鍵をもらってから2日経った木曜日の5限目。外はまだ明るい。
一週間前からお知らせが来ていた今日の一年生と三年生の保護者会は、変更することなく行われるらしい。
そのおかげで、二年生だけが他の学年よりも一時間早く帰れることになっている。
念のためと朝のホームルームの前に通りすがりの先生にドフラミンゴ先生の事を聞けば、今日は他の学校に行っているよと返された。今日はクロコダイル先生が代わりをしている筈だよ、なんて言葉も一緒に。
今日しかない。
ブレザーのポケットに手を突っ込む。保健室の鍵が入っていることを確かめて、強く強く握りしめた。
帰宅するにも部活に行くにも、通る生徒の少ない保健室の前の廊下は静かだ。
保健室の扉の小さなホワイトボードには、綺麗な字で「利用可能」とだけ書いてあった。一昨日のボードはもっと派手だったから、きっとこれを書いたのはドフラミンゴ先生じゃない。クロコダイル先生だ。
緊張から無意識に奥歯を噛み締めながら、ボードに書かれていた字を手早く指で拭き取った。
「失礼します。……なんか腕が痛いんで見てくれませんか?」
ドアを閉めるのと同時に、回すだけの内鍵を静かにしめる。もう保健室の外には鍵を持っている人なんて、ドフラミンゴ先生以外いないはずだからきっと誰にも邪魔されない。
事務机に向かっていたクロコダイル先生は、俺が近づくと読んでいた書類から目を離した。先生はジャケットを脱いだラフな格好で、そんな姿を見るのは初めてだ。
「……みょうじだったな。クラスまでは覚えちゃいねェから後は自分で書け」
そう言って手渡された保健室の来室表には、しっかりと俺の名字が記入されていた。現代文を選んで本当に良かった。
座ったままの先生に俺は立ったまま袖を捲って、まだ少し赤い一昨日の火傷の跡を見せる。
「なんの傷だ?」
「この前、火傷しちゃって」
俺の腕を掴むクロコダイル先生の右手は随分と大きくて骨張っている。
無意識に腕が震えてたみたいだ。先生が、傷跡から俺の顔に目線を移す。
椅子に座ったクロコダイル先生はこっちから見ると上目遣いになっていて、可愛くもなんともないところが好きだと思う。
このままじゃ足も震えそうな気がして、膝を折って今度は俺が下から見上げる体制になった。
「……ねえ、クロコダイル先生。俺、あなたが好きだ。ちゃんとそういう勉強もしてきたんだ。俺とイイコトしよ?……クロコダイルせんせ」
甘えたような声色で告げる。顔を見ていられなくて、目を逸らした。
「……物言いが下品で気に食わねェ。目上には敬語を使えクソガキ」
頭上から降ってきた冷たい声に思わず顔をあげると、クロコダイル先生の手が伸びてきてどきりとする。そのうちに先生のカサついた指先がオレの首筋をなぞり始めて、ぞわりと体が震えた。
「おれが気にいるような言葉で誘えたら、ご褒美くらいはくれてやる」
俺も悪い子供だけれど、この人も大概ではないのだろうか。
「……抱いてください、クロコダイル先生。……ってぎゃ!ちょ、痛い、クロコダイルせんせ、いたたたた!」
「一年の時に法律と言うものを教わらなかったか?」
俺の一世一代の大告白は届くはずもなく、クロコダイル先生に火傷の痕の上を強く掴まれたことで幕を閉じてしまったのだった。
ほぼ治りかけていたとはいえど、強く掴まれればさすがに痛い。と言うか、単純にクロコダイル先生の握力がおかしい。
一昨日から考えていた口説き文句を法律と言う言葉で一蹴されてしまった俺は、下を向いて黙り込むしかなかった。
既に離されているはずの腕がまだズキズキと痛い気がして涙が出てきそうになる。
「どうしてこんなことをした。唆したのはどうせドフラミンゴ辺りだろうが」
「……すみま、せん」
クロコダイル先生の声は冷たくて、どんな顔をしているのかが怖くて上を向けない。先生の話が頭の外で響いていて、頭の中ではいろんな感情がせめぎ合っている。
先生と生徒が恋愛に、まして男同士でなんて、やっぱりダメなことなんだろうか。
さっきまで心臓はどくどくとうるさい程に動いていたはずなのに、今は動いていないのではと思うほどに静かだ。耳の奥から血の流れる音だけが、ノイズのようにやけに大きく響いている。
「……嫌いになりますか、俺のこと」
「嫌悪感も動揺もありゃしねェ。てめェはしっかりと勉学に励め」
「そっかあ……」
