これは彼がヴィランになるずっとずっと前の話。
朝からバタバタと忙しない足音。
昨日は遅くまで起きていて、こちらはまだ眠いのに。
けして聞こえることの無い大きなため息は、広い部屋に消えていった。
布団を頭まで被り直せば部屋をノックされた。
「お嬢様、そろそろ起きて頂かないと」
「…。」
「お嬢様っ!」
「っ!あぁ、もう!うるさいなぁ!」
布団を乱暴に剥いで大声で怒鳴り散らせば、起きたのを確認した使用人が再び廊下を走った。
確か今日は、お兄様の誕生日パーティーだ。
朝から忙しないとは言ったが、実際は数週間前からだ。
日本国内でも三本の指に入るほどの大富豪、それが私の父。
彼の一言で経済が簡単に動いてしまうほどの人物らしい。
優しくて美人な母は、かつて日本中を湧かせた大女優らしい。
当時のことは昔の映像でしか知らないし、父のマシンガントークが止まらなくなるから自ら聞こうとは思わない。
そして本日のパーティーの主役の兄。
昔から私のことを貶し優位に立ってきた、とても性格の悪い兄だ。
父と母は私のことを大事にしてきたつもりだろうが、口の上手い兄のせいで何度も嫌な思いをしてきた。
大人になるにつれ兄は地位と名声にしがみつき、私は普通への憧れに惹かれていった。
外の世界を一切知らない私は、兄の束縛によって狭くて広いこの屋敷に閉じ込められた。
(私が普通の学校へ行きたいと話した時もそうだ…)
両手を広げ着付けをされる姿は、まさに着せ替え人形そのものだ。
キツく締め付けあげられたコルセットのうえから、淡いピンクのドレスを腕に通す。
(このドレスだってそう。私が着たかったのは真っ赤なドレス。俺が霞む、その一言で用意されたこのドレス)
思い出すだけでムカムカとする胃を抑えながらため息をつけば、使用人が心配そうにこちらを見た。
彼女達に発言権がないのはわかっているが、そんな視線ですら私にとっては苛つく原因の一つなのだ。
(兄がイカレてる。その一言でさえ誰も同意してくれない)
ノックの音もせず部屋のドアが開かれた。
まだドレスが仕上がってもいないのに、こんなことをするのは1人しかいない。
「いいじゃん、そのドレス。引き立て役にはぴったりだな」
「……ノックぐらいしたら?どんなに着飾ってもマナーが無いんじゃどこのご令嬢も貰ってはくれないわよ」
「お、お嬢様っ!」
「チッ。可愛くねぇ妹。僻むのはいいけど、その不細工な顔直してからこいよ」
乱暴に閉められたドアに静まり返る使用人達。
チラリと鏡を見れば、彼の言うとおり。
淡いピンクのドレスを着た私は、眉間に皺を寄せ酷く醜い顔をしていた。
*
パーティーは始まり、大勢の招待客が集まった。
兄の機嫌を損なわぬよう、私も笑顔を振りまいた。
仲の良い兄弟を演じれば父母も喜んだし、周りの人間が素晴らしいと手を叩いた。
引き攣る頬を酷使しながら、ふと一人の人物が目に付いた。
ハットを被った長身の男。
オレンジのシャツに首元の綺麗な緑のループタイ。
何よりも目立つのは白黒の仮面。
「ねぇ、あの人は誰?」
近くの使用人にコソリと話しかければ、困ったように首を傾げた。
他の客のように挨拶しに来ることも無ければ、特に目立つ動きをする訳でもない。
そもそもアレは人間なのだろうか。
表情も見えないし、人間の肌色の部分がひとつも無い。
不思議に思ったが、次々に訪れる客の対応に追われ目で追うことが出来なくなってしまった。
暫くすると各々パーティーを楽しむ流れになり、幸いにも兄は着替えに戻った。
監視する兄がいなくなったことに緊張が切れると、どっと疲れが押し寄せた。
「…はぁ…」
「大丈夫ですか?暫くこちらにお座りになって下さい」
「ありがとう…」
使用人に差し出された椅子に浅く腰かけた。
