010



「泣きすぎちゃう?」
「だって!康二くんが死んじゃうかと思った!」
「勝手に殺さんといてや!」
「本当によかった!怪我してるからよくはないけど!良かった!」
「うわあ!ふっか先生鼻水!鼻水ついてるから!」

病室から聞こえる叫び声と鼻をすする音は廊下まで聞こえてる。
無理もないか。
今回は本当に肝が冷えた。

「俺、もうあんな思いしたくない…」
「俺も」
「声枯れそう!でもまだ喋る!康二よかったな!ちゃんと足繋がってるぜ!」
「佐久間うるさい」

モニター見過ぎてたのか眉間を揉む阿部ちゃんの声は掠れてて、あんだけ叫べばそうなるか。
佐久間から入った無線と阿部ちゃんの焦ったナビは今までに聞いたことがないくらい声割れてて、俺の耳が潰れるかと思った。
康二の足に刺さった木はふっかと照が手術して無事に取り除いた。
止血してあったからなんとか大丈夫で、すぐに歩けはしないけど命に別状はない。
これも全部、海未ちゃんと目黒とラウールのおかげだね。

「あ、康二くん大丈夫?」
「めめ!」
「元気そう」
「なんでそんな冷静なん!?感動の再会やで!?」
「いやいや、死ぬなんて思ってないから。俺と海未とラウールが治療してふっか先生と照先生が手術してんだから」
「なんで!もっと心配して!」
「お前らほんとうるさい。もう消灯時間過ぎてる」

シャワー浴びてすっきりした照と目黒からふわっと石鹸の香りがした。
2人とも素直じゃないけど康二のこと心配してるじゃん。
髪乾いてないし、肩にかけたバスタオルが濡れてる。
数少ないシャワー室を順番に回してるからこれでやっと全員回った?

「海未は?まだ来てないの?」
「海未はもうええよ」
「さっきまでずーっと謝ってたもん」
「そうなの?」
「私のせいでごめん!いやいや俺のせいでハンカチごめん!って、ずーっと言ってたわ」
「床に頭めり込むかと思った!あんな綺麗な土下座久々に見たわ!」
「違うんよ!海未のせいじゃないねん!2人とも怪我したらあかんと思ってさ!咄嗟に!ほんまに無意識に!」
「まあ、2人とも怪我しないのが一番だからね」
「そのとーり!早く治してね」

ドクターヘリは危険な現場に行くことが多いけど、だからって医者や看護師が怪我をしちゃいけない。
それを分かってるはずなのに、医者も看護師も走らずにはいられないんだろうな。
走って、助けて、自分も傷ついて。
でもやっぱり仲間は大事だから、守らせてほしいよね。

「そういえばしょっぴは?」
「さあ?まだシャワーじゃない?」

翔太のシャワーの順番、何番目だったっけ?






水が流れる音と、くしゃくしゃって布を擦る音。
俺の足音に気付かないくらい集中してて、腕を伸ばせば触れそうなくらい近づいてやっと顔を上げた。
鏡越しに目が合って、大きく見開かれる。
それが鮮明に見えるほど、洗面台の鏡はちゃんと掃除されてた。

「お!つ、かれさまです」
「なんで髪乾かしてないの?風邪引くじゃん。せっかく俺が上着貸したのに」
「ごめん…」

そんなこと言って、咎める気なんてないのにな。
洗面台のシンクの淵に腰掛ければ、鏡越しに合ってた視線が正面から向き合う。
いくら鏡が綺麗って言ってもやっぱり直接目を合わせたい。
ふはって笑ったら、海未が不思議そうに首を傾げた。
水は止まらない。

「康二のとこ行かなくていいの?」
「さっき行った。海未は?」
「私もさっき行ったよ。何回も謝ったのに佐久間くんに爆笑されたけど」
「おでこ赤くなってる」
「嘘!?」
「嘘」
「え、…ひどい」
「くはは、」

