「だから言っただろがこまめにやっとけよって」
「本当に申し訳ございません荒船先生」

 荒船隊作戦室にて大量の問題集が山積みになっている。
 それらを凝視するわたしと腕を組み眉間をピクピクとさせお怒りの荒船様。
 これはどういう状況なのか、なぜ荒船がこんなにもお怒りになられているのか、勘のいい方はもうすでにお気づきになられているかと思いますが、その通りです。全ての元凶は目の前にあるわたしが手をつけてこなかった夏休みの課題の山々にございます。
 何度も何度も何度も荒船に課題はやったか? 終わりそうか? と聞かれていたのに今日の分はやったよだとかへーきへーき大丈夫と適当に答えていたら、気づいたら夏休みの終わりが近くなっていて。流石にそろそろやり始めなければやばいのではと危機感を感じ、課題の封印を解いたところ想像以上に残っていて絶望したというわけでございます。
 やばいやばいと手を付けるもののやはり進学校なので問題集の難易度があまりに高く、一問に時間がかかりすぎて。これでは課題が一生終わらなさそうなので怒られるのを覚悟に荒船先生に助けを求めにいったわけです。そして冒頭に至る。

「うわーん! まさかこんなに多いなんて思わないじゃん! 三年生だよわたしたち!」
「去年に比べたら少ねえだろ」
「そうだけど! だからまだ大丈夫だと思って放置しすぎたの!」
「開き直んな!全面的にお前が悪いじゃねーか」
「うう……反省してるので助けて荒船」
「……本当に反省してんだな?」
「超してる」
「仕方ねえな。教えてやるからペン持て」
「神様……! もうこれから神様って呼ばせていただきます!」
「おう。何の神だ?」
「あらふねてつ神」
「張り倒すぞ」

 こんなやりとりばかりをしているけれど、わたしたちは恋人同士である。


24 君の距離まであと、


 なんだかんだ付き合ってから一週間ほどが経過してるけれど特に大きな変化もなく、ありがたいことに平和な日々を送らせていただいている。付き合ってすぐは噂を聞いた多くの人に祝福されたりからかわれたり驚かれたりしたけれど、でもそれも一瞬で。人の噂もなんとやらっていうけれど、本当にその通りだなあと思った。
 いつものように荒船隊室に我が物顔で入り浸り映画を観たり、荒船と一緒に穂刈のトレーニング論を気まぐれで受けてみたり。おかげでちょっと腕がムキっとしてきた気がする。荒船と穂刈にわたしの自慢の力こぶを見せつけてやったら、ちくわじゃねーかて言われたけど。中身空洞じゃないし詰まってるし。ムキムキだし。

 恋人同士になったのだから、こう、少しくらい甘やかな雰囲気になってもいいんじゃないかなあって思うのだけれど、今までの関係を変えるのってなかなか難しくって。結局いつも通りになっていたりする。
 まあ、でも。そんな本当に何も変わらない日常の中でも変わったものもある。

「みのり」

 それはこんな風にたまに荒船に名前で呼ばれるようになったこと。
 まだちょっと恥ずかしくてびっくりしちゃうから、少しずつだけれど。……いつか慣れる日がくるのかなあ、なんて。
 課題を進める腕を止めて「なにー?」と顔をあげたら荒船の腕がわたしの顔に伸びてそのまま頬を摘まれた。きっと漫画だったらむにっという効果音がついていたと思う。
 荒船の手はすこしヒヤリとしていて気持ちよかった。

「はは、よく伸びるな」
「自慢のほっぺただよ! ライバルはトルコ風なんとかです」
「アイスな。あれみのりの50倍くらい伸びるぜ」
「トルコさん思ったよりも強敵だった」
「なんだよ人の名前みたいに……、おまえ」

 言ってからなにかに気づいたようにわたしの顔を覗き込んだ。

「よく見ればクマ出来てんじゃねーか。昨日遅くまでやってたのか?」
「あー、うん。昨日頑張ってた!」
「偉いな。すぐに人を頼らないで一度は自分でやろうとするところは褒めてやる」
「へへ、やったー。まあ結局できなくて荒船頼りにきてるんだけど」

 こうやって荒船のいいところがあればきちんと褒めてくれるところがわたしは好きだ。
 飴と鞭の使い方がとても上手いから、褒められるたびにもうちょっと頑張ろうかなと思っちゃう。もちろん悪いところがあればとことん怒るし、鬼のごとくご指導いただくこともあるけれど。まあそれも荒船の魅力のひとつである。


「あれ、お二人さんデート?」
「当真……見たら分かんだろが、中津の課題見てやってんだよ」

 隊室の前を通りかかった当真がひゅうと口笛を吹きながら茶化しに入ってきた。当真の問いかけに荒船が呆れたように言い返す。
 わたしの手元を覗き込んでは「ああ、毎年の恒例行事か」と当真が笑った。

「当真だって毎年この時期に死んでるのになんで今年はそんなに元気そうなの」
「うちは課題無しだからなー」
「えっ……第一高校課題ないのずるくない?」
「ずるくねーよ、つーか三年にもなって夏季課題ある方が変わってんじゃね。受験生もいるのによ」
「やっぱりうちが変だよね! これは由々しき問題だよ、先生に抗議せねばならん……」
「課題残してたら言い訳にしかなんねーよ」
「うぐ」
「うちはうち、よそはよそだ。文句言ってねえで手動かせ」
「はあい……」

