誘い文句は蜜より甘い



甘い香りは部屋いっぱいに広がって。カシャ、カシャ、と撹拌する音だけが部屋に響く。指先に付いたチョコをぺろりと舐めてから我ながら珍しいな、と思った。

今までバレンタインだからって友達にすら手作りチョコをあげたことなんて無かったし、買ってきたチョコを平然とした顔で渡すタイプの自分が、こうして誰かのためにチョコを作る日が来るなんて。すずあたりが知ったら驚きそうね。柄じゃなさすぎて言えないけれど、これは、その。薫に渡そうかと思っているそれで。

勿論お菓子の作り方なんて知らないものだから零を通して噂の凛月くんに話を聞いてみたり、自分で調べてみたりした結果、味自体は悪くないと思う。見た目はすっごく綺麗ってわけじゃないけれど、初めてにしては悪くない仕上がりなんじゃないかしら?

完成したそれを小さな箱に詰め込んで、可愛くリボンを巻いてみる。それだけで満足してしまって、なんだか明日が楽しみになってきた。

喜んで、くれるだろうか。なんて弱気な自分も珍しい。ああ、恋ってこういうことなのね、私も随分と普通の女の子になってしまってることに今更ながら気づいてしまって。

「………」

バレンタイン当日、彼のところまで行くことがこんなにも高難易度なことだったなんて、普段の私なら想像がつくはずなのにね?恋は盲目っていうのかしら。

ショコラフェス真っ最中のそこは校外からのゲストが多く、アイドル側からチョコを渡すのが主だけれどもちろんその逆もあって。さすがは二枚看板というわけか、彼らの周りには女の子が沢山溢れかえっていた。私が直接関与したわけではないそのステージ、もしかしたら私も並べば薫からのチョコが貰えるかもしれないなんて心のどこかで思ってしまったけれど。流石にプロデュース科としてダメよね。そもそも恥ずかしくってどう言い訳したらいいかわからないわ。薫のチョコが食べてみたくって?でいいかしら、その自然な流れで私もチョコも渡す…なんて、無理ね。今日一日中カバンの中から出てこなかったそれは、もしかしたらお役を貰うことなく終えてしまうのではないか。

ふと、薫の横に紙袋があることに気づいた。紙袋二つ分、いっぱいにまで詰め込まれたチョコたちを見てどんどん心の中がもやもやとしていく。その感情が何かなんてわからないけれど、あんなにいっぱい貰っていて私のチョコなんて必要ないわよね、なんて。ああ、もう、こんな弱々しい私なんて、私じゃないわ。

「…綾菜、こんなところでなにしてるのよ?」
「あら、すず。…ここ、凄い人の量だと思って眺めていたのよ」
「このブースは二枚看板の二人ね、流石って言ったらいいのかしら。あんなにいっぱいどう処理するか見ものだわ」
「、そうね」

通りかかったすずから声がかかる。「なによ大人しいわね?なにかあったの?」そう聞いてくれるすずは相変わらず優しいなあって思うけれど、別に何もないわってはぐらかしてしまう。そう、何もないのだ。私が何も考えず勝手にチョコを用意して、渡せなくて悲しいってくらい。

いっそのことこのまま彼女に渡してしまおうか、なんて思いついてしまったけれど。意外と勘のいい彼女のこと、手作り感満載のそれを受け取ったら薫へのチョコだって一見して気付くだろう。追求してくるかはわからないけれど、彼のために作ったって事実をすずにバレてしまうのはなんだか恥ずかしいわ。

いつまでもここで彼らを見ているわけにはいかないしね、後を引くような気持ちは残るものの振り切って彼らから背中を返して歩き出した。

「どこいくのよ?」
「教室、忘れ物してしまって。取ったら帰るわ」
「…そう」

すずはまだ仕事が残っているのかしら。そのまま私を追いかけることもなく、私ら彼女の横をすっと通り抜けてゆく。すずにもバレンタインのチョコを用意しておけばよかったかな、なんて思った。何チョコに当てはまるかわからないけれど…もし渡せたのなら友チョコでいいのかしら。

夕陽の差し込む教室の中、外を眺めながらチョコを開けてみた。結局渡せなかったそれは一日中持ち歩いていたこともあって少しだけ形が崩れていた。女の子らしい黄色い声援も、ショコラフェスのBGMも、ここ校舎の中にまでは聞こえて来なくって。静かなそこで一つだけそれを口に含んでみる。

ーー甘い。

甘いだけで、味は感じない。自分で作って、自分で食べるだなんてなんだか虚しいわね。

残りを机の上に置いて、はあーっと大きく溜息を零したところで焦ったように教室の扉がガシャンッと開いた。突然のことでびくりと肩が震える。えっ、なあに、誰?急いで振り返った先にいたのは

「…薫?」

走ってきたのだろうか。息を切らしてそこに立つ彼はショコラフェスの衣装のままで。私の姿を見て安心したようにひとつ笑顔を零した。

髪型も崩れちゃってて、普段の薫ならそんなこと絶対しないのに。差し込んだ夕陽が彼を照らして、普段より数倍かっこよく見えた。とく、とくと心臓の音が早まって、ああ、悔しい。やっぱり私は彼が好きなのだ。