赤くなってないのにおでこを慌てておさえるのが面白くてもっと笑みが零れる。
じとって睨む目は全然怖くなくて、視線はまた手元へ落ちてしまった。

「水冷たくね?」
「すっごい冷たい」
「血は水じゃないと落ちないもんな。お湯だと固まっちゃうから」
「やっぱり全部は落ちないかも…」

空の青もシナモンの顔も、全部赤黒い。
原型なんてないくらい汚れてて、ところどころに穴が開いてた。
渡したのなんて何年も前で、もうボロボロになってるのに大事にしてくれてる。
これがどのくらい海未にとって大事か、分かってる。
だから、

「翔太?濡れちゃうよ?」

水を止める。
ハンカチを包んでる海未の手は氷みたいに冷たい。
指先に触れて、ぎゅって握りしめた。
海未が泣きたくない時に絡める指は、涙のかけらもない今絡んでる。
今、必要だった。

「海未」
「ん?」
「……俺に好きって言わないで」

ほら、かけらが現れた。

「……なんで?」
「俺バカだからさ、今聞いたら絶対海未のこと傷つけると思う」
「……」
「上手く喋れないかもしれないけど、聞いて」
「……うん」


考えても考えても、答えは出なかった。
どの選択肢が海未にとっていいのか、答えに辿り着けなくて。
自分の気持ちも分からなくなって。

「俺はさ、海未が大事だよ」
「……」
「でも、その気持ちがなんなのかわかんない。幼馴染だから大事なのか、おばあちゃんのことがあったから大事なのか、ただ海未に執着してるだけなのか」
「……」
「海未の気持ちもわかんない。後悔させないって言ってくれたけど、その気持ちはなんなのか。ただの罪悪感で、……俺のこと好きにならなきゃって思ってるのかなって」
「そんなこと、」
「最後まで聞いて!で、俺なりに色々考えたんだけど、俺本当にバカだから分かんなくなって!ほんとにイライラすんの!自分に!気持ち分かんないくせに海未と涼太のこと気になるし!海未にキスされてめっちゃ海未のこと考えてるし!他の女とキスしても海未のことしか考えてないし!」

勢いで止めどなく流れ出る言葉はまるで水みたいで、海未の全身を濡らしていく。
止める方法が分からない。
全部俺の本音。
バカだから、考えて喋ることをやめた。
考えて喋ったって、またきっと目黒に『ふざけんな』って言われるんだ。

「海未、俺余計なこと考えずにちゃんとお前のこと見たい。執着とか罪悪感とか関係なく目黒海未を真っ直ぐ見たい。それで、海未も渡辺翔太を真っ直ぐ見てほしい。……ただの男として見てほしい」
「っ、」

指先がもう冷たくない。
ぎゅうって強く握ったのに、それでも海未の目から涙が溢れそうだった。

「一回、リセットしたい」
「捨てるの?」
「うん」
「ハンカチは捨てられても、思い出は捨てられないよ?翔太が私の人生を変えた人ってことは事実だから変わらないよ?」
「それでもいいよ。リセットは俺のわがまま。海未が他の男を好きになったら、俺は止められない」
「翔太酷い。他の人のこと好きになれって言ってるみたい」
「ちげえよ。”後悔させない”っていう都合の良い理由で海未を縛りたくないの」

好きだと言えたらいいのに。
女として海未のことが、過去のことなんて関係ない、何も縛ってない。
そう自信を持って言えたらいいのに。
俺は言えなくて、ちょっと外野から俺たちの関係を突かれただけで足元がぐらつく。
そんな状態で好きって言えないし、好きって聞けないから。
大事な過去を、重荷に感じる前に切り離そう。

「泣かないよ?」

もう一度ぎゅっと力が入った手が痛い。
言葉通り、海未は泣かなかった。
必死に俺の手を握って、泣かなかった。



backnext
▽regret▽TOP