温に自身も眠気に襲われていた事にようやく気付いた。すうすうとか細い、しかし安定した呼吸がゆっくりと胸を上下させ、じんわりと伝わってくる優しい体温に、どうせ離れる事も叶わないのだからと観念しては、小さな丸椅子にそっと腰を下ろす。今ならまだ温かいであろうお手製のお粥を惜しみながらも、重く伸し掛かる疲労には抗えそうになく、彼女の体を包んだ羽毛布団に顔を埋めるとあっという間に意識は夢の世界へと旅立っていったのだった。


***


「…ダァメだ。反応ネーワ」

 腐れ縁である友人から一名発病者有、本日のナワバリバトルは中止との連絡を受け、隣りで心配そうにお見舞いの品であるアイスボックス(果たして本当に正しい選択だったのかは知らないし、割とどうでもいい)を胸に抱えたパッチンと、ハイカラシティから少し離れたところに佇む駅近くのマンション、その一室の扉の前で困り果てていたのは既に日が傾き始めた頃だった。インターホンを押しても部屋の主からの返事はなし、拳で叩いて名前を呼ぶも気付く様子もなく、もしかしたら出かけているのかも知れないと考えたものの、あの世話好きの腐れ縁が病人を置いて長い時間外出するとは思えず、困り果てていたところ自棄糞気味にドアノブを捻れば意外にもそれは簡単に回り、なんてこった、と無言でアイコンタクトを交わしながら頷くと、掴んだままそっと手前に引けば薄暗い玄関に恐る恐る足を踏み入れた。

「か、勝手にいいのかな…」
「呼ばれたンだカラ、別にイーンダヨ。外で突っ立ってンのも疲れるシヨォ」

 勝手に廊下の電気を付けては、後ろから腕を引っ張られ制止の言葉を掛けられつつも、自分の家のようにずかずかと先へと突き進めば恐ろしい程に物が散らかり放題のリビングへと出る。以前訪れた時よりは遥かに減ってはいるものの(一応床が見える)、相変わらずガサついた獣道を辿っては、二人がいるであろう奥の寝室へと繋がる扉のドアノブをそっと開いてはその隙間から中の様子を伺った。

「…おっ、オオォオォ〜…。おいダーリン。見てみろヨ、アレ」
「えっ、なになに…」

 一番初めに聞こえてきたのは静かな呼吸音と小さな寝言、そして常夜灯の薄暗いオレンジ色に包まれて眠る焼きイカと、彼女の被った羽毛布団へうつ伏せにもたれ掛かり、肩を上下する腐れ縁の気持ちの良さそうな横顔を覗いては思わず笑みが溢れた。

「あはは、気持ちよさそうに寝ちゃってる」
「ったく、幸せソーなカオしやがッテ…」
「…よし。それじゃあ俺達はご飯の準備でもしてよっか。どうやら食べ損ねちゃってるみたいだし」

 リビングのテーブルに長らく放置されていたらしい、既にかぴかぴに乾いたお粥の入った土鍋の存在を確認し、心の中で苦笑しながら開きかけた扉を音も立てずにそっと閉めた。その直後に薄らと聞こえてきた焼きイカがふにゃふにゃとした柔らかな、そして温かみのある声で落とした彼を呼ぶ声が聞こえて、もしやここへ訪れた事自体、骨折り損の草臥れ儲けだったのではないかと肩を落としたものの、長い付き合いの中でも滅多に見る事の出来ない、あんなにも安心しきった彼の顔を拝む事が出来ただけでも不思議と得をした気分に陥り、すぐさま落ちかけた気分があっという間にうきうきと足取りを軽くする程に上昇していった。

「ア…イイコト思いついタァ」

 既にキッチンへと向かい、何か料理を始めたパッチンを余所に、ポケットに入っていた携帯電話を握り締めながらもう一度寝室への扉を少しだけ開いて、そのカメラのレンズを部屋の中へと向ける。ピントを合わせ、パシャリと一度だけ切られたシャッターの音にもびくりともせず、にししと口元を歪めながら画面を確認すればしっかりとその二人の寝顔が綺麗に写っていた。

「……今度、コレでアイス奢らせてヤローっと」

 アパートの外で締め出し食らわせたお返しだ、と自分勝手にも心の中で仕返しを誓っては、邪魔になったその携帯電話をテーブルの上へと投げ捨て、途端に手持ち無沙汰になってはぐつぐつと鍋で何かを煮込んでいるパッチンのお尻をスパッツ越しに揉みしだいたのだった。

「ウヒョ〜おしりもみもみ、キモチイイ〜」
「ひうぅっ! あぁもう、オロシちゃんのばかぁ!」


(2016.10.14)


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