職場の友人に、休日であるにもかかわらず池袋に呼び出された。彼女の愚痴を聞いてほしいと飲みに誘われたのだ。
しかしその友人はといえば、俺が池袋についたと同時に『ごめん遅れる』とだけ連絡をよこすものだから手に負えない。
夜の駅前の人通りが煩わしく、少し歩いた先の公園にある、花壇の塀に腰を下ろし待つことにした。
歩道に面したその場所は、時折目の前を車や人が通り過ぎていく。
友人からの連絡が入り確認すれば、今から10分後の電車に乗るのだという。あと30分は待つのではないか。
ふと画面から顔を上げれば、少し歩いたところにある信号が青に切り替わり、歩行者たちが道路を歩いていた。
公園に沿った歩道に少しずつ人が流れていく。
目線を下にやれば、スニーカーや革靴、高いヒールが前を横切るのが分かった。
再び顔を上げてみれば、先ほどの信号は何度か点滅し赤に変わる。
携帯が小さく震え目線を移そうとしたとき、視界の端に感じた存在に思わず目をやった。
あ。
声にこそ出さないものの、もしかしたら目と口は大きく開かれていたかもしれない。
四木さんだ。
あの人は白いスーツなんて着ていただろうか。しかも俺がふだん着ているような、初めから値下げされたリクルートスーツとは違う。上等なものだ。記憶にない。記憶に無いからこそ煩わしい。
これは俺の知らない四木さんだ。
自分にヤクザは合っていないと気付くのが遅すぎた。
秀でた才能もなく、目立つことのなかった中学時代。高校でも同じだろうと進学すれば、なぜか仲良くなったのは派手な生徒達だった。
今思えば、俺が扱いやすい人間だったからだろう。
高校三年の冬、ゲームセンターの騒音の中。歩くときはグループのいつも一番前を歩いていた奴が言った。
「オレな、ヤクザになる」
続けざま、お前らも一緒にならないか、と尋ねられたグループの面々は、苦い顔をしていた。そこまで行くのか、と。
しかし俺だけは頷いていた。夜の街を臆することなく歩く自分が見えた。人より優位に立ちたかった。
家にいない日の方が多くなり、先頭を歩いていた彼とは並んで歩くようになった。
卒業式には出なかった。似合いもしない金色に頭を染めていたからだ。
二人並んで『粟楠会』に入る頃、家に帰るという概念が無くなった。十年経つが、未だ家には帰れない。
入ってすぐ、挨拶回りに行ったとき、四木さんに出会った。その時はまだ、あの人は暗い色のスーツを着ていたと思う。
話し方から粗暴の悪さが出ていた他の面々とは違い、四木さんには敬語で挨拶をすれば敬語で帰ってきたので、少し呆けてしまったのを覚えている。
あの人の使う敬語が好きだった。けれど、俺に向けられる言葉はほとんどが敬語を取り払ったものだった。入ったばかりの下っ端であれば、それが妥当であった。
一度だけ、四木さんの煙草を買いに行ったことがある。
直接言われたのではなく、先輩から。俺がお世話になっている先輩が、四木さんに世話になっていたのだ。
空き箱を投げ渡されコンビニに走れば、二十歳を迎える前であったが、案外簡単に四木さんのお気に入りを手に入れることができた。
その緩さに、ついもう一つ、自分用に同じ煙草を買った。しかしライターを持っていなかったので、組合の一室にあるコンロの火を借りこっそり吸った。ひと吸いで断念したそれは、自販機用のごみ箱にねじ込んで捨てた。
少しずつ、自分と周りにいる人たちの違いを感じるようになっていった。
暴力をふるえない。何かをするうえで、いつも足が竦み立ち尽くしている。犯罪すれすれ、または既に犯しているような状況下で笑うことができない。
元は言いたいことも言えず、冴えもしない人間だったのだ。当然のことだった。
こういう場所を抜けるには、それ相応の覚悟がいることも知っていた。けれどそれ以上に、抜けなければならないと思った。
伝える日は四木さんがいない日にした。あの人に見下げられるのが怖かった。
その日一日は最悪で、何年と経った今もなお、その一日を超える日は現れない。辞めてよかったと心底思う。
頭の中を、粟楠にいた何年かの記憶が猛スピードで流れて完結する。
俺がいたころとは違う。四木さんの服装も、隣を歩く人も、きっと立場だって変ってる。俺だって変った。
ただ、自分の知らない四木さんが確かにいることをさみしく思う。
いつの間にか四木さんは、もうあと数歩で俺の目の前に来る位置まで来ていて。目線を顔から肩の方へと静かにずらす。
四木さんが近づけば近づくほど、俺の目線は下へと移っていく。とうとう前を横切る頃には、先ほどと同じ足元にまで落ちていた。
白いスーツの裾と磨かれた革靴が目の前を通り過ぎたとき、不意にあの煙草の煙がその場に立つのを感じた。
後姿を見送りたい気持ちを押し殺し、うつむいたまま目を閉じる。
隣を歩いてみたかった。