Please stab me with the tusk


章ちゃんが置いてくれたマグカップの湯気はとっくに溶けてなくなった。
こんなに重い空気のeightは久々で、滅多にないことで、息が苦しい。

「……」
「……」

どこを見てるのか分からへん。
じっとどこかを見つめたまま、泣きもせず、藍ちゃんは動かなかった。

「っとに、なんやねん!」
「亮」
「監督全然出えへん!」

最高潮に苛立った亮ちゃんはさっきから何度も葉鳥監督に電話をかけている。
葉鳥監督と森永カメラマンは仕事仲間で、今回のことを少しでもうまくいくようにしたかった。
もうすぐ夕方になる。
大倉が警察に呼ばれて、何時間も経つ。

「大倉がスタジオ荒すはずないやん!絶対なんかの間違いやで!」
「そんなん皆分かっとるから落ち着きって」
「くそ!監督出ろや!」
「……私のせいだ」
「藍ちゃん?」

膝の上で両手を握り締めて、絞り出すように零れた声が俺の耳だけに聞こえた。
藍ちゃんのせいなわけないやん。
荒した犯人が悪いに決まっとる。
白くなるまで握られた手をそっと包み込むと、震えてた。

「っ横山くん、」
「どうやった?!」

難しい顔した裕ちんが階段を降りてくる。
大倉に会いに警察へ行って、詳しい話聞いてきてくれたんやろ?

「大丈夫や。とりあえず、事件にはならん」
「よ、良かったー」
「大阪電話した?」
「さっきした。親にはちゃんと説明しといたけど、後で大倉からもかけるって」

大倉がそんなことするわけないって確信しとったけど、裕ちんの口からそう聞けてやっと安心した。
良かった。
ほんまに良かった。

「防犯カメラに犯人写っとったみたいで、大倉はなんの罪にも問われん。警察に呼ばれたのも事情を聞くためやったみたいや」
「あーもう!ハラハラさせんな大倉!」
「なんやねんもう、警察沙汰とかほんまに焦ったわ」
「捕まったらシャレにならんからな!」
「犯人誰やねんほんまに!」
「濡れ衣やで!」
「……」
「よこちょ?」
「横山さん、犯人は、……長坂くんですか?」

大倉の無事を聞いても藍ちゃんの視線は下がったまま。
長坂くんって、一緒にインターンしてた人やろ?
なんで、

「長坂くん、ですよね?」
「……」
「長坂くんなんですね」

裕ちんはなにも言わん。
なにも言わず、ただ藍ちゃんをじっと見つめた。
否定も、肯定もない。
藍ちゃんの手がもっと強く握られた時、勢いよく扉が開いて信ちゃんが駆け込んできた。
教授と話をするために大学に行ってたはずの信ちゃんも、裕ちんと同じ難しい顔やった。

「……大学、辞めるって」
「は?」
「アイツ、退学届け出したらしい」

驚きとか、信じられへんとか、そんな感情を一気に追い越して思考が止まる。
今、なんて言うた?
そんなはずないやん、なにがどうなったらそんなことになるん?
理解不能や。
その知らせを聞いて、裕ちんだけが溜息を吐いた。
まるで、最初から分かってたみたいに。







こんなにも自分が消えてなくなりたいって思ったのは初めてだった。
嫌だ。
信じたくない。
大学までの道のりが遠い。
そこにいる確証なんてないけど、そこしか望みがなかった。


『犯人の長坂って奴、親がテレビ局のお偉いさんなんやて。卒業も就職もこの先ずっと面倒見たるから今回のことは何も言うなって大倉に言うてきた』

『でも大倉はバッサリ断った』

『教授も今回の事件で頭抱えとってな。一応大学の代表としてインターンさせてもらったわけやし。森永カメラマンの仕事にも大きな支障が出とる』

『長坂の父親、大倉の態度にめっちゃ腹立てて帰ってったわ。アイツ、長坂の父親にも大学にも逆らって……』

『退学になるってこと……?』

『いや、自分で退学届け出したらしい』


なんで?
なんで退学届けなんて出すの?
長坂くんがあんなことしたのは絶対私のせいだ。
なのに、なんで?
なんでなの?

