何かきっかけがあったわけじゃない。それがいつからかも分からない。いつの間にか俺の心に住み着くそいつはいつも能天気にへらへらしてて。信号のように多彩に変わる表情のなかでも特別笑顔が似合うやつだった。

「荒船おはよ!」
「おう。寝癖ついてんぞ」
「えっ! うそ!」

 その笑顔の矛先が、笑顔そのものが、自分だけのものになればいいのに、なんて思う自分がいたことに驚いたのはもう随分と前の話になる。


13 毒占欲に侵される ♂


 俺の記憶が正しければそれは入学式から数日後で。入学後すぐの行われた試験で頭一つ飛び抜けて最下位を取った中津みのりは俺と同じクラスだった。

「えーと、る、るーと1……?」
「中津、お前は中学で何を習ってきたんだ」

 それはとんでもなく頭が悪かった。baseballをバセバ11と読むほどに。どうして進学校に入れたのか、そもそも何故B組なのか。入試の成績順でクラスが振り分けられる我が校の仕組みでは中津のレベルでこのクラスに選ばれるわけがなくて。場違いでしかないこのクラス分けに不思議に思ったが、入試で高得点を取れた仕組みはすぐに分かった。

 ある授業中、抜き打ちで実施された小テストの最中に何度も聞こえてくる鉛筆を転がす音は中津の方向から。転がして数秒置いて、また転がして。「なにやってんだこいつ」とそのときは思ったが、後日返却された小テストが何故か満点に近い結果を叩き出す。
 一回だけならまぐれだと思えるが、それが何度も続くものだから否応にも理解するしかなかった。中津が六頴館に入学できた理由はこの幸運体質にあるんだと。嘘みたいな話だが、すべて本当のことで。突然馬鹿みたいに高得点を叩き出して教師陣をざわめかす中津が見ていて面白かった。もはやこの幸運体質は中津の才能と言っていいだろう。

 頭は悪いが愛嬌のある中津は、気づけばクラスの中心にいた。変に浮いてしまうのではないかと、そんな心配を密かにしていたが、どうやらそれは俺の杞憂だったようで。
 は、面白い奴もいるものだ、とそんな中津に興味が湧いた。


「ない……な、ない」

 ボーダー入隊試験日、基礎学力テストの試験会場に足を踏み入れてすぐに中津の姿を見かけ、思わず「嘘だろ」と声が漏れる。正直かなり驚いた。ボーダーに興味などないと思っていたし、学校ではそんな素振りを見せなかったからだ。
 席はランダムで振り分けられていたが中津と俺の席は通路を挟んで隣だった。俺に気づくことなく焦った様子でペンケースを漁り続ける中津は、中のペンをすべて取り出してはしまって、また取り出して、妙な動きを繰り返した後に青ざめた顔で「もうだめだ」と小さくつぶやく。
 中津のこんなに焦った様子は初めて見た、一体何を忘れたんだ。お前のお得意の鉛筆様はきちんと机の上に鎮座しているし、すべて足りているように思える。まさか、受験票か? それなら探す場所はペンケースの中ではないだろ。

「何か無くしたのか」

 思わず声をかけると俺の方へと顔を向けた中津はぽかんとした表情で俺を捉える。大きな丸い目にはじんわりと涙が滲んでいた。

「あ、……えっと、消しゴム」

 小さく囁くように答えてから、無理やり作ったような笑顔で「絶対合格しますようにって、消しゴムの神様にお祈りしてたんだ」と弱々しく続ける。なるほどな、祈ってそのまま置いてきたわけだ。これを言うのが普通の女だと高校生にもなって何を言っているんだと思うかもしれないが、こいつの場合はほんとうに神が味方をしやがるから祈り一つも侮れねえ。どうやら中津には余程ボーダーに入りたい理由があるらしい。自分のペンケースから取り出した消しゴムを彼女の前に差し出した。無いよりはましだろ。幸い消しゴムは二個あった。

「えっ、貸してくれるの⁉」
「消しゴムの神とやらは宿ってねえけどな」
「うれしい、ありがとう! 鉛筆の神様にもお祈りしてあるからそれは大丈夫だよ」
「そりゃ頼もしいな」

 消しゴムを受け取った中津はいつもの明るい表情に戻る。大切そうに消しゴムを握りながら、頬を綻ばした。泣いたり笑ったり落ち込んだり、忙しいやつだな。そう思ったところで試験管が入室してきて、試験開始の合図が行われた。学力試験を受けている最中にも鉛筆を転がす音が頻繁に聞こえてきた。
 これが俺と中津の初絡みになるわけだが、中津はどうやら俺がクラスメイトだと気づいていなかったらしい。私服で、帽子を被っていたからかもしれない。流石に顔くらいは覚えてんだろ。