「こすずちゃんに、綾菜ちゃんが教室に向かったって聞いて…よかった、まだ残ってた」
「え、すずが?」
「うん。…それ、もしかしてチョコ?」

机の上に広がっていたそれに気づいた。あっ、開いたままだった。歪なそれを慌てて閉じながらにっこり笑顔を作り込んだ。まさか、こんなタイミングで薫が来るだなんて思わなかったし、もしかしてすずあの時から気づいていたっていうの?私が薫にチョコを渡そうとしていたことを。そう言えば凛月くんってすずと同じknightsのメンバーだったわ。そこから伝わってしまったのかもしれない。飛んだ失態だ、明日すずに会うのが少しだけ恥ずかしい。

こつりこつりとブーツの踵が音を立てながら此方に歩み寄ってくる彼は、私の前にたどり着いた途端跪いて「これ…綾菜ちゃんに」と目の前にチョコを差し出してくる。それはショコラフェスで薫が配っていたもので。いや、よく見たらラッピングの色が違うし中も少しだけ…私用に別に作られたものだって気づいた。

「わたしに、チョコ?」
「うん、普段お世話になってるからってのもあるけど、俺が綾菜ちゃんに渡したいって思ったんだ」

薫は凄いなあ。アイドルだからとかそんなんじゃない、一人の男性として、彼は凄いと思った。私が欲しいセリフも、してほしいことも、全部全部私にしてくれる。嬉しくって、嬉しくって。へらりと口元が緩んでしまった。

私も薫にチョコを、と思って横の箱を見つめたけれど、そういえばさっきひとつ食べてしまったんだった。ひとつ欠けたそれを渡してしまっていいのか、悩んでいた時に「…それさ、綾菜ちゃんの手作り?いいな、俺も欲しいなー、なんて」って薫が言ってくれる。ずるい、そうして誘導してくれるところも全部ずるい。

「一個、食べてしまったんだけれど…これ、良かったら」
「いいの?ホントに?わー、綾菜ちゃんの手作りチョコとか嬉しいなあ」
「…ほんとはね、それ薫のために作ってたの。」
「え」

言えた、言えたけれど。彼の顔は見れなくて少しだけ俯いてしまう。驚いたように固まった彼は私とチョコを交互に見て、さっきよりもひと回り嬉しそうな笑顔を見せた。

「薫、いっぱいチョコ貰ってたから。これ以上増やすのもなって」
「綾菜ちゃんのチョコなら大歓迎なのに」

ね、食べていい?そう聞いてひとつ口にいれた彼は美味しいって言ってくれて。ああ、作ってよかったと今日初めて思った。

ぽかぽかと胸の中が温かくって、これをしあわせと言うのだろうか。恋をしてからというものの私は初めて経験する色んな感情に振り回されてばっかりで。悲しくなったり嬉しくなったり、寂しかったり。忙しくって仕方がない。

でもまあ、それも悪くないなあ、って。

宝箱の中にころり、ころりと入り込む思い出の欠片は高校生活が終わりに近づいた今になって量が増えていったから。あと数ヶ月のうちに何個増えるかわからないけれど…そのうちいくつかは、目の前の彼とのものであったらいいなあ。





「…で?渡せたの?」
「もう。……渡せたわよ。ありがとう、すず」


後日もちろんあの日ショコラフェスでのことを教室ですずに聞かれた。そう。だなんて彼女はそっけないけれど口元は少しだけ緩んでいるところから心配してくれていたのかもしれない。

「まあ何はともあれようやくくっついたのね、もどかしいったらありゃしなかったわ!」
「あら。くっついたって、なんのこと?」
「…え?もしかして、チョコを渡しただけだとか言わないわよね?」

渡した、だけだけれど。きょとん。そんな素振りで言ってみればすずは今日一番の大きなため息を零した。もう、そんなにため息ばっかりついていると幸せ逃げちゃうわよ?なんて、その原因を作っているのはどうやら私のようなので黙っておこう。

その代わりと言ってはなんだけれど。ピッと彼女の前に差し出したのは駅前にできたばかりのカフェのちらしで。にっこりと笑って「お世話になったみたいだから、お礼。今日確かオフの日だったわよね?」と言いのければ呆気にとられたような顔を見せてくれた。ふふ、そんな表情ですら可愛いのだから貴女って結構ずるい女よね。

「……まあ、予定も無いし行ってあげなくもないけど?」
「ふふ、そうこなくっちゃ」
「でも!私は高いんだからね!パンケーキだって食べちゃうから!」
「知ってるわよそんなこと」

好きなだけどうぞ?なんて。こんな私も珍しいんだから。なんだか今日の私はとびっきり機嫌がいい、すずのわがままだって聞いてあげたっていいくらい。

友チョコだ、何チョコだ、結局私は彼女にチョコを渡さなかったけれど。でも、それでもいいわよね?関係に名前をつけるようなイベントは私たちにはいらないもの。

そんなものがあったって、無くたって。私がすずのことが好きだと伝える手段くらいこの世の中にいっぱいありふれているんだから。