その日は何もかもがうまくいかなかった

 朝は寝坊するし、普段は間違えない電車も逆方向に乗ってしまったり。しかもぼうっとしてたから七駅くらい気づかなくって、ボーダー本部からだいぶ離れたところで諏訪さんに連絡したら呆れ口調で怒られてしまった。おかげで午前中の防衛任務には参加できなくて。
 それから喉が渇いたからと自販機で冷たいジュースを買おうとしたのに間違えて温かい缶コーヒーを買ってしまったし、落ちてきたのは真っ黒のブラックで。ミルクがないと苦くて飲めっこない。このコーヒーは帰ってすぐに諏訪さんにあげた。起こった出来事を話したら怒りながらもめちゃくちゃ笑われた。つらい。
 ボーダーに着いたらエアコンが壊れたとかなんとかでめちゃめちゃ暑いし、逃げるようにラウンジや個人戦ブースに遊びに行ったけれど、知り合いの姿がどこにもなくて。不思議に思ってSNSを見たらみんなで海に行ってる写真があがってた。そういやすこし前に誘われていた気がする。諏訪隊は防衛任務だったからいけなくて断ったやつなんだけど。くやしい想いを指先に乗せて、そっといいねを押しました。

「もー、なんでー……」

 運がいいことで評判のわたしがなんでこんなにも不幸続きで嫌になる。もう神様に見放されてしまったとしか思えない。うう、ここまで続くとさすがのわたしもブルーな気持ちになってしまう。今日の星座占いは11位で、いっそのこと最下位にしてくれたらラッキーアイテムにプラスして開運のおまじないも教えてくれるのに、一個前だから対策だってやりようがないじゃん。

 まあ、調子が悪い理由はそれだけじゃないって、わかっている。あたまの中がぐちゃぐちゃで、なにも考えられなくてぼうっとしてしまう理由はもう。


20 その双眼に揺れ動く


 あの時ばかりは自分の耳の良さを悔やんでしまった。

「好きだ、みのり」

 あの日以来ずっと脳裏に焼きつくその言葉を思い出して頭の奥がじんと熱くなる。荒船の優しいその声に脳が溶かされてしまったみたいに。
 思わず聞こえていないふりをしたけれど、それが正しかったのかわからない。
 荒船自身もまさか聞こえているとは思わなかったのだろう、あの後は特にいつもと変わった様子もなく無事に一日を終えたから。グリコゲームはしてくれなかったけれど帰りにコンビニでアイス買って帰ったし、いつもの日常と何一つ変わらなかった。

 好きと言われて最初は友達としての意味なんだろうと思ったよ。だってほら、一度は祭りを断られてる身だし。
 でもね、うん。あの日わたしの浴衣を見た反応も、手を繋いだ時に伝わってきた心音も、……な、名前呼びも。思い当たる節をひとつひとつがつながって、組み合わさった。その好き≠ヘ友達に対するそれではないことを。異性としての意味だということを。お馬鹿なわたしでも気づいてしまったから。

 もう、どうしたらいいんだろう。

 どんな顔をしたらいいのか、どんな話をしたらいいのか、わからなくなってしまったわたしはその日以来荒船に会ってない。というかどうにかして避けていると言ったほうが正しいのかもしれない。
 だってほら、いま彼に会ってしまったらわたしの考えてることや感情が荒船に届いてしまいそうで怖くて。うまく隠せる自信なんてこれっぽっちもなかった。戸惑いもこの妙な胸の高鳴りも全部、会って、顔を見るだけでぜんぶ溢れ出してしまいそうなんだもん。

 まあ、でも。いくら避けているとはいえ今週末にはまたB級ランク戦だってあるし、荒船隊と当たってなくたって画面を通して不調なわたしを見られてしまう。夏休みだって刻々と終わりに近づいてきているし、登校日だってあるんだからいつまでも悩んでなんていられないのだ。早く荒船対策法を練らなくては。できるなら今週のランク戦までには答えを出したい。
 『荒船 避け方』『荒船対策法』『荒船から逃げ切る方法』……携帯でぽちぽちと検索してみたけど、もちろん最適な回答が載っているわけがなくて。かといって、こんなの誰かに相談できるような話題ではない。だって、荒船にも悪いし……そもそもわたしの聞き間違いなのかもしれないし……それならわたし、かなり恥ずかしいやつなんじゃないか。

「あれ、中津ちゃん?」
「ひあ⁉」
「いやいや、そんな驚かなくても」
「わ、なんだ、犬飼か。びっくりした」

 結局解決策なんて見つからなくって、個人戦ブースでポツンと一人ソファに座って考え込んでいる時だった。どうしたものかとため息を零したのと同じタイミングで声をかけられ思わず変な声を漏らして飛び跳ねる。声の発信源の犬飼は驚いたように目を丸くしていた。
 きゅうりを見つけた猫みたいな動きしてたよ、なんて言ってわたしの横に腰掛ける犬飼。わたしの先程の動きが妙にツボに入ったのかお腹を抱えて笑い転げていた。そんな笑わないでよ! 急に話しかけられてびっくりしたんだから!
 しばらく笑っていた犬飼だが、落ち着いてきたのか息を整えつつわたしに話しかける。

