どこか急ぎ足になってしまうのは緊張しているせいか、それとも早く会いたいというきもちのせいか。理由はわかないけど、わたしの歩みはふだんよりいくぶんか急いていた。
大学構内の人混みをかきわけて歩くじぶんにデジャヴを感じる。あのときは講義の時間に間に合うことに必死だったが、いまはちがう。こころを踊らせるようなピンク色の桜たちもすっかり散ってしまったというのにわたしの足どりは軽やかで、ひさしぶりに履いたローヒールのミュールで軽快な音を鳴らしながら講義室へ飛びこんだ。
息を切らして座席に着いたわたしにめずらしく太刀川が目をまるくしていた。でもそれも一瞬のことで、あっという間にいつものにやけた顔に戻った太刀川は「そーかそーか」と訳知り顔で頷いている。
「なに」
できるだけにらみをきかせたつもりだが、まったく効き目はないみたいだ。太刀川の表情はこれっぽっちも変わらない。
「いや、おまえそんな服持ってたんだな」
頭のてっぺんからつま先までじっくりと見られるとどうもいたたまれない。太刀川が何をおもっているかなんてお見通しだ。なんでかって、わたしがいちばんわかっている。ちょっと浮かれすぎ。
このミュールも、それに合わせた春らしいワンピースも、丁寧にカールさせた毛先も、すべてがわたしの浮かれ具合をよく表している。
「もう好きなだけ笑ってよ」
「べつに笑わねーよ」
ことばのとおり、わたしを茶化すつもりはないらしい。ふたたびわたしをじっくりと眺めたあとで「似合ってんじゃねーの」と至極まじめに言い、その流れで「迅が好きそうなカッコだな」と余計なひとことをつけ足した。いや、この場合においては最上の褒めことばなのだろう。
それ以上わたしの服装に対しての興味もないらしく、頬杖をつきながら手の中のスマートフォンに視線を戻した。ぴこんと音を鳴らして届いたメッセージを見て愉快そうに声をあげて笑っている。少し開けた窓から流れてくる風にくせっ毛を揺らしながら。
待ち合わせは駅前だった。とんでもないことに大学まで迎えに行くよと言い出した迅くんをどうにか説得し、譲歩してもらった結果だ。といっても大学から駅なんてそれほど離れていないのだから、結局は彼の粘り勝ちである。
駅へ向かうまでもわたしの足はすこし焦っていて、足だけじゃなくて頭まで忙しなかった。足を動かすたびにひらひらとなびくスカートの裾を見ていると、やっぱりどうにも気合いが入りすぎているだろうとおもうけれど着替えるために自宅へ帰る時間などない。それから太刀川の言った「迅が好きそうなカッコ」ということばも気にしないようにすればするほど脳内を駆けめぐり、思考を振りはらうようにまた足どりは速くなる。
そうすれば当然というべきか、思っていたより早く駅に着いて、じわりと汗ばむのを落ち着かせようとまっすぐベンチを目指す。駅の裏側にあるおおきな植栽を囲うように丸く配置されたベンチは定番の待ち合わせスポットであり、わたしたちもそこに集まることになっている。
薄闇の中、街灯の白い光が目的地のベンチを照らしていて、その光の真下に彼はいた。
「名字さん」
ひらりと掲げた手をこちらに振るのは見まごうことなく迅くんそのひとだった。手を振られるまで気がつかなかったのはずっと続く焦りと、いつもの彼とちがって目の覚めるような青いジャケットを着ていなかったからだろう。
おもわず足を止めたわたしにやさしい笑みを浮かべたままの迅くんが首をかしげた。とっさに乱れた髪を整えてみるけどきっともう手遅れだ。わたしの心中などすぐに見透かしてしまう迅くんは喉を鳴らすように笑いながらわたしの目の前まで数歩の距離をゆったりと