俺は俺が思うよりも面倒臭い性格をしていたみたいで、動揺すらしていないと言う言葉に自分の顔が歪むのを感じた。
「どうすれば、動揺してくれますか」
「動揺もあるか。とりあえず、こういう関係には卒業が第一条件じゃねェか」
「……わかりました」
「なら結構」
「クロコダイル先生」
「なんだ」
「上手に言えたご褒美、まだ貰ってないです」
やっと上を向けば、眉間に深く皺を刻み、少し困ったような顔をした先生がいた。その顔で、今はこれでいやと思えた。
クロコダイル先生のご褒美は、毎週木曜日に保健室の係を手伝えというものだった。ただの雑用係だろう。告白が玉砕した俺にとって、なかなかつらいご褒美だ。
因みに、断るつもりだったならなんで告白にノるような素振りを見せたのかと聞けば、イタズラか本気かを確かめたかったのだという。
どっちだと思いますかと調子に乗れば、本気の癖にイタズラに仕立て上げようとするのは滑稽だとこれまた一蹴された。ちくしょう。
木曜日の保健室での出来事は、正直なかったことにしたかった。けれど実際そうされれば傷つくんだろう。
部屋のベッドの上で体を丸めれば、口からは小さな唸り声しか出てこなかった。
鍵は返そう。
そう決めて眠りに就いた。
翌日の金曜日、保健室から離れた階段をわざと選べば、ドフラミンゴ先生とすれ違った。そこで彼から、調子はどうだと声をかけられる。
クロコダイル先生からなんらかの文句を言われているはずのドフラミンゴ先生は、次はもっと上手くやれ、と変わらずに笑顔を向けててきたのだった。
その言葉に、制服のポケットに入ったままのあの鍵は返すことができなかった。
適度な会話と食事と睡眠を取っていれば、休日になるのも終わるのもあっという間だ。
新しい週が始まれば、校内で委員会の会議が行われた。
当然ながら保健委員は保健室で。
保健室に入るのは、例のクロコダイル先生との一件があって以来だった。
ポケットに手を入れて鍵を撫でる。保健室とか、クロコダイル先生とか、そういうワードに触れると、鍵の存在を確かめてしまう癖ができてしまった。
「お前らと違っておれは忙しいからちゃっちゃと決めて帰るぞ」
軽い挨拶を終えれば、ドフラミンゴ先生はホワイトボードに曜日を書き始める。
「月曜日から金曜日までのそれぞの曜日で業務を手伝うメンバーを決める。手伝いは軽い掃除とか、生徒に配るプリントをまとめるとか、まァそんなところだ」
そう言って話を区切ったドフラミンゴ先生は、各曜日の下に二人分の名前を書くスペースを書き終えたところだった。けれど木曜日だけはそのスペースが一人分だ。そしてその場所には既に俺の名前が書き込まれていた。
「木曜日はみょうじ既に立候補してやがるから、ここは埋める」
ドフラミンゴ先生がこっちを見て口角を上げるから、周りの人たちの目線も自然と俺に集まってしまう。あたかも、そうなんですというように曖昧に頷けば、視線はパラパラと散っていった。
クロコダイル先生から木曜日に手伝いに来るようにとは言われていたけど、まさか係として正式に決められるとは。
あの告白を皮切りに、突き放されてしまうなんてことが無かったことは喜ぶべきなんだろう。現にこうして側にいることも許してはくれている。
初めはいなかった立候補者も、ぽつぽつと上がり始めた声をきっかけに、その後はあっという間に空欄は埋まってしまった。
「先生、クロコダイル先生は何か言ってましたか?」
会議が終われば他の人たちは、部活だとか駅前のお店に寄って行こうだなんて話しながら、保健室を出て行った。先ほどまでのざわつきが無くなって、改めてここが保健室なんだと感じる。
ドフラミンゴ先生は、俺のことについてとは言わなくても分かってくれたみたいで、「お前のことか?」と返された。目線を合わせて一度頷く。
「特にねェな」
「そう、ですか」
木曜日のことが意思疎通が出来ていたみたいだから、少し期待してしまったみたいだ。
「まァ、みょうじのことを悪く言ったりとかもねェから大丈夫だろ」
気遣ってくれたのか、事実なのか簡単なフォローが入る。
「それだけで充分です」
へらっと笑って見せると、ドフラミンゴ先生はおかしそうに笑うのだった。そしてサングラスの奥で目を細めて、鞄を肩に背負った俺に、
「早くワニ野郎が未成年淫行罪で慌てふためくところが見てェ」
と言い放ってみせた。
ドフラミンゴ先生はクロコダイル先生と仲がいいのか悪いのかよくわからないな。