「っ忠義!!!」

5号館の一番大きな掲示板の前。
今はなにも飾られてなくてぽっかり空いたそのスペースをじっと見つめる忠義は、息を切らした私のことなんて気にもしないで静かに立っていた。
絶対、ここにいるって思ってた。

「忠義、なんで、」
「はっちーってさ、魔法使いやんか」
「は…?」
「俺らのことをずっと守ってくれてた魔法使いで、皆はっちーのことが大好きで、eightをずっとずっと大事にしてきた」
「う、うん…?」
「……藍だけに教えるな?」

そう言って忠義はやっと振り返って私を見た。
柔らかい笑みで、優しく微笑んだ。
その表情から何を言われるのか怖くなって、ひゅって息を吸い込む。

「俺にとって、もうはっちーはそこまで大きい存在やないねん」
「っ、」
「横山くんがあそこまではっちーの為に写真を続けるのも、正直よう分からん。俺は自分が撮りたいから写真を撮り続ける」

皆の中ではっちーの存在はとてつもなく大きくて、大事で、人生の中心で、時には縛って。
そんな皆の姿を見てきたけど今の忠義は全部当てはまらない。
もう、今は。


『……藍はほんまに、人のためばっかりやな』


私とは本当にすべてが正反対。
自分が撮りたいから撮る。
誰にも縛られない。
忠義はどこまでも‘自由’な写真を撮る人だ。

「学祭、めっっっちゃビリビリした」
「……」
「ずっと心臓がドキドキして、シャッター押す指がヒリヒリして、ずっと俺は‘自由’やった。あの時、俺が撮った写真覚えとる?」
「……蜂谷写真館」
「そう、俺らとはっちーの大事な居場所。でもな?あの写真撮って満足したんよ。ああ、俺ははっちーのことを思い出にできたんやって。目指してたものを手に入れてしまった。そうしたら、全部がつまらんねん」
「……」
「大学もインターンも、‘自由’やなくなってもうた。言われたものを撮るだけや。そんなん嫌や。自由に撮りたいって思って、そしたら、……もっと大きな覚悟が必要やなって、思った」

なぜだか全然分からない。
悲しいことを言われてるわけじゃないのに、なぜだか涙が止まらない。
私を見て話す忠義は本当に満足した顔で、物凄く輝いてた。

「俺ははっちーのためでもeightのためでもない。自分が楽しいから写真を撮ってる。……これからもそうでありたい」
「……覚悟、できたってこと?」
「覚悟なんてとっくにできとる。一生、自分が楽しむ覚悟」

私が気づかないだけだったんだ。
忠義は学祭が終わった時からずっと決めてたんだ。
大学を辞めるって、ここからいなくなってもっと前に進むって。
……私の隣から名前を消すんだって、決めてたんだ。

「泣くなやぁ、俺が泣かしたみたいやんか」
「っ、…だって、私のせいで、」
「あー長坂のこと?別にそれは関係ないって。タイミングやタイミング。まあ親父さんが偉い人みたいやし?干されるかもしらんけど」
「え?!それはだめだよ!私長坂くんに謝って、」
「あーあーええて!藍は俺が干されたら仕事なくなると思ってんの?そんなん実力で勝てるわ」
「すごい自信」
「でもそう思うやろ?」

涙を拭って頷く。
干されたくらいじゃ忠義は負けない。
忠義の写真は絶対に認められるし、自分が楽しむために全力な忠義が負けるはずない。
ぽっかり空いた掲示板を2人で見つめる。
ここでずっと競ってきた。
負けたくなくて、必死で、でも忠義には敵わないって痛い程実感した。

「大学辞めることは自分で決めたから後悔せんけど」
「……?」
「……藍の隣からいなくなるのだけは、ちょっと後悔やな」

ずっと笑顔で話してたのに、少しだけ眉が下がった。
悲しくて、私だって悔しいのにそう言って貰えることが嬉しくて。

「……藍」

手が触れる。
あの時みたいに手の甲が触れて、そこから熱が伝わってくる。
繋ぐ余裕も勇気もなかったけど、私はその手を握り締めた。
離れないように、強く、力いっぱい。
忠義とこの場所で触れられるのが最後だから。
ライバルの手を、今だけは絶対に離したくなかった。

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