手に負えない

朝起きて、歯を磨いて顔を洗う。そんな、毎日の変わらないルーティンワークを繰り返しながら「この先もずっと自分は何も変わらずに生きていくんだろうな」とただ漠然と考えていた。学校に向かい授業を受けて、友達と過ごして帰宅する。そんな、ごく普通で当たり前の毎日を残りの高校生活半年間も、大学に進学してからも、何なら就職してからも。ずっと、一生。



「おかえり」

自室に向かうと、見知った顔が我が物顔でベッドにふんぞり返っていた。それを見て、私は反射的に開いたばかりのドアを閉める。
何、今の。
幻だと良いと思いながら、幻想だと思い込みながらドアの前で唸っているとドアノブが回されて内開きのドアが開かれた。

「わっ!」
「何閉めてんだよ」
「な、何でいるの………!?冴!」

驚きと戸惑いに震えながらそう言うと彼、糸師冴は目をパチクリと瞬かせて何でも何も、と口にした。
リビングに居たお母さんがやけに上機嫌だったのは彼が居るからだろう。教えてくれれば良かったのにと思ったけれど、母はお隣に住む糸師兄弟に甘いので冴から言われたら黙っているのだと思う。勿論それが凛であっても。

「まぁ、取り敢えず入れよ」
「私の部屋なんだけど………」

私は呆れながらも自室に入ると、いつものように鞄を机の上に置いてそのまま椅子に座った。冴は定位置だとでも言うようにベッドに腰掛けると、それと同時に大型量販店で購入した黒のパイプベッドが軋んで音を立てる。小さい頃は3人で並んでも余裕だったベッドは冴一人でも横になれば窮屈そうだ。

「何でここに………ってのは置いておいて。何で日本にいるの?今はスペインじゃなかったっけ」
「パスポートのビザ切れたから帰ってきただけだ。そう何日も滞在する予定は無い」
「そっか………」

それでも、そんな少ない帰国時間でわざわざ地元まで帰って私の家に来たということに何も思わないはずはない。ほんの少し心の中が暖かくなるような気持ちを抑えるようにしていると、ちらりと顔を向けた冴は不敵に笑った。

「そんなに俺と会えて嬉しかったか」
「そんなんじゃないよ」

相変わらずの傲岸不遜ぶりにふいっと顔を背けるが、冴は余計にニヤつくだけだ。

「ふーん…………とか言って、雑誌なんか買ってるくせに」
「!?何でそれ、って……!」
「お前、何でベッドの下に雑誌隠してるんだよ。思春期の男子中学生か」
「う、うるさいなぁもう!」

ラフな白いシャツに黒のパンツを身に纏った彼はユニフォーム姿でピッチを駆け巡っている自分が映された雑誌を手にしている。それは日本で出版されたものであり、普段インタビューなんて気にも止めない冴がそれを持っているはずがない。
つまり、確かに私が購入したもので、確かに隠しておいたはずだ。冴の言った場所に。

「私が居ない間に部屋漁るのやめてよ!他のところ触ってないよね!?」
「触ってない触ってない。ふーん…………わざわざインタビューのページに折り目まで……へぇ」
「やだやだやだ!返してよ!」

発売日に浮足立ちながら買いに行って、ドキドキしながら読んでみれば「サッカー選手」としての冴に住む世界の差を見せつけられた。
それでも、だからこそとも言えるが私にとっては大切な物だ。
椅子から飛び降りてベッドに座る冴が持つ雑誌へ手を伸ばすと、冴は雑誌を高く掲げると同時に飛び込んできた私を支えた。

「危なっかしいな」
「そうさせてるのは誰よ!」
「俺だな」

返して、と今一度グッと腕を伸ばせば、冴は背を反らせて遠のかせるように腕を後ろに伸ばす。

「今ここにいる俺より雑誌の俺の方がいいかよ」
「サッカーしてる冴が一番かっこいいから。
だから、私の前にいる冴は幼馴染の冴なの」
「、なんだそれ………」

雑誌はどうでもいいのか、冴はそれを放り投げて飛び込んできた私を捕まえた。抵抗したものの、昔とは違い男女の、アスリートと一般人の力の差は天と地ほどあり、早々にそれを諦めた。下手に暴れて怪我でもさせようものならどう謝罪すれば良いかもわからない。
いくらかその状態のままで、冴の膝の上に座らされたままでいると、口を開いたのは冴だった。

