4月に入り本格的に授業が始まるこの時期、新入生獲得のため各サークルたちが勧誘活動を行うから、構内は文化祭のときに並んでにぎやかだ。一度手のひらを見せたら最後、本格的な部活動から活動目的のわからないサークルまで、大量のビラを受け取ることになる。実際、去年のわたしは初日からクリアファイルをパンパンにして帰ったのだけど、興味の湧く団体は見当たらなかったからその時間をアルバイトに費やしている。
通路をふさいだ人だかりをかき分けるように歩く。新入生のスピードで歩いていては講義に間に合わない。サークル勧誘の激戦地をくぐり抜け、大学内でもいちばん古い校舎を駆け上がった。たどり着いた4階の教室は席が半分ほど埋まっていて、各々談笑や読書に没頭している。
「おぉい、名字」
一番うしろの端っこ。やる気のない生徒が選びがちな席からのんきな声でわたしを呼ぶのは太刀川だった。
太刀川は大学に入ってからあご髭を生やし始めた。どうせ剃るのが面倒だとかくだらない理由だろうと思っていたが、訊けば「賢そうに見えるだろう」と想像以上に頭の悪い回答を貰ったのは記憶に新しい。
「おはよう。なんか久しぶりだね」
「春休みだったからな」
「そりゃそうだけど、最近あんまり連絡も取ってなかったから」
わたしたちふたりがよく連絡を取り合うのはとりわけ試験前で、これはもちろん太刀川から助けを求めてくるからなのだけど、その試験が終わってしまえばことのほか連絡することもない。かと思えば太刀川のほうから友人──おそらくボーダーの仲間たちとの楽しげな写真がいたずらに送られてくることや、それに応じてわたしも最近出会った野良猫の写真なんかを共有することもある。つかずはなれず、ほどよい友人関係を築いている。
けど、太刀川との連絡が途絶えることが何度かあった。決まって長期休暇のときで、しばらくすればその期間もなかったかのようにいつもどおりの返事がやってくる。詮索するつもりもないけど、彼の口からよく聞く「任務」というやつで忙しいのだろうとおもう。
「あぁ、そうだな、今回はちょっと忙しかった」
顎をつまむように似合わない髭を触りながら言う。わたしが返すことばを思いつく前に太刀川は猫みたいにおおきなあくびをした。
半分ほど開けられた窓から吹く風が太刀川のくせっ毛を揺らしている。その風に乗って机の上に桜の花びらが一枚滑り込んできて、わたしたちはそろって「あ」と言葉をこぼす。
「そういえば、今日花見があるんだった」
「え? 太刀川、サークルとか入ってないよね?」
「入ってるわけないだろ」
当然そんな話をどこかから聞いたこともないし、本人から聞くのはいつだってボーダーの話だ。
花びらをつまみあげて太刀川が言う。
「うちの高校生たちがやりたいらしくてな」
「あぁ、いつもの子たち」
その存在は覚えているし、会ったことのある子もいる。ひとりはふたつ年下の女の子で、同じ高校だったからだ。太刀川によくなついていて、一緒にいるわたしにもよく挨拶をしてくれた。確か名前は──
「くにちかちゃん、だっけ。元気?」
「おー、そうだな。最近は新作のゲームが忙しくて寝不足らしい」
それだったら元気と言って差し支えないだろう。
「お花見しなかったなぁ今年」
べつに毎年恒例というわけではないし、去年いろいろなサークルの新歓に参加してはわたしに合うのは花より団子だと実感していたけど、このにぎわいに参加しないのは日本人としてなんとなく損をしている気がしてしまうのはなぜか。そんなことを考えながら太刀川の指先でぶら下がる花びらを見ていた。
「名字も来るか?」
「……行くわけないじゃん」
すこし返事に迷ってしまったのは心惹かれたからか、それとも春を満喫している太刀川がうらやましかったからだろうか。
すべての授業が終わるころに店長から連絡があり、急に夕方からバイトへ行くことになった。なんでも、店の奥さんが腰を悪くして病院へ行かなければならないのだという。
駅から商店街への道には桜も咲いているし、ケーキ屋にもさくら味のケーキが並んでいる。思いのほか、私は十分に春を満喫しているのかもしれない……というのは、さすがに無理があるだろうか。
お花見なんて友人でも誘えばいいのだけど、太刀川のようにボーダーの隊員か、そのほかも多くがサークル活動に熱心で、例のごとくこの時期は忙しいらしかった。サークルの新歓に誘ってくれる友人もいるが、無関係なところに我が物顔で参加するほど私の肝は座っていない。
仕事の合間、ショーケースに並ぶ綺麗に着飾ったケーキたちをじいっと眺める。毎日見ていても飽きない、この最高の造形美──
おもわずうっとりする私の意識を現実へ引き戻したのは、けたたましい轟音と悲鳴だった。
立っていられない程ではないが足元が大きくぐらつく。地震だろうかと外に出て様子を伺い、全くそうではないことを知った。
鉄筋の建造物だろうが、それの力には敵わないらしい。なじみの店や商店街が崩れていく姿はどうにも現実味がなく慌ただしく走るひとを見送るばかりで、異変に気付いた店長が私の名前を何度も呼んでいる。
空にぽっかりと穴が開いて、異様な生物のようなものを吐き出す。この様子を間近で見るのは、何年も前のあの日以来だった。
ようやく状況を理解した身体が震え始める。あれ、近界民って、こんなに大きいんだっけ。こういうときにどう行動するべきか、わたしたちは学校で徹底的に教え込まれていた。でも、実際にその状況に置かれると人間の身体というのは動かないものだ。妙に冷静な頭がそんなことを考える。
商店街の吊り看板が立ちつくすわたしの目の前に落ちて、振動がびりびりと全身を伝った。その衝動に尻もちをついて目をぎゅっと閉じる。
走馬灯なんてよくわかんないけど、もし、いまここに、迅くんがいたら。どうしてか、わたしの脳内はそんな考えでいっぱいだった。ここで目が合ったあの日からずっと、迅くんが頭から離れない。きっと、彼がここにいれば──
瞬間、ひときわ大きな音が耳をつんざいて、コンクリートの塊が背中を叩く。げほ、と咳きこんだ拍子に喉の奥がヒュウと鳴った。あ、死ぬ。咄嗟にそんな思いがよぎる。数年前、なにが起きたのかわからないわたしたちはただ恐怖におののくだけだったけれど、あの惨状を一度経験した今、死というものが以前よりちかくにあって、どこかで覚悟のようなものがあるのかもしれない。
でも、その瞬間はこなかった。いくら待っても意識はあって、痛いのはコンクリートを受けた背中だけだ。幾分か呼吸の整ったわたしが目を開ける頃には辺りは怖いくらいに静まり返っていた。今見た光景すべて嘘だったんじゃないかとおもうくらいに。
現実だと知らせてくれたのは、聞き覚えのあるなつかしい声だった。
「名字先輩、大丈夫?」
わたしの目の前に立つ、その背中に見覚えがある。青の上着を羽織って、振り返ったその瞳はそれよりもっと透き通った青色をしている。
「……迅くん」
名前を呼ぶと振り返った迅くんは目を細めてすこし笑った。