はじめは違和感ばかりだったそのひげ面も、1年間顔を合わせていればすっかり見慣れてしまうものだ。正面に座るおとこを見てそんなことをそんなことをおもった。ひげ面の太刀川はまた、週末締め切りのレポートに頭を抱えている。毎回巻き込まれるこちらの身にもなってほしいとおもいながら今回もこうして手を貸してしまっているのは、ちょうど太刀川に訊きたいことがあったから。
「迅くんって、なんでわたしのこと知ってたんだろ」
太刀川と一緒にいた高校の職員室前。はじめて会ったのはあのときだと記憶しているけど、思い返せばあのとき既に彼はわたしの名前を知っていた。
「太刀川と一緒にいること多かったからかな」
学食の喧騒の中、パソコンを前に難しい顔をした太刀川にはわたしの声が届いていないのか返事は来ない。
「ねえ、聞いてる?」
「なーこれってどうやったら英語打てるんだ?」
「聞いてないじゃん!」
テーブルを叩くように立ち上がるとようやく太刀川が「どうした?」とこちらを見た。
そもそも、大学生活も2年目だっていうのにどうしてそんな簡単な操作ができないんだろうか。わたし自身も太刀川を甘やかしすぎている自覚があるけれど、きっと彼の周りにいる他のひとたちもそうなんだろう。ジロリと睨めつけると太刀川はカラカラと笑って言う。
「ちゃんと聞いてるって。迅だろ? お、英語になった。なるほどこのボタンか」
「聞いてるなら返事してくれる?」
「んー、でもなあ」
なにを渋っているのか、背もたれに身を預けるとわざとらしくむずかしい顔をしている。
「課題手伝ってあげてるひとを無視してもいい理由があるならぜひ聞かせてほしいけど」
「いや、考えてんだよ」
「太刀川のくせに何を考えてるっていうの」
「おいおい、それは言いすぎだ」
変わらずあっけらかんと笑みを見せているのがまた憎たらしい。課題に向き合うのを諦めたのか、太刀川がノートパソコンを閉じて隣の席へ追いやった。
「なんでも、言っちゃいけないことがあるらしい」
「何それ、ボーダーの内情の話?」
「そうとも言えるかもしれん」
なにしろ特殊な組織だ。機密情報があることは確かだろうけど、今回の話とどう繋がっているのか、部外者のわたしには到底想像もつかない。もしかしてボーダーって、市民の情報を全て把握していたりするんだろうか? それはそれでちょっと怖いかも。
少し間を置いて「まぁ俺には関係ないしいいか」と伸びをしてから、テーブルに前のめりになっていたわたしとおなじように肘をついて距離を詰めてくる。正面からこの近さまで来られると少し驚くけれど「ここだけの話な」と言うから、まわりに聞かれたくない内緒話ということなんだろう。
「迅に口止めされてんだよ」
「迅くんに?」
「おう」
曰く、その口止め料としてボーダー本部内で隠れてきな粉餅を食べる手伝いをしてもらったのだという。あまりにも意味不明でくだらない対価だ。そもそも、きな粉餅を家の外で食べる機会なんてそうないだろうに、それをわざわざ隠れて……というところまで考え、きな粉をばら撒いて叱られている太刀川が想像できた。きっと前科があるにちがいない。
「つっても一年以上前の話だしな、もう時効だろ」
にんまりといたずらっぽく笑うのを見て、こんなダメな先輩に弱みを握られている迅くんが不憫になる。とはいえ、迅くんの秘密を知りたいというきもちがそれを上回るから、つまるところわたしも太刀川と同じダメで悪い先輩みたいだ。
ミステリアスな後輩の知らない一面を見てみたい。そんな好奇心に従ったことを後悔することになるとも知らず、太刀川に続きを促せばとんでもない爆弾がわたしに直撃した。
「迅のやつ、自分たちが付き合うことになりそうだからちょっかい出して邪魔すんなって」
「うん?」
