テスト
超高校級の世の中には胡散臭いものが溢れているけど、いま目の前に貼られているこの一枚のビラほど胡散臭さを感じるものはなかった。見出しには「デッサンモデル募集」の文字。年齢性別不問。時給はアルバイトにしては高めの1800円。最後の注意書きには「まじまじと観察されることが平気な方」とあって、何より全てが妙に綺麗な手書きで構成されていることが怪しい雰囲気を醸し出している。もしこの張り紙を見たのが大学に入学したばかりの4月頃で、お金に余裕があって中だるみもない時期だったら、間違えてもここの電話番号に問い合わせることなんてしないだろう。それでも自然にスマホを取り出しているのは、きっと期待していたほど充実していない大学生活へのマンネリと、そろそろお金を稼がなくてはという焦り、そして下の方に小さく描かれていたねこのキャラクターが少し可愛く見えたからだ。40秒くらい待って、やっとコール音が途切れる。相手の第一声は「っあ゛い……」という明らかに寝起きバレバレの声だった。
「あの、デッサンモデル募集の張り紙を見て電話したんですけど……」
「あー、はいはい」
女性だろうか。咳払いで整えられた声はかなりダルそうで低く響いている。そもそも声が低いのか、それとも話し方の問題なのか、何にせよあまりいい印象は受けない。
「時間、曜日の希望はありますか」
「週末がいいです。時間は特に希望はありません」
「それじゃ、土曜の18時から。場所は私の家で問題ありませんか」
「い、家……?」
「嫌ならお断りしてもらっても大丈夫です」
今まで何度かこのようなやりとりをしたのか、台本を読んでいるような淡々とした口調だった。ここで断る人の気持ちもわかる。若干怪しい顔も知らない人に初めて会うことですら躊躇するというのに、いきなり家にあがるというのはなかなか危険度が高い。
「ちなみに、怖いと感じたら椅子で殴ってもらって構いません。前払いなので、お金だけ持って逃げることも可能ですよ」
「はぁ……わかりました」
芸術家というのは、だいたい変な人だと聞いたことがある。電話口で少し話しただけなのにそれがすぐに納得できた。だけどなんとなく危険な人ではないことが伝わってくる……気がする。通っている大学の最寄り駅を集合場所に、今度の土曜を顔合わせにするらしい。「めんどくさくなったらドタキャンしてもいいので」という声を最後に、電話は切られた。名前も名乗ってもいないし名乗られてもいないままで大丈夫なのだろうか。わずかな不安を抱えながらも、私は土曜日の夕方を待った。
***
夕方5時半前。平日なら学校帰りの中高生の姿がちらほら見受けられる時間帯に、改札前でぽつんと立ち尽くす。前日に電話で場所と時間を確認したけどやっぱり少し心配だ。名前もちゃんと聞いたが、本当に来てくれるのだろうか。コンビニで買ったお茶のペットボトルを握りしめる。その流れで腕の時計をちらりと見ると、秒針がちょうどてっぺんを指し、5時半を示していた。そのタイミングを狙ったかのように覇気のない声が頭上に降ってきた。
「サイトウさん、ですか」
声に反応して振り返ると、視線の先には指紋がつきそうなほどに病的な白い鎖骨が見えた。首をたどると薄く紅い唇と鼻筋の通った尖った鼻があった。
「はい、齋藤です」
「初めまして。高津です」
据わった三白眼が語りかける。整えられることなく伸びきった黒髪が陰鬱とした印象を与える一方、白い肌と漆のような黒髪が美しいコントラストを仕上げていた。何より若い。想像していたよりだいぶ。
「それじゃ、行きましょうか」
言われるがままに後ろをついていく。背丈は私よりだいぶ大きく、少し猫背気味な姿勢だ。誰かとすれ違うたびに人々の視線が高津さんへとつい寄せられていくのがわかる。気味が悪くなるほど綺麗で異質なオーラを放っている人だ。3秒に1回このまま逃げるかどうかを考えたけど、結局高津さんが家賃の高そうなマンションの前で足を止めるまで無言で歩き続けた。エレベーターで高津さんの細長い指が押したのは最上階のボタンだった。この数十秒がわりと緊張する。エレベーターの上昇音以外は聞こえず、息をすることさえ許されないかのような圧迫感。前に立つ高津さんが今どんな表情でいるのかもわからない。おそらく無表情だろうけど。
エレベーターを降り、少し進んだところのドアにカードキーを差し込む高津さん。そういえばほぼ手ぶらで、服も最低限でアクセサリーは何ひとつつけていない。一体どんな部屋に住んでいるんだろう。
「どうぞ」
玄関に入ると、すぐに絵の具の匂いが鼻をかすめた。靴は一足しかないから一人暮らしだろう。案内されて部屋の中に進む。なんというか、キッチンもリビングもかなり殺風景であった。きれいで埃ひとつなさそうだけど家具もほとんどなく、生活感をまるで感じられない。でも奥へ進むにつれてだんだんと絵の具の匂いが濃くなっていくのを感じた。
