03

 不幸中の幸いか、商店街での一件で命を落とすひとはいなかったらしい。次の日にわたしの病室へ訪れた迅くんがそう教えてくれた。ありがたいことにわたしの退院もすでに決まっていて、それでもまだ背中には大きな青あざと腫れが残っている。
 病室の壁ぎわに立てかけられたパイプ椅子を広げようとしたわたしに「いや、すぐに行くよ」と断りをいれてから要件だけを伝えると言葉のとおりすぐに去っていった。
「じゃあ、おだいじに」
 扉口でふり返って言ったセリフは言い慣れたように感じた。今日だけで何度口にしたのか、この後に何度言ってまわるのか。そうおもうとこれ以上引き止めるきもちにはならなかった。

「迅くんにお礼言っておいてよ」
「迅? なんで」
 向かいの席でいぶかしげな表情を浮かべる太刀川は一瞬宙をさまよったスプーンでカレーをすくって口に運んだ。食堂の本日のカレーはカツカレーだ。
「このあいだ商店街で助けてもらったの」
「あぁ、そういえばあれお前のバイト先だったか」
 あの一件はボーダー内でもすでに知れ渡っているらしい。すぐにピンときた太刀川が「わかった、言っとく」と咀嚼の合間に答えた。
「でも、自分で言えばいいのに。おまえ迅と仲よかっただろ」
「いや、べつに仲よくはないけど」
「そうか? よく喋ってただろ」
「太刀川が一緒だからだよ。そもそも連絡先も知らないし」
 太刀川は首を傾げ、いちばん大きなカツを頬張った。見ていてきもちいいほどの食べっぷりだ。それに対してなかなか手つかずのきつねうどんは目の前で湯気を立ち昇らせながら鎮座している。
 感謝ならこの間病室で告げた。わたしにとっての迅くんがたった唯一のヒーローでも、迅くんにとってわたしは多くの市民のうちのひとりでしかないのだ。
 そんなことを言うと太刀川はますます首を傾げて「そうかあ?」と気の抜けた声で言う。
「まあ、お前がそう言うなら俺から言っとくけど」
「うん。悪いけどお願いしていいかな」

 納得のいっていなさそうな太刀川に対して押し切るようにそんな会話をしたのも、気づけばもう半月も前になる。
 桜はすっかり散ってしまったし、サークル勧誘もずいぶん落ち着いて、大学構内はすっかり平静を取り戻していた。わたしの背中にあった大きな青あざもほとんど消えて、この間の病院での検査でついにめでたく問題なしの印をもらっている。
 ただ、商店街だけはいまだ混乱の中にあった。
 店長はわたしに対して「ごめんね」と謝った。店が形を失ってしまったいま、わたしを解雇するほかないからだ。バイトなんか探せばこの世にいくらでもある。でも彼らが一から作り上げた店は、もうどこにもないのに。わたしよりもよっぽど、苦しいに違いないはずだ。
 あの日から何度かここへ足を運んでいた。夕焼けを背景にした商店街の入り口に張り巡らされた立ち入り禁止のテープが、より一層ドラマの中の出来事のように思わせる。いつまでもこんなことをしていたって無駄だ。頭では理解しているのにこの景色を見ては立ちつくす。
 ずっと考えのまとまらないわたしの意識を引き戻すのは、やっぱり彼だった。
「あんまり近づくと危ないよ」
 背後からかけられた声に驚いて身体が大きく跳ねる。振り向かなくたってわかった。迅くんだ。認識すると鼓動もより一層はやくなる。どうして、と答えを見つけようとするわたしに構わず迅くんは歩みを進め、隣からこちらを覗き込む。
「名字先輩?」
 あぁ、またあの青色だ。思わずその顔を見上げて、ぎゅうっと心臓が掴まれたみたいに苦しくなった。眉根を寄せたわたしに迅くんはすこし困惑したような顔をした。
「一応ここから立ち入り禁止だし、まだ調査も完全に終わってないからさ」
「うん、ごめん」
「ううん、そりゃ気になるよね」
 何を言うでもなく隣にならんでいる。視界の端に、彼の青い上着が映り込んだまま。
「……迅くんは、」
「ん?」
「あ、えっと、わたしのこと、覚えてたんだなって」
 商店街でわたしを救ってくれたときも、病院に来てくれたときも、いまも。ごく自然に彼はわたしの名前を呼んだ。ただの一般市民でしかないわたしの名前を。
 彼の顔がこちらを向いたのがわかって、また一段と緊張してしまった。まごつくわたしは、彼の目にどう映っているだろう。
「あー、うん。まぁ、さすがに覚えてるよ」
 歯切れの悪い返事が意外だなとおもった。それから、それほど記憶に残るようなことを彼の前でしたことがあっただろうか、と記憶を辿るけれど、やっぱり太刀川とともに職員室前で会話をしたくらいしか大きなできごとはなかったようにおもう。いやでも、彼はあのときすでに──
「そうだ。太刀川さんからなんかお礼言われたんだけど」
「あ、うん。わたしがお願いして……まさか、また会うと思わなかったから」
「おれも、こうなるとはおもわなかったよ」
 妙に含みをもった言い方だった。おもわず彼の顔を見上げると、わたしを見ているはずの瞳がどこかもっと遠く深い場所を見ているみたいで、はじめて会った職員室の前を思い出す。彼のその視線にはやっぱりどうしてか緊張してしまって、その緊張をごまかすようにあわてて言葉を継いだ。
「それにしても、あのとき迅くんが来てくれてよかった」
 彼が駆けつけてくれなかったら商店街の建物だけじゃなく、亡くなるひとも多かっただろう。そしてきっと、その中にわたしもいたはずだ。
「そう言ってもらえると助かるけど、名字先輩にも怪我させちゃったからなぁ」
 申し訳なさそうに頭を掻く彼の表情は軽い口ぶりとは裏腹に真剣なものだった。
「迅くんのおかげで怪我で済んだんだよ」
「うーん、本当は怪我もさせるつもりなかったんだけど」
 わたしを助けてくれた彼に自責の念を抱かせたくない。そう思って口にしたけれど、その顔は陰りを残したまま崩れ落ちた商店街を見つめていた。
 病院へ見舞いに来てくれた彼を思い出す。あのときもこんな、すべての責任を負おうとするような面持ちをしていた。すべての責任が迅くんにあるだろうか? そんなわけはない。けれど、わたしには想像もつかないようなおおきなものを背負っているのだ、きっと。
「迅くん」
 おもわず名前を呼んでしまったその声は、自分でおもっていたよりも叫びにちかかった。目を丸くした迅くんが「びっくりした」と控えめに笑った。
「なに?」
 二の句を継げないでいるわたしに問う。ことばにしようとおもうのに、上手くできない。こちらへ向き直った迅くんは優しい瞳でわたしのことばを待っている。
「えっと、上手く言えないんだけど」
「うん」
「迅くんが助けに来てくれて、わたしはうれしかった。あのとき、死ぬのかもっておもったときにね、頭に浮かんだの。なんでかわかんないけど……いまここに、迅くんがいてくれたらって」
 誰か、じゃない。ましてや一番身近な存在の太刀川でもない。わたしがあのときここに来て助けてほしいと思ったのは──
「迅くんなら、絶対に助けてくれるっておもったの」
 たどたどしくゆっくり時間をかけてことばを紡ぐのを迅くんは黙って聞いていて、それから「うん」と小さく呟いた。
「おれが絶対に助けるよ、名字先輩のことは」
 やわらかく細められた目から視線が逸らせない。高校の職員室の前。初めて会ったあのときと同じように、心臓の拍動を数えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。
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