綺麗に広がるドレスが邪魔してまともに座れない。
締め付けられたウェストのせいで、食べ物も受け付けない。
再び大きなため息が出そうになった所で、目の前に差し出されたのは一枚のカード。
ビックリしてそちらを振り向けば、先程の仮面の人物が立っていた。
何も発する事ない彼が、目の前に差し出したカードを指さした。
恐る恐るカードを受け取ろうと手を差し伸べれば、あろう事かカードは綺麗な花束へと変身した。
「っ!!これを私に…?」
そう問えば、仮面がコクリと頷いた。
「ありがとう。素敵なマジックね」
花束を抱きしめるように受け取ると、今日初めての笑顔が零れた。
帽子を手に取ると、胸元に当ててお辞儀をした。
昔に見た映画の様なワンシーンに、彼への興味が沸いた。
が、大嫌いな兄の声で我に返った。
「お集まりのみなさま」
慌てた使用人が後ろに着くと、綺麗なスカートを引きずって兄の元へと急いだ。
もう少し彼と話したかったのに。
正確に言うと会話は成立してないが、彼の見た目とキザなマジックに、すでに私は虜にされていたのかもしれない。
兄のスピーチもそっちのけで、少し高いステージから彼を探した。
先程の場所には居らず、キョロキョロと見渡せば端の方へと立っていた。
壁に少し寄りかかるように立つ彼と、目が合った気がする。
彼への期待と、私の気持ちを込めてウィンクをした。
仮面をしている彼がこちらを見ているなんて確証も無いが、会話をするには遠すぎる。
もし彼が答えてくれたなら、退屈な今日が少しでもいい日だと思えるかもしれない。
すると彼が、少しだけ仮面をズラしすと口元に指先を添えて私に向けた。
チラリと少しだけ見えた口元も、キスを投げる長い指も。
パーティーを終えた後もまだ、私を悩ませた。
*
コルセットから解放され、空腹だった胃も。
大嫌いな兄の隣で愛想笑いを続けた頬も。
彼の存在のせいで何も手につかなかった。
出るのはため息ばかりで、頭を支配するのは彼のことばかり。
名前は、声色は、目の色は。
もう二度と会えないだろう彼を思ってシーツを手繰り寄せた。
いつの間にか開いている窓のレースが揺れた。
静まり返る部屋に、コツンの響いた靴の爪先。
ベッドからゆっくり起き上がると、小さく呟いた。
「…誰?」
月夜に照らされたシルエットに、心臓がドキリと跳ねる。
「やぁ、こんばんわ」
子宮に響くような低い声に、鳥肌が立った。
「女性がこんな時間まで起きてたらダメだよ」
そう言って一歩一歩近づく彼が、ベッドの近くまで歩み寄った。
「貴方のことが頭から離れなくて、眠れないの」
乱れたシーツを掴んだ私をみて、仮面越しに薄く笑った気がした。
「それはイケない子だね」
ベッドの縁に座った彼が、長い足を組み替える。
私の伸ばした手が彼の帽子を手に取り、仮面に手をかけた。
彼の手が優しく私の手を掴むと、それを阻止した。
「…見せてくれないの?」
「見せたら君を殺してしまわないといけないんだ」
「殺してもいいわ。その代わり、顔を見せて……キスして欲しいの」
そう言うと彼が仮面を取り、私に口付けた。
触れるだけのキスは、次第に大人のキスへと変わっていった。
初めての行為に目眩がするが、必死で舌を絡めた。
息する間もなく、彼の手がまとわりついたシーツを剥がしていく。
厭らしく濡れた私の姿を前にして、嬉しそうに舌なめずりをした。
その仕草でさえ私の感情を高ぶらせることを、彼は知っているようだ。
「殺すのは勿体ないね」
首筋に舌を這わせ、彼が吐息混じりにそう言った。
「…っん…ねぇ、連れて行って……このままだと、退屈で死んでしまうわ」
彼の頬に手を添えて見上げれば、目を細めて嬉しそうに笑った。
「なんなりとお嬢様」