体育祭では毎年、保健委員が救護係を任されることを伝えられたのが一週間前。
当日の体育祭の日は本当に晴れるのか、なんて思ってしまうほど、雨の強い一日だった。
わあっ、と待機席から歓声が上がる。
一週間前では考えられないような、からりと晴れた晴天だ。お天気お姉さんの情報によると、この快晴は今日一日続くらしい。高い気温は変わらないけど、蒸し暑さは軽くなったんじゃないかと思う。
昼休憩を挟んで体力を回復した生徒たちによって、体育祭は昼前を超える盛り上がりを見せている。
午前中は生徒全員が参加する競技が多くて、静かに自席に座っている生徒がほとんど。一方午後は、それぞれ選ばれた生徒が活躍するものが多いから、そのぶん競いかたも激しいくなって、見ている側も熱くなる。
俺は選ばれる側ではなかったから、走っている選手を眺めながら、やべー、はやーいとのんびり感想をもらすだけだ。
救護係は、それぞれの競技に出ることがない時間帯に、交代で行うことになっている。だから午後の前半がほとんど空いている俺が、昼休憩後から4種目分を担当することになっていた。救護テントに来た生徒に、椅子や保冷剤を渡したり、校内にある体育祭用の臨時保健室に連れて行ったりする仕事を任されている。
テントは日陰に設置されているから、応援席よりかははるかに快適で、これを考えると保健委員でよかったと思う。
ドフラミンゴ先生は何もなければのんびりと観戦しているけど、けが人がくれば手早くぱぱーっと手当してしまう。
そうだ、この人は保健医だったなぁなんて、失礼だけど思ってしまった。見た目だけ見ると保健医には到底見えないし、普段の保健室なんてあんまり知らないし。質の悪そうな笑顔も、そう思ってしまう理由の一つかもしれなかった。
「盛り上がってんな、部活対抗リレー」
「ですね!ほぼ運動部の独壇場ですけど……文化部は文化部でネタに走ってるし」
ドフラミンゴ先生の話にうなずきながら、ぐんぐんと選手を抜き去っていく野球部のエースに視線が向かう。ちょうど三人を抜き去ったところだ。どうやらこのレース、サッカー部エースと野球部エースの競い合いになるみたいだ。
今は手が空いていたから、ドフラミンゴ先生に少し見やすい場所に行ってきてもいいですかと聞けば、簡単に了承してくれた。その言葉にお礼を言って、見やすそうな場所を見つけてさあ行くぞと立ち上がる。するとぐわんと視界が回り、耳に栓をしたときみたいに音が聞き取りづらくなる。
痛いくらいに響いていた応援の声が膜を張ったようにこもっている。なのにざあざあという音がやたらとうるさい。
「う、え……」
視界がぐらつきしゃがみ込む。視界が揺れてかすんでいって、地面の砂が少しだけ見えた。
全身のだるさと吐き気に呼吸が浅くなっていく。パイプ椅子の脚をつかむ手から、力が抜けていくのがわかる。
「なまえ……?」
ドフラミンゴ先生の声はとても遠くから呼ばれたように聞こえて、返事をしようとしたけれど、揺れる足元を見ているしかなかった。
右手の指がぴくりと動いて目をひらく。
自分の部屋、じゃなくて学校か。
自室よりも広く閑散としているのを見て、まだ重さの残るまぶたを数回瞬いた。それと同時に、外からかすかに生徒たちの声が聞こえて、今日が体育祭であることを他人事のように思い返していた。
立ちくらみを起こして、ドフラミンゴ先生の声がして、誰かが支えてくれて、歩いて、飲み物を渡されて、飲んで、寝てなさいって言われて、寝た。
順番に記憶をたどって今の状況をつかむ。救護係なのに、救護される側になってしまった。
「救護係なのに救護されるとは、いい御身分だな」
「な、自分でいま反省してるんだから言わないでくださ、い、って……え、クロコダイル、せんせい?」
「あァ」
「な、んで……あ、俺が心配で様子見に来てくれた、とかですか!」
「午後からはみょうじみてェな、自分の体調の管理ができない生徒の面倒をここで見ることになってる」
「……あ、あー、そういうこと、なんです、ね」
窓際に立っているクロコダイル先生は、いかにも「あきれました」というような表情をしている。
さっき思い返した記憶の中には、「クロコダイル先生」なんて、声も姿もその文字すらなかったはずなのに。飲みものを渡してくれたのも、ベッドに寝かせてくれたのも、クロコダイル先生だったということなのだろうか。ベッドは案内されただけかもしれないけど、この部屋での記憶はクロコダイル先生が関わっている筈だった。
「ううううう……」
とても惜しいことをしてしまった。頭を抱えたいほどだったけど、できたのは恨みがましい唸り声を上げることだけだった。
「まだ具合が優れません、なんて言うんじゃねェぞ」
クロコダイル先生はそう言って、出入り口のほうにある長机に歩いていくので目で追っていると、紙コップを手にもって、俺が寝ているベッドのところに来てくれた。
「とりあえず、水分補給でもしておけ」
そういって差し出された紙コップの映像が、来たばかりのときに手渡されたものと全く同じだから泣きそうだ。本当にあれはクロコダイル先生だったんだ。
悔しさについ腹から絞り出したような声でありがとうございます、と呟き紙コップを受け取った。
まるで酒をあおるように柔らかなコップを傾けて、ぬるいスポーツドリンクを飲み干せば、いくらか気分も楽になったように感じる。
それにしても、本当にもったいないことをした。クロコダイル先生といるのにため息がでることなんて初めてだ。監視カメラでもあったら、ずっとずっと見ているのに。
「……っあ、く、クロコダイル先生!」
「なんだ……?」
「ちょっと俺が教室に来たとこからやり直しませんか!?」
「そんな元気があんなら早く戻れ」
「そ、そう言わずに!外から他の先生に支えられてきうわあごめんなさい戻ります!」
「支えられてきたところから」と言い切る前に、クロコダイル先生がベッドの脚をガツンと蹴ったのでもう謝るしかないのだった。
それでも俺はそんなクロコダイル先生に惚れているのだから、そこは俺にとってはプラスでしかない。
「面倒見てくれてありがとうございました!」
戻り際に伝えれば、クロコダイル先生の返事はそっけないもので、それがまた俺の中にポイント数として溜まっていった。これがいっぱい溜まったら、またクロコダイル先生に好きって伝えようと思っているんだ。