「消しゴムありがとうございました! 中津です!」

 試験が終了した直後に俺の元にやってきた中津は床に頭が付くんじゃねえかって勢いで俺に頭を下げて。にししと浮かべた笑顔が眩しかった。良い顔をするな。こちらが一方的に知るその笑顔はやっぱりこいつによく似合う。「知ってる」と返した俺の口角は自然と上がっていた。

 次の日クラスで会った中津の表情は傑作だった。帽子を被った状態で教室に入室すると、少し離れた教室の端から「え!」と声がした。発信源はもちろん中津で、ものすごいスピードで俺の方に駆け寄ってくる。

「よう」
「うそ! 同じクラスだったの!」
「荒船だ。クラスメイトの顔くらい覚えとけ」
「あいた!」

 軽くデコピンをすれば、でこを抑えて仰け反った。その試験はお互い無事に合格し、それから俺と中津は一緒にいることが多くなった。同学年の数少ないボーダー隊員であるからという理由もあるが、案外気が合って話しやすく、中津と一緒にいることが苦に思わなかったからだ。むしろ心地が良いほうで。


 そして入隊してから数ヶ月が経ち、こつこつとポイントを貯め続けていた俺は、あと少しでB級に上がれそうになった。それは俺と一緒に特訓してきた中津も同様で。今日の合同訓練の成果次第では二人共上がれるかもしれねえな。
 今日は一緒にボーダーまで行く約束をしているため、授業後の掃除を終えて教室まで迎えに行けば、ぼうっと窓の外を眺める中津がそこにいた。顔をほんのり赤く染める中津は幸い俺には気づいていない様子で。

(……誰か、外にいるのか?)

 嫌な予感が脳裏に浮かぶ。ここからでは中津の視線の先に何があるのか見えなかった。
 確かその先は校門へと繋がってはずだ。中津の表情からその先に何かがあるに違いないのだが、……なんだよ、その顔。初めて見た。途端に腹の底にずしんと重たいものを感じて、棘の生えた感情が芽生える。
 ああ、なんだよ。もう。中津の表情が自分以外に向いていることが酷く気に食わなくて仕方なくて、その視線の先にいるものをどうにかして壊してしまいたくなる。

 誰がいるんだよそこに。
 この学校に俺より仲のいい男がいるのか。そんなの知らなかった。
 俺の見てないところで中津に手を出したやつがいるのか。

 なんてこと考えて、ハッと我に返る。俺はいま何を。こんな思考になったのは生まれてはじめてのことだったから、驚いて胸のあたりに手をあてた。どくりどくりと流れるこの感情の名に、心当たりはある。あるが、認めたくはなかった。その名を当てはめてしまえば、もう戻れないこともよく理解していたからだ。

「……中津」
「わ! び、びっくりした。荒船か」
「悪い、待たせたな」

 背後から声をかければ肩を大きく揺らして振り返る。俺の姿を確認した中津は一瞬驚いた表情を見せて、すぐに笑顔を浮かべた。「全然帰ってこないからものすごく丁寧に掃除しているのかと思ってた」なんていつもの口調で冗談を言いやがる。そう、いつもと同じ。もうすっかり見慣れた中津の笑顔だ。いまはそれがやけに悔しかった。
 近寄った流れで窓の外を確認してみたが、何人か人影はあったが、どいつも知らない顔だった。そいつはもう出ていってしまった後かもしれない。誰を見ていたんだと中津に聞いてしまえばいいだけの話だがプライドが邪魔をしてそれを許さなかった。ただ素直に答えを聞くのが怖かっただけなのかもしれないが。
 行くぞと言えば中津は荷物を持って俺の隣に並ぶ。こうやって中津の隣に俺以外の男が並ぶ姿なんて想像するだけで反吐が出た。その瞬間に気づいてしまう。

 ……なんだ、そうか。もう既に俺は、戻れないところにまで来てしまっていたらしい。
 俺は、中津のことが好きだ。

 だが、気持ちを伝えることでこの表情を壊してしまうのが怖かった。俺に笑顔が向かなくなった世界だけは生まれてほしくないから。今のところは現状維持がいいかもしれないな。もちろん他の男に譲るつもりは毛頭ないが。今はまだ、頃合いではない。

 ボーダーまでの道のりでも相変わらず中津は笑顔だった。そろそろ隊組めるようになるかもしれないねと呑気に笑う。俺が心の底に嫉妬に満ちた競争心を抱えているとは知らずに。

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