「ていうか中津ちゃん一人でなにしてたの、こんなとこで」
「今日だれもいなくって、たそがれてた」
「ああ、そういやみんな海に行ってるんだっけ」
「そうなの! て、あれ、なんで犬飼は行ってないの?」
「えー、それ聞く?」
「まさか……誘われてないとか……⁉」
「違う違う。中津ちゃんと同じ理由だよ」

 防衛任務、とだけ言われてなるほどと納得した。犬飼だけ誘われてないとか悲しすぎる理由じゃなくてよかった。
いまわたしがこんなにも悩んでるのに今頃荒船は海で楽しんでいるんだろうなあと考えるとなんだか悔しい。でも、荒船って泳げないから海には入ってないのかも。とか。こんがり日焼けして帰ってくるのかなあとか。お土産あるかなとか。犬飼が隣にいるのに、考えてしまうのは荒船のことばかり。海には他の同い年メンバーもいってるはずなのに。穂刈でも、カゲでも当真でもいいはずなのに。

 よく考えたらいつもそうだった。日常のどこかで必ず荒船と繋がっていて、いつも荒船のことばかり考えてしまっていて。彼との距離の近さを改めて感じた。

「犬飼は受験どうするの? ボーダー推薦?」
「さあ、どうだろうね」
「はぐらかした!」
「中津ちゃんは推薦でしょ」
「うん。小論文の練習しなきゃ」

 違うことを考えたくて、犬飼に話をふった。犬飼とは気軽に学校の話もできるからたのしい。あーあ、学校始まったらまた難しいテストもあるだろうし、模試もあるし、授業もどんどん難しくなるんだろうなあ。想像しただけで憂鬱な気持ちになる。

「推薦だけど、たっぷり宿題はあるよ」
「そりゃあね。やってるの?」
「やってない!」
「うわー。怒られるんじゃない、荒船に」

 あらふね。不意打ちのその単語で、ぼふっと顔が赤くなった気がした。完全に気を抜いていた。やばい。犬飼に見つからないよう隠すように横を向いてみたけれど、どうやら遅かったようで。
 その顔どうしたの。すぐに顔を覗き込まれた。

「耳まで真っ赤っか。そんな照れるようなこと言ってないはずなんだけど?」
「やっぱ赤い⁉ ちょ、ちょっといまこっち見ないで犬飼!」

 ぎゃあ、見られてしまった! 慌てて両手で顔を隠してみたけれど、もう見られてしまっているから隠したって意味ないのに。

「えー、なになになんで顔赤くしてるの、澄晴くん気になるー」
「なにそのノリー! やだってば、こっち見ないでって、」
「ね。……ほんと、どうしたの? その顔」
「え、」

 けたけたと楽しそうにしていたのに、突然低くなった犬飼の声にドクンと胸が弾む。気になって力を緩めた途端に顔を覆っていた手を犬飼に掴まれ、ぐいっと剥がされて。

「犬飼?」

 僅かに開いた隙間から鋭い視線が覗いたから驚いた。口元は笑顔なのに、目はまったく笑っていなくって。なにか返さなくてはと思うものの、なにも言えなくて。犬飼の緑の瞳に縛り付けられたように身体が動かなかったのだ。その場に暫く沈黙が流れた。それは数秒程度だったのかもしれないが、どうにも長く感じてしまう。
 どうしたの≠ヘこっちの台詞だよ。犬飼の怒っているような、寂しげな、不思議な感情が滲むその瞳に、その表情に。わずかに恐怖を抱いてしまう。

 そんな中、沈黙を遮ったのはわたしのポケットから鳴った携帯で。メッセージアプリの通知音だった。少し間を開けてからポンともう一度通知を知らせる。その音と同時に離された手首に余韻のように彼の熱が残った。

「ごめん怖がらせちゃった」
「……びっくりした」
「あはは、ごめんごめん。で、誰からなの、それ」
「え、えっと、あ。……荒船だ」

 ドクドクと未だ落ち着かない心臓の音を響かせながら携帯を開いて確認すればメッセージは荒船からだった。内容はあの日のこととは全く別件で。いろいろ書いてはあったけど、要約すれば課題ちゃんとやれよといった類のものだった。おまけに海の写真も添付されている。二度目に鳴ったものはこの写真のものだろう。一瞬送るのをためらったのかもしれない。

 ほらと画面を開いて犬飼に見せてやれば荒船らしいねと笑う。その笑顔はわたしのよく知るもので、安心した。

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