「お前、部活は。学校終わるの早くねぇか」
「もう3年だし、出入りは自由だよ。大会とかも出る予定は無いしね」
「ふうん………」
「冴が部活のこと聞くの珍しいね?興味無いんでしょ?書道」
「お前だって小学生の時から通ってる習い事が派生しただけのくせに」
「うるさいです」
「都合悪い時はすぐ敬語」
「うっ…………もう!」
「ははは」

軽く笑った冴は、そのまま話を続けた。

「部活は興味ねぇけど…………お前、来年どうすんの」
「来年?………ああ、進路ね。勿論進学だよ」
「何かしたいこととかあるのか」
「いや、特には………数駅先の女子大が一番近いし取り敢えずそこかなって」
「昔はケーキとかパンとか作りたいって言ってたろ」
「いつの話よ!?」
「小1とか小3とか」
「なんで覚えてるの………?」

私が覚えているのはともかく、冴が覚えているとは思わなかった。

「でも、今と昔じゃ全然違うでしょ。私も………冴も」
「………まぁ、な」

昔と違うことなんて、冴がサッカーに夢中で、そんな冴のことを私が好きな事くらいだ。


家が隣同士だった私達は物心つく前から一緒だった。冴の二つ下の弟、凛も勿論で私達は何をするにも一緒だった。
だからこそ、私はずっと冴がサッカーをしている姿を見てきた。8歳の頃からメディアに取り上げられ、数々の試合で偉大な功績を残してきたそれよりずっと前から。

「こんな事言ったら貴方は別に、なんて言うと思うけど。サッカーをしてる冴を見れて嬉しいよ」
「……わかってるから、言わなくていい」
「うん」

彼はサッカーに夢中で、それ以外のことにまるで興味がない。授業態度も良くなく、先生の話を聞かないことが殆ど。そんな彼がサッカー以外で目を見開いてジッとしていたのが、私が初めてお母さんと台所に立って冴の誕生日ケーキを作った時だった。
今思えば出来は良くも悪くも無かったと思うけれど、冴が「うまい」と口にして料理が出来るのはいいなと話していた。だから私はあの頃、ケーキ屋さんとかパン屋さんになりたいと思っていた。

幼いながらに私は冴に向ける感情を友人や家族に向ける『好き』とは違うことを知っていたし、私の世界にはいつだって冴がいる。
春の桜並木に、夏の夜空に輝く花火、秋の夕暮れに冬の海岸。そういう、ひとつひとつを全て彼と過ごしてきた。
だから、冴が世界一のクラブチーム「レ・アール」の下部組織にスカウトされて渡西する事となった時、凛や糸師夫妻、私の両親も彼を応援していた。けれど、私は素直に喜べなかった。
ずっと私の世界に彼がいたから、冴と離れることが想像出来なかった。
その時だった。旅立つ冴を見送る空港で夢と希望に満ち溢れた表情を見て、私は彼にとって必要がないと知ったのだ。

冴はサッカーが好きで、私はそんなサッカー以外を知らない冴が好き。だけど、その冴のサッカーを中心に出来上がった世界の中に私は必要ない。
冴を邪魔する私はいらない。けれど、一人では冴への気持ちも押し殺せそうにないから、離れている事に耐えられないから、早く自分では手の届かない男になってほしい。
世界のスター。日本の至宝『糸師冴』として。なんの取り柄もない私では手の届かないような別世界の人間になってほしい。

「………冴」
「ん、」
「お帰り」

そう思っているのに、彼は何食わぬ顔で突然私の目の前に現れる。そしてそれを嬉しく思ってしまうから手に負えないのだ。

「ああ、ただいま」



いつから始めたのか、正確な時期は覚えていない。ただひたすらにボールを追いかけ、ピッチの上を走り回るサッカーという球技に俺は夢中だった。
それ以外のことなんて考えられないくらい、寝ても覚めてもサッカーばかりで、勝ち進む度強敵と戦い、その度に勝利を掴んではいつの間にか『日本の至宝』とまで呼ばれるようになっていた。
自分でもサッカー以外を知らないことは短所だと思えるくらいで、こんな生き方ができる奴なんてそうはいないと言い切れる。

それでも、俺でも知らない俺の事を知っていた名前の言葉だけはしっかりと胸に刻み込まれていた。

「冴、今日告白されたんでしょ?」

ポヤポヤとしているその女は家が隣同士の幼馴染だった。家族とも友達とも呼べない距離感で、何とも思わない存在。けれど、なんとなくいつも一緒にいた。

その日は雨でサッカーの練習も出来ないからと二人で帰っていた時だった。
突然放たれた言葉に、足を止めないまま顔を向けて答える。

「よく知りもしない奴に何言われても振る以外ねぇよ。俺、あいつの名前知らねぇし」
「でも、女の子には優しくしないとダメって冴のお父さんが言ってたよ」
「知ってる。けど、俺はアイツらに構う時間があるくらいなら試合見たいし練習したい」
「それもそうだけど」

むぅ、と口を尖らせるこいつを見て、俺は告白された時の事を思い出していた。
「サッカーしている冴くんが格好よくて」だと。ふうん。そうなんだ。それで俺にどうしてほしいんだと口にして置き去りにしたのだけど。

「名前はどう思う」
「何が?」
「俺の良いところ」

ふと興味が湧いた。一にも二にもサッカーが出てくる様な奴だからこそ、家族以外で一番近い距離にいる名前はどう答えるのだろうと。
うーん、と唸りつつ傘の柄を握り直した名前はパッと思いついた様に俺の顔を見て言った。

「優しいところ!」
「…………優しい?」

斜め上のその言葉に疑問符を浮かべたが、名前はそうだよと強く頷くばかり。

「この前、凛くんが試合に乱入した時怒らなかったでしょ?サッカー大好きな冴が試合を中断されたのに怒らなかったのはびっくりしちゃったな。冴って、凛くん相手でも容赦しなさそうなのに」
「それは………凛にサッカーの可能性があると思ったからで」
「それでもだよ。サッカーが好きで合理性とか最適を見つけることが得意だって、それは冴が全体を見てるからこそだよ。
人をよく見てる証拠だね」

にっこりと笑いながら言われた言葉に、俺は何も言えなかった。
この幼馴染は、俺が思っている以上に俺の事をよく知っていたようで、サッカーをしている自分ではなく本来の糸師冴を見ているのだと知った。

多分、その時からだった。名前が俺にとってただの幼馴染ではなくなったのは。

好きな事だって、習い事だって、夢だって。好きな女の事なら覚えるのは普通だろう。俺がスペインに行ってもこいつなら絶対俺の気持ちを理解できると思っていたし、ストライカーではなくMFで世界一を目指すと決めた時も「どちらにしても世界一を狙う冴はかっこいいと思うよ」と言った。

自分がサッカーしかないのなら、それ以外の俺を知っているコイツがいればいいと思っていた。けれど、毎日顔を合わせることがなくなり、遠い異国の地でサッカーをしていると、いつからか名前は「サッカー選手の糸師冴」に目を向けるようになっていた。

「こんな事言ったら貴方は別に、なんて言うと思うけど。サッカーをしてる冴を見れて嬉しいよ」
「……わかってるから、言わなくていい」

「うん」と小さく呟いた名前のことを何でもわかっている筈だった。それなのに、今コイツが俺をどうしたいのかがさっぱり解らない。ポヤポヤしているのは昔と変わらないくせに。思っていることはすぐに顔に出てしまうくせに。
サッカーをしてる俺を見れて嬉しいなんて言う癖に、その顔は何処か寂しそうだから本当に手に負えない。
だから名前が何を考えているのか知りたいと、強く思っていた。

「………冴」

だけど、こいつの全てを解らなくてもいい。

「お帰り」

最終的に俺が行く場所までこいつを連れてくればいいだけだ。
離れて生活していることが不安なら、早く大人になって彼女が不自由しない生活を送れるようにすればいい。ただ自分の元にいてくれるだけでいい。

「ああ、ただいま。名前」

その為に俺は何度だってこいつの隣に何食わぬ顔で帰るのだ。
『幼馴染の糸師冴』として。

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