「ここが私のアトリエです」
案内されたのはこじんまりとした部屋で、中央にはキャンバスがあり、その周りには絵の具や筆、書きかけの絵のようなものが散らかっていた。お世辞にも整理されているとは言えない環境だ。
「奥のソファにかけてください」
一人がけのソファに座る。高津さんもキャンバスの前にある椅子を持って来た私と向かい合わせに座った。何が始まるかと思えば、長い脚を組み、顎を手で支えてじっと目を合わせてきた。目から始まり、唇、顎、肩へと視線が下がって隅々まで観察され、最後は全体像を捉えられまた目に戻った。
「モデルは初めてですか」
「はい」
「他の絵描きがどうしているかわかりませんが、私の場合はこれといったポーズはないので基本的に自由に過ごしてもらって構いません。もちろん動いても大丈夫です」
これは予想外だった。絵のモデルというのだから、てっきり描いている間は動いてはいけないものだと思っていた。じっとすることが苦手というわけではないけど、自由にしていていいのならだいぶ気が楽だ。
「その代わり、どんなに観察されても文句はなしです。よろしいですか」
抑揚のない話し方だからなのか、強迫されているような気分だった。けれどそれでお金がもらえるのならそれこそ文句はないと首を縦に振る。
「今日は何時までできますか」
「終電の時間まで大丈夫です」
「わかりました。そこまで長くいる必要はないので、22時くらいまでにしましょう」
そう言って立ち上がった高津さんは、一度部屋を出てから茶色の封筒を持って戻って来た。
「今日の分です」
「あ、えっと、ありがどうございます」
そういえば前払いだと言っていた。風変わりなところもあるけど、約束はしっかり守ってくれる誠実な人なのかもしれない。
「暇だと思うので、スマホをいじったり本を読んだり、眠くなったら寝てもいいですよ。小腹が空いたら近くのコンビニで何か買って来てもいいし」
「はぁ……」
「私のことは適当に呼んでください。おい、とか、ちょっと、とか」
名前で呼ぶという選択肢はないのかと突っ込みたくなるのを抑え、代わりにふっ、と笑いが溢れる。一瞬高津さんの瞳孔が開いた気がしたがすぐに元の無表情に戻った。
「それから、面倒であれば敬語で話す必要もありません。私はそういうの気にしないので」
「でも、高津さんは敬語で話してるじゃないですか」
「あらゆる可能性を考慮しているだけです。例えば、あなたが私より年上だったとか、礼儀を重んじる家庭で育ってきたとか。年齢に関しては、おそらく私が上でしょうが」
「19歳です」
「お若いですね。私は20です」
「あんまり変わらないじゃないですか」
「そうですね。差し支えなければ、この堅苦しい話し方やめてもいいですか」
「どうぞ」
「どうも」
話せば話すほど変な人だ。何も考えてなさそうに見えて、頭の中では常に思考をフル回転させているような口ぶり。かと思えばそうでなかったり。まったく掴めない。
「下の名前は」
「飛鳥です」
「齋藤と呼ばれるのと飛鳥と呼ばれるの、どっちが好き?」
「別に好き嫌いはないけど……飛鳥かな」
「わかった」
口調が変わるだけで、雰囲気もだいぶ変わる。敬語で話していた時はもう少し柔らかい雰囲気だったけど、それをやめた途端、冷たいというか無愛想というか……この状態で初めて会ったら本気で逃げ出していたかもしれないほど怖い。今までの敬語は無理して作っていたものなのだとよくわかる。
「じゃ、今から4時間は適当にしといて。用事ができたら帰ってもいい」
少し自由すぎるのではないか。ただ時間が過ぎるのを待つだけでお金がもらえる。もし社会勉強が目的でアルバイトをするなら間違いなくハズレだけど、単純にお金を稼ぐだけならこれ以上楽な仕事があるだろうか。高津さんの持つ短くなった鉛筆がキャンバスの上を走りはじめる。迷いのない動きだった。15分ほど描いたところで高津さんは鉛筆を置き、首を鳴らしておもむろに立ち上がった。のそのそと近づいてくる高津さんは、これでもかというほどの食いつき具合で私の体をまじまじと観察し始めた。冒頭で言っていた「観察」とはこれのことか。私の体をなぞるその視線はやけに熱っぽく映って、妙に体が緊張して息苦しい。高津さんの視線は足の指先から膝に移り、腰をのぼって腕に寄り道した。最初に楽なバイトだと言ったことを訂正したい。
「なるほど」
何が「なるほど」なのか。独りごとを漏らした高津さんは私の顔に視線を移した。細部までしっかり見るためなのか、距離が近い。私からも高津さんの顔の造形がよく見えた。前髪の間から覗く三白眼は鋭いが目尻は下がっていて何となく憂鬱そうで、尖った鼻先は誰もが羨みそうな綺麗な形をしていた。薄い唇はまるで血を飲んだかのように赤い。
っていうかこの距離、もうちょっとでキスできそう……。
……は?
頭の中に浮かび上がった考えに自分で驚愕する。こんな怪しそうな、完全に怪しい初対面の人相手に何考えてるの、私。
「どうかした?」
「いや、別に」
必死に動揺を隠すために目をそらす。高津さんは特に気にする素ぶりも見せず観察を続けた。
「ちょっと、触ってもいいかな」
「え?」
「嫌ならいいけど」
「あ、いや、大丈夫」
いざという時は椅子で殴ってやろうと頭の中でシミュレーションをするけど、高津さんが触れたのはまさにその頭だった。大きな骨ばった手が頭に乗せられ、そのままするりと耳の横に降りた。不覚にも撫でられるのが心地いいと思ってしまうほど優しい手つきで私の髪を梳き、毛先を優しく握って高津さんはまた「なるほど」と呟き椅子に座った。
それから3時間ほど高津さんはキャンバスに向かい続けた。その間私は本棚から適当な本を取りそれを読んで時間が過ぎるのを待った。途中アトリエから出た高津さんは飲み物とお菓子を持って戻り、「ろくなものなくてごめん」と私の前にそれを置いた。そういえば高津さん自身は何も食べていない。アトリエに入るまでの部屋を思い出して見てもとても健康的な食生活を送っているとは思えなかった。きっと外に出る機会もあまり作っていないのだろう。
それからまた1時間が経ち、外はすっかり夜の空気に変わっていた。高津さんは筆を置いて腕を伸ばし、時計を確認する。
「22時。今日はこの辺にしよう。お疲れ様」
「うん、お疲れ様」
実を言うともう少しここにいたかった。というのも、選んだ小説がなかなか面白い。渋々本棚に戻す私を見て高津さんは「持って帰ってもいい」とそれをまた取り出してくれた。
「ありがとう」
「いや、退屈じゃなかったならよかった」
帰りは高津さんが駅まで送ってくれた。春になったとはいえ夜はまだ冷えるのか、薄着の高津さんは肩をすぼめながら歩いている。空中を彷徨う骨ばった手が冷たそう。人差し指を絡めるとやっぱり冷たかった。っていうか、何やってんの私。いきなり手触るとか引くでしょ。慌てて振りほどこうとすると、高津さんがそれを阻止してさらに指を絡めてきた。
「温かい……なんでしょうこれ、いいですね」
……なにそれ。初めて人の手の温もりを知ったかのような言い方。しかも敬語に戻ってるし。気味悪いし。でもちょっとかわいいし。高津さんの純粋な言葉に、少しずつ胸が温かくなる。それが悔しい。私はこんな簡単には人を好きになったりなんかしないのに。自分が自分じゃないみたいで、手を離そうにもうまくできない。
そういえば、キャンバスを見るのを忘れた。どんな絵が、どんな私がそこにはいるのだろう。来週はちゃんと忘れないように見ておこうと改札を通る。振り返ると、そこにはもう高津さんの姿はなかった。駅まで送っといて、手まで繋いどいて……そんなあっさりとした別れ方ってあり?一応私もなんてことない態度をとっておくけど、名残惜しく思っている自分も確かいてそれが悔しい。ちょっと怖くて不気味で、でも妙な温かさもあって、すごく変な人だった。その変人が天才画家として名を馳せていることを知ったのは、もう少し先の話。