 おとなしくペンを持って課題に取り組む。そんなわたしたちの様子を見て当真はけらけらと笑いながら「お前らなんにも変わんねえな」と言った。

 荒船が目の前で見張っててサボる隙がまったくないので、驚異的なスピードで問題が進んでいって。気がついたら問題集の半分くらいは進んでいた。やっぱり一人でやるより誰かと一緒の方が効率がいいなと思った。
 当真はしばらくわたしが課題に取り組む姿を眺めていたが、すぐに飽きたのか「邪魔虫は消えるぜ」とすぐに作戦室から出て行った。あまり長く居座らずすぐに去っていったから、もしたらわたしが苦しんでるという情報をどこからか聞きつけて、偶然前を通りかかった風を装って自身の余裕っぷりを見せつけにきたのかもしれない。毎年の仲間だと思ってたのに!

 カリカリと文字を書く音と、時計の音が作戦室に響く。ふと目の前を見ると肘をついてこちらを見る荒船と目があって。荒船に勉強を見てもらうことなんて慣れっこのはずなのに、なんだか急に照れくさく感じてすぐに目を逸らしてしまった。
 だって、だってさ、よく考えたら当真が言っていた通りこれもデートになるのではないかと思ってしまったから。まあボーダー内だし、甘い雰囲気のひとつもないのだけれど。

 でも、ふたりっきりには違いがないから。

 ぜんぶ当真が変なこと言うからだ。さっきまで落ち着いて問題が解けていたのに、この静けさが今度はなんだかむず痒く感じてしまう。
 勉強に集中しなきゃとノートを見るものの荒船が見てると思ったらうまく集中できなくて。字汚いって思われてないかな、とか。ペンの持ち方おかしくないかな。なんて、いままで思わなかったことまで考えてしまうから困ってしまう。これも恋の力なのだろうか。……なんだか、おかしくなってしまったみたい。いままで平気だったのに。
 そんなわたしに向けて荒船の手がまた伸びて、そのまま横髪をさらりと耳にかけた。変に緊張していたからか驚いてわあっと口に出してしまった。恐る恐る荒船の方に顔を向ける。

「目に入るだろ、かけとけ」
「わ、あ、ありがと」
「ああ。……何かわからねえ問題でもあるのか? 手が止まってるじゃねえか」
「わからない、というか」

 荒船に見られてるって思うとなんか急に緊張しちゃって、と思っていたことを正直に荒船に言う。荒船は一瞬驚いたようにぽかんとした表情を浮かべたけれど、すぐに面白いものを見つけたような愉しげな口の端を持ち上げた。

「こんなことで緊張してるようじゃ、この先持たねえだろ」
「こ、この先って! なに!」
「さぁなんだろうな」

 興味があるならしてみるか? なんて、そんなこと言われてもう限界。ほてったようにじんわりと顔が熱くなる。
 席を立ってこっちに寄ってくる荒船に、わたしは固まることしかできなくて。あわあわと内心大慌て。この先って、なに。ああ、どうしよう。どうしよう。どうしよう!
 目の前に立った荒船がわたしの名前を呼んで頬に手をかける。
横髪をさらりと指で弄んでからまた耳にかけ、そのまま首筋に指を下ろした。

「ひゃ……」
「顔真っ赤。なに想像してんだよ」
「だ、だって荒船が変なこと言うから……!」

 さっと目を逸らして、拗ねたように頬をふくらます。

「興味はあるけど、でも、か、課題しなきゃだから」
「ずっと手動かしっぱなしだろ、そろそろ休憩挟んでもだれも叱らねえよ」
「普段は休憩なんてぜんぜんさせてくれないのに!」
「なんだ、したくねえなら無理強いはしないが」
「え」
「みのりの意欲があるうちに課題を進めておいたほうがいいかもしれねえしな」

 元の位置に戻ろうと背を向ける荒船。
 まって、そんなのずるい。
 わたしがなんて答えるか、荒船ならわかっているはずなのに。きっとわたしに言わせようとしてるんだ。いじわる。ばか。
 こわいからって逃げることは簡単だ。きっと嫌だと言えば荒船はすぐに手を引くだろう。
 でも、……興味あるのは確かだから。

 まってと黒の隊服を掴んで引き止めたら、緊張と恥じらいで胸のあたりがぶわっとあつくなった。

「休憩、したい」

荒船にしか聞こえないほどの小さな音量で口にすれば、ふ、と荒船は満足気に笑う。

「よくできました」
「……あらふね、いじわるだ」
「お前にだけだから許せ」

 ぽんぽんと二回頭をやさしく叩いて、それからゆるりと髪をかき混ぜた。

「他の子にもやってたら、それはそれで怒るよ」
「言うようになったじゃねえか」
「かのじょだもん」
「そうだな」

 この特権だけはだれにも譲るつもりはない。やさしくて温かい荒船のてのひらはわたしだけのものだから。
 扉は閉まっているけれど鍵はかかっていない。だから外から簡単に人が入ってこれる。さっきの当真のように誰かが入ってきたらどうするつもりなんだ。……なんてこと、もう言えなかった。余計な言葉はもういらないから。
 もうこのまま荒船に身を預けてしまおう。
 緊張と恥じらいが滲んだ瞳を隠すように、静かにそっと目を閉じた。

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