自分たちって? わたしの問いに太刀川は「迅とおまえに決まってんだろ」と、何を言ってるんだと言わんばかりに大きな笑い声を上げた。
「……え?」
「まぁだから、なんで迅がお前の名前知ってるかっつーと、俺が教えたから、だな」
悪びれる様子もない太刀川はいつもののんびりした喋り方をもってわけのわからないことばかり言う。宇宙へ放り出されていた思考をたぐりよせて「ちょ、待って、ちょっと待って」とちかくにあった太刀川の腕をつかんだ。
「あの、全然意味わからないんだけど。わたしと迅くん、付き合ってないし」
「思ったより時間かかってんなぁ迅のやつ」
「いやいや、そうじゃなくて」
「でもまぁ迅がそう言うならそうなるだろ」
「本当にひとの話聞かないな!?」
動揺と太刀川への怒りでおもわず語気がつよくなる。ぜんぜん伝わってないみたいだけど。
太刀川がどれだけ迅くんに信頼を置いていようとこの問題にはわたしの意思も関わってくるわけで、いまのところわたしの中にそんな選択肢はこれっぽっちもなかった。当たり前だろう、彼は友人の後輩でしかなくて、高校を卒業してから一年以上会ってもいなかったんだから。
ひたすらに困惑の声を上げることしかできないわたしと能天気に笑う太刀川。偶然通りかかった加古ちゃんに「あら、名前ちゃんと太刀川くん……見ちゃいけないところ見ちゃったかしら?」と、掴んだままの腕を見ていらぬ誤解をされるまであと少し。
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ひとつ、ふたつ、みっつ。
自分の心音を数えたとき、迅くんはそれに合わせたみたいに「名字さん」とわたしの名前を呼んだ。少し違和感があったのは、いままで先輩と呼ばれてたのがそうじゃなくなっていたからだと気づいたのは、家に帰って眠りに就こうとするころだった。
「なに?」
「いや……とりあえず、名字さんが思ったより元気そうで安心したよ」
「ちょっと時間が経って頭の中が整理できたって感じかな」
ご心配おかけしました、と頭を下げると迅くんが眉を下げて微笑む。
本音を言うと、ぜんぶ迅くんのおかげだろうとおもっている。わたしがこうして生き延びたことも、これからも前向きに生きようとしていることも、ぜんぶ。迅くんがいたからこそつづく人生なんだ。
真っ赤な夕日が彼のかんばせを染め上げている。迅くんの青い瞳さえも燃えていて、さっきあれだけ合わせられなかった視線が今は逸らすことができなかった。
「名字さん、家どっち? 送ってくよ」
「えっ、いや、いいよ!」
迅くんからの申し出に慌てて首を振った。どうせ歩いて15分くらいだ。忙しい彼の手を煩わせるわけにはいかない。
そんなわたしの考えも見越してか、迅くんは言う。
「おれもこのあと家帰るだけだし、もうすぐに暗くなるよ」
迅くんの家と逆方向にならないか、と訊ねると「なんないよ。っていうか、普通に女の子ひとりで帰すわけにはいかないでしょ」と言う。そのセリフにひとたらし、という言葉が浮かぶ。
彼の言ったとおり夜の帳はすぐに降りてきた。警戒区域ちかくは街灯も多くない。商店街の一件もあってすこし恐怖心が残っていたけれど、隣に迅くんがいることのなんと心強いこと。
わたしたちの共通の話題といえばやっぱり太刀川で、ボーダー内での様子なんかを話してくれた。意外にも、太刀川はかなり強いらしい。迅くんも勝てないくらい? そう訊くと「今はどうかなぁ」と曖昧な返事だったから、やっぱりふたりはそれほど顔を合わせているわけじゃないんだろうか。
「本当にわざわざありがとうね」
自宅前で改めて感謝を告げると、迅くんはいつもの眠たげな目をゆるく細めて「どーいたしまして」と言った。玄関へ入ろうとしたその背後から「名字さん、おやすみ」と声をかけられて振り返ると、神出鬼没な迅くんの姿はもう見えなくなっていた。