05

 太刀川が変なことを言うから、あれからどうにも落ち着かない。時おり蘇る、迅くんの「名字さん、おやすみ」というやさしい声。そのたびにたしかめるまでもなく鼓動が大きくなって、あの深く青い瞳を思い出す。
 いっそのこと、迅くん本人にすべてを訊いてやりたいとおもった。太刀川が言ったことの真相、高校生だったあの頃の彼が考えていたこと。
 でも、あの日から迅くんはわたしの前に姿を現さなかった。だから結局、太刀川に訊ねるほかない。
「太刀川って、迅くんとよく会うの?」
 桜の咲いていたあの日からずっと、この講義では一番うしろの窓際がわたしたちの定位置になっている。陽射しは日に日に厳しくなっているが、それを背に受けた太刀川は日向ぼっこをするみたいに机の上に溶けていた。
「迅? そういや、最近会ってないな」
「おなじボーダーでもそういうもんなの?」
「あいつは特に、あんま本部に来ないからなぁ」
 まもなく講義が始まろうというのに、太刀川のまぶたは今にも上下がくっつきそうだ。陽だまりのなかでその癖っ毛が風にそよいでいて、その様子まで猫のように見える。
「迅くんっていつも忙しそう」
「まぁそうだな。なに企んでんのかは知らんが」
 妙な物言いを残してとうとう太刀川のまぶたは完全に閉じてしまった。どうやら今日もわたしがノートを貸してやるはめになりそうだ。
 始業チャイムの音と同時に入ってきた年配の男性教授は毎回すやすやと眠る太刀川を一瞥するが、とくに注意を受けたことは一度もない。そのうち、そのゆっくりと穏やかな喋り声に船を漕ぎ出す学生もたくさんいる。わたしも時おり睡魔に負けそうになることも多かったけれど、今日はいつもより目も頭も冴えていた。というより、睡魔に勝ってしまうほどに、わたしの頭の中は迅くんに支配されていたのだ。

 性懲りも無く商店街に足を運んだのは、ここなら迅くんに会えるかもしれないとおもったから。砂利っぽいアスファルトを歩いた先は、先日訪れたときとおなじく厳重な規制線が張られている。陽はすでに傾いていて、瓦礫の影が長く伸びていた。今日もすぐに夜になるだろう。
 当然、そこに迅くんはいなかった。何を期待していたのか、そう都合よくいくわけがないのに。自分の短絡的な考えにおもわず苦笑いがこぼれた。思惑は外れてしまったのだからもう家に帰ればいいのだけれど、どうにも胸がつかえていてそんな気分にはなれない。
 もしここに迅くんがいたとして、わたしは彼に何をどう訊ねることができるだろう。訊ねたとして、彼に何と言って欲しくてここまで来たんだろう。本当はわかっているような、このままわからないふりをしていたいような、こんなめちゃくちゃな感情を迅くんに暴いてほしいような、そんなきもち。
「……いやいや、アホらし」
 自戒を込め、嘲笑をもって声にする。もちろんそれはひとりごととして夕暮れに溶けて消えていった。改めて言葉にすると自分の突飛な行動が恥ずかしくてたまらない。
 おとなしく帰ろう。それが正しい選択だし、もとよりそれ以外の選択肢なんてないんだから。
 そう踵を返そうとしたとき、不意に背後から声がした。
「そこ立ち入り禁止っすよ」
「あ、すみません、……!」
 声も口調も迅くんとは全然ちがう。それでも息を呑んでしまったのは、振り返った瞬間に見慣れた青色が視界に飛び込んできたから。青のジャージを着た黒髪の青年は、ややもっさりとしているが、かなり整った顔立ちをしている。さっきの口ぶりに加えてこんなところに用事があるのを見ると、きっと彼もボーダーの隊員だろう。
「大丈夫すか」
「えっ、はい、すみません、すぐ帰ります」
 呆けたわたしにそう声をかけてくれるが、表情筋がぴくりとも動かないその顔つきは無としか言い表せない。迷惑をかけている。そうおもってそそくさ撤退しようとすると、「あ、待ってください」と呼び止められた。
「何でしょう……」
「いや、ひとりで帰すわけにはいかないので」
 真剣な顔つき、否、無の表情で彼は言う。
 ひとりで帰すわけにはいかない。というのは、やはりここが危険だからだろうか。それとも目を離した隙に立ち入り禁止区域に忍びこみそうだとでもおもわれているのか。
「すみません、そういう指示なんです」
 指示。きっとボーダーの偉いひとからそういう指示が出ているということだ。危険区域に近づいた民間人をひとりで帰すなという指示だろうか。それじゃああの日、迅くんがわたしを家まで送り届けてくれたのも、彼にとってはボーダーからの指示でしかなかったということだろう。それを、わたしは。
 顔から火が出そうなくらい恥ずかしくなった。いつも適当ででたらめばっかり言う太刀川の言葉を真に受けて、迅くんの言動になにか意味があるんじゃないかなんて勘繰って。
「……危ないところに近づいてしまってすみませんでした。でも、ひとりで帰らせてもらってもいいですか」
 目の奥があつい。目の前にいる彼の顔を見ることもできなかった。相変わらず無を貫く彼はしばらく黙り込んだのち「俺としては全然いいんすけど」と言って、顎に手を当てながら何やら悩んでいる。表情は無であるけど。
「なんか、ボーダーの決まり、みたいなのですか?」
「決まりってわけじゃないっすけど、今日はそういう指示なので」
「なんですかさっきから、その指示ってやつ」
 決まりごとでないなら放っておいてほしい。そんなきもちでつい語気が強くなって、いたたまれなくてついに俯いてしまった。
「詳しくは言えないすけど……」
 ボーダーお得意の機密か、と太刀川の胡散臭い顔を思い浮かべながらおもった。一段と泣きたいきもちになってそれ以上聞き質す気にもならない。
 そうしているとさすがの彼もやや戸惑ったような声で「あの」と声をかけてくる。
「迅さんと、知り合いっすか?」
 思いがけず聞こえたその名前に勢いよく顔を上げた拍子に膜を張っていた涙がぽろりとひとつぶこぼれ落ちた。
「あ」
 わたしと彼、ふたりぶんの声が重なった。すると彼の顔はさっきまで無だったとはおもえないほど、みるみる悲壮感を増していく。
「……すみません」
 謝ったのは彼のほうだった。
「泣かせるなとも言われてたんですけど」
「指示、ですか」
「はい」
 変な指示だとおもった。泣かせるな、なんて、こちらが悲しんだり苦しんだりすることがわかっているような言い方だ。
「……もしかして、迅くんが?」
 この問いはもはや祈りに近かった。迅くんなら、わたしがここに現れるということも、わたしが商店街のことが大好きだということも、だからこそこの惨状を見てどうおもうかも、全部わかっている。とはいえ毎日ここを訪れているわけでもないわたしのために、誰かを派遣するわけもない。だからこれはわたしの願いでしかなかったけど、わたしの胸の内の奥の奥まで見透かすようなあの視線が、もしかしてと期待させる。
「やっぱり知り合いなんすね」
「知り合い……そう、ですね。知り合い、です」
 わたしと迅くんの関係といえば、学校の先輩と後輩で、それ以上でも以下でもない。友人と言うにはおこがましくて、知り合いというのがいちばんしっくりくる。
 再び無の表情を取り戻した彼はそれ以上何も言わない。次のことばを選んでいるようだった。
 陽が沈んでいく。夕闇に飲まれていく空を目の前の彼越しにぼんやりと眺めていたら、あの日の迅くんが頭を埋め尽くしてまた少し泣きたくなった。
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