空を埋め尽くす灰色の雲と、街に降り注ぐ雨。
それをぼんやりと眺めながら、貴利矢はマグカップに僅かばかり残るカフェオレに口をつけた。生ぬるくなったそれは彼と同居している名前が淹れたもので、同様のものがローテーブルに置いてある。
隣でゆっくりとページを捲る名前は本の世界の中にトリップしているのか、時折忍び笑いが聞こえた。
彼女と出会ったのは2年前のゼロデイ。
両親がバグスターウイルスに感染し、死亡。親戚付き合いも無く、身を寄せる場所がないのだと言った彼女を貴利矢は保護して育ててきた────わけではない。ただ、なんとなく一緒にいて何となく共に暮らしていた。
出会った当時は15歳だった彼女も、今では大学進学の為受験勉強をしている。もっとも、今日は完全に勉強する気がないのか朝からリビングにて読書をしているけれど。
貴利矢の明るい、もっと言えば軽薄な態度とは正反対なくらい名前は大人しく、自分にも周りにも無頓着。成人していないにしてはどこか大人びている彼女と生活することを、彼女との関係を、貴利矢は割と気に入っていた。
「名前ちゃん、夕方には雨止むみたいだよ」
「へぇ」
「カフェオレ、冷めてない?淹れなおそっか」
「うん」
「砂糖何個入れる?5個とかでいい?」
「んー………」
ダメだ。返事がおざなりどころか、全く話を聞いていない。
お互いブラックコーヒーは飲めないからとミルクを注いでカフェオレにするが、貴利矢は角砂糖を5、6個程入れるのに対して名前は普段であれば3つ程度。一緒に暮らしてるから当たり前のように把握しているし、返事されたからと5個入れるなんて事はしないけれど。なんて少しむくれながら貴利矢は冷めたカフェオレに砂糖を投入して飲み干し、再度淹れなおそうと電気ケトルでお湯を沸かす。
出かけるような天気でもなく、仕事をする気分でもない。
手持ち無沙汰になった貴利矢は、何を読んでいるんだろうと名前が体重を預けているソファの背もたれに手を付いて覗き込む。だが、依然として名前は無反応であり、貴利矢もそこまで読んでいる本に興味はない。
女の子の成長は早いと聞くけれど、彼女も例に漏れずという感じだ。胸元まで伸びる艶のある黒髪を手に取り、したこともない三つ編みをしようとして断念した。やり方がわからん。
貴利矢が弄ったとしても、サラサラでクセの一つもつかない髪はするりと彼女の輪郭を滑る。
邪魔したかなと思い黒髪を左耳にかけると、彼が去年の誕生日にプレゼントしたピアスと彼女が普段好んでつけているイヤーカフが見えた。シルバーとクリスタル素材のシンプルなそれは控えめに彼女の耳元で輝いてる。
「…………、」
貴利矢は、何を思ったのかそれを口に含んだ。
さしておしゃれにも興味はなく必要最低限のどちらかと言えばカジュアルな服装しかしない名前が、自分が選んだ装飾品をつけていることに何も思わないはずはない。
「!な、何!?」
「あ、やっとこっち見た」
れろ、と突然聴覚にゾワリとした感触がすれば反応せざるを得ない。
大学進学をする気は無かったけれど、就職もできる気がしない。そんな名前に貴利矢はそれならとりあえずでいいから大学に行けと言った。
決してハイレベルな大学ではないが、最近は勉強に力を入れる日々だったこともあって読書の時間は名前にとって至福の時間だった。
「突然何」
そう言いながらも視線はすぐに手元へと移り、貴利矢は辟易するようにため息を吐いて後ろから首元に腕を回して抱きしめる。
「まだ読むの」
貴利矢の声は聞き分けの悪い子どもを諭すようにも拗ねたようにも聞こえて、つい笑ってしまう。
貴利矢は普段であれば読書を積極的に邪魔するような真似はしないのだけど、あまり没頭し過ぎているとちょっかいを出してくる。まぁ、読書に限らず勉強していても家事をしていてもゲームをしていてもそうだけど。
「読むよ。ゆっくりできる時間なんて、そんなに無いしね」
