「ねぇ、クロコダイル。調子は?」
「…………」
返ってくるのは沈黙だけだった。
室内にいても聞こえてくる激しい雨音はまだしばらく収まりそうにない。時折強い風が吹いて家の窓をガタガタと揺らしている。
この地域には少し前から台風のシーズンが到来していた。
クロコダイルは昔から気圧の変化に弱い。そのうえ不眠症持ち。台風の日は最悪だ。酷い頭痛と怠さのせいで普段から眉間に寄せられた皺を一層深くして寝室に篭ってしまう。
そんなクロコダイルにベッドの上で抱きしめられながら、私はクロコダイルの静かな寝息と雨の音に耳を澄ませていた。
◇◇◇
クロコダイルと添い寝をするようになったのはおおよそ一年前のことだ。それ以前からクロコダイルとは知り合いだった。カウンセラーと患者の立場として。
ある日不眠の症状を訴えて私の所属する心療内科に来たクロコダイルは、少量の睡眠薬の投与と一緒にカウンセリングを受けることになった。そこで彼のカウンセリングを任されたのが私だった。
椅子に座り一定の距離をとって向き合ったクロコダイルから私に向けられる視線は信用の欠片もなくて、敵意すら感じた。
「運動はしてる?」
「食生活は?」
当たり障りない雑談に交えて聞いてはみたが、クロコダイルから返ってくるのは投げやりな返答だけだった。
「……少し寝ていく?」
「不眠症患者にかける言葉がそれか」
「まぁまぁ」
クロコダイルはカウンセリングルームに足を踏み入れてから終始訝しげだったが、私と話をしているより黙って横になっていたほうがいいと判断したのか素直に従った。部屋に置いてあるカウチソファに横たわったクロコダイルはすぐに目を閉じてしまって、私との対話を拒否していることを告げていた。
眠れなくても横になっているだけで少しは体も休まる。無理に会話をするよりはこのほうがいいだろうと私は離れた椅子に座って彼の診断書に目を通していたが、少し経って聞こえてきたのはクロコダイルのささやかな寝息だった。
クロコダイルのほうを見ると、その寝顔がとても綺麗だったから思わず触れてしまいたくなったのを覚えている。カウンセラーと患者の立場でそんなことをするのは勿論許される訳はなくて、私はカウンセリングの終了時間が近づくまで書類の整理を続けていた。
規定の時間が残り15分になったところでクロコダイルに声をかけると、目を覚ましたクロコダイルが驚いた顔でこっちを見てくるから少し笑ってしまった。
「眠る環境を変えてみるといいかも」
そう告げても、クロコダイルは尚も訝しげに私の顔を見てくるだけだった。
カウンセリングのたび、クロコダイルは部屋のソファで眠り、私は残っている仕事をするという日々が続いた。
それが半年ほど続いた頃、私はクロコダイルからある提案を受けた。
「なまえ、おれの家に来い」
「患者さんとカウンセリング以外での交友関係は持たない主義で」
「それならカウンセリングはやめる。薬もいらねェ」
「本気で言ってる?」
「色々と試したが、おれが上手く眠りに就けるのはお前といる時だけだ」
クロコダイルの色々と試した、というのは本当に色々だった。ある時にはカウンセリングルームにあるものと全く同じ環境を家に用意し、ある時には別のカウンセラーを転々とし、ある時には私から差し出される飲み物に薬が混ぜられているんじゃないかと怪しんで飲まなかった。そう告げられた。試した結果それは全て間違いで、自分が眠れるのは私といる時だと、そう考えたらしい。
ある日を境に、出したお茶を飲まなくなったのはそのせいか、と私は納得してしまった。
私は悩んだ。実を言うところ、クロコダイルに惹かれていたからだ。不眠を訴えるこの男が、私の傍では安心しきった顔つきで眠りに就く。それは私に優越感をもたらしたし、ほんの少しの愛情も芽生えさせた。
私は悩んだ末、カウンセラーと患者という立場をやめるというのを絶対条件に、クロコダイルに呼ばれた時に限り彼の家へ訪れる約束をした。
◇◇◇
「どこに行く」
「トイレ」
「……ここでしろ」
「それ本気で言ってる?」
腕の中から抜け出そうと身じろいだせいか目を覚ましたクロコダイルに片腕でベッドの中へと引き戻される。この男に左腕がないと知ったのは初めてカウンセリングをした時だった。特に気にすることでもない。欠けた部分があるからこそ人間は愛おしいのだ。
月に数回呼び出される程度だったこの関係は段々と呼び出される回数が多くなり、今ではほぼ同棲のようになってしまっている。それに甘んじている私も私だ。パーソナルスペースの広いこの人が身近な位置に私を置いている事実が私を嬉しくさせた。
「すぐ戻るから」
そうクロコダイルを説得して、黒い髪をあやすようにそっと撫でてからベッドを抜け出す。
クロコダイルとは時折、どちらからともなく触れ合う時があった。服を脱がし私の体に触れるその手つきは顔に似合わず優しくて、すっかり絆されてしまっているのを些か不安にも感じる。
用を足して手を洗い、寝室へ戻る前にお湯を沸かす。広々としたキッチンにも関わらず初めて来た時は生活感がまるでなかった。それも今では私が用意した調理器具や食料品が並んでいる。
もしもクロコダイルの不眠症が治れば、私は用済みになるのだろうか。ハーブティーをいれながら独りでにそう思った。
トレーにティーポットと二人分のカップを乗せてクロコダイルの元に戻ると、不機嫌そうにこっちを見てくる両目と視線が合った。
「遅ェ」
「お茶をいれたよ。少しは飲んだら?」
「…………」
無視をして飲む気はないと意思表示するクロコダイルに、小さく笑みを向けてサイドテーブルの上にトレーを置く。
「調子はどう?」
「頭が痛てェ、体も痛てェ、つまり最悪だ」
「……そう、かわいそうに」
ベッド際に近寄ると、思ってもないことを、とクロコダイルの両目が鋭く細められる。
機嫌をとるように再びベッドの上にあがると、すぐにクロコダイルの片腕が伸びてきて私の体を捕らえた。
「もうひと眠りしたら食事をとってね」
「起きたらな」
その言葉はクロコダイルにとって私がまだ彼の睡眠の手助けをしていることを意味していて、少し安心してしまう。
大きな体にそっと腕をまわして、抱いた背中をとんとんとゆったりとしたペースで優しく叩く。
「安心しておやすみ」
少し乱れた前髪を撫でて整えてから、さらりとした額にキスを落とした。