「だけど、二人でいる時間の方が少なくない?」
「そうでもなくない?」
「なくなくもない」
お互いに家の外ですることはあるけれどまっすぐに帰ってくるし、それこそ同じ空間にいる時間は1日のうち半分以上を占めるのでは確実に長いと思うけれど。
「きりが良いところまで読みたいから、もう少し待ってて」
「待たない」
「待てない、じゃないのか九条貴利矢………」
監察医は一応医者の部類だから頭もよく、大学も卒業した立派な大人で間違いない。けれど、どうもこの人は子どもっぽいというか、我儘なところがある。
無視しとこう。
意地でも第一章だけは読み切ってやると決めて再び本の世界に意識を向けたが、何か胸の辺りに何か大きなものが直に触れるような感触に気が付いた。
それが何なのか察しは付いているものの念の為自分の胸元に視線を落とすと、案の定と言うべきか貴利矢の手が触れていた。しかもただ触っているだけではなく明らかにそういう意図を持ったものであり、これはまずいぞ、と頭の中に警告音が鳴り始める。
「………貴利矢くん?何をしてるのかな?」
「さあ?何だろうね」
「悪ふざけも大概にしないと怒るよ」
「名前ちゃんは読書がしたいんでしょ。そんなに読みたいなら気にせず読みなよ」
「気になるが?」
「ならもう本はいいね」
3人がけのソファはこの家に暮らすことを決めた時に購入したもので、二人の体を受け止めても音の一つも立てておらずまだまだ新品も同然だった。
名前はチラリとローテーブルに置かれている先ほどまで読んでいた本へ視線を向けた。今では読む気もなく、ページを捲るどころか腕を伸ばすことすらできそうにない。
ソファに押し倒され、そのまま何をするのかと思えば上から押さえ込むように抱きしめられ、数回唇を合わせ、そのまま首筋を滑っていった。
今更なことなので「うお、コイツマジか」なんて思ったけれど、貴利矢はこれ以上進める気はないらしく、服を脱がすこともなければ離すこともしないと言わんばかりに抱きしめ、至る所に唇を寄せている。
「貴利矢くん、何してるか聞いてもいい?」
「マーキング?」
「マーキング………それまた、何故」
「なんでだろうね」
でも、なんとなく「そうしなきゃいけない」と思う時ってない?
そう言って首筋に強く吸い付かれ、たまらず小さく声を漏らす。集中しろと言わんばかりの行動に反発せず従っているが、エスカレートする気配もない生ぬるい空気の中というのはどこかむず痒いものを感じる。
今まで生きてきた中で自分の人生を不幸だと考えたこともなければ、幸福だと感じたこともなかった。両親を失ったときでさえ、危機感などというものを覚えたことはない。
だけどたまに、雨の日は高確率でこうして「寂しい」と伝えてくるから、この人の隣にいると気が抜けない。
朝起きて一番に顔を合わせたり、向かい合ってご飯を食べたり。そして時折ハグをされたりして、一日を終える時に見る顔も彼で。ちょっとした「いいな」という気持ちが積み上がるほどに何故か不安で、逆にちょこっとだけ怖くなる。
きっと、彼にもそんな気持ちになる時があるんだろう。
「私はどこにも行く気はないんだけどなぁ」
「、」
ぴたりと動きを止めた貴利矢を見ながら、それでも動くことはなく話す。
「貴利矢くんが私を手放さない限り、私が貴利矢くんから離れることはきっとないよ」
「………そう?信じちゃっていい?」
「うん」
「ふうん、そうなんだ」
にっこりと笑う貴利矢くんはマーキングすら飽きたらしく、状態を起こすと同時にグッと腕を引いてソファに座らせた。
「カフェオレ、飲む?」
「うん。飲みたい」
「本はもう読まない?」
「読まないよ。ゲームしよ」
「いいね」
「夕方までのんびりして、ご飯食べて、お風呂入って、寝よっか」
「二人で?」
ニヤリと笑った貴利矢に、フッと笑みを向けた。
私も大概のせられやすいらしい。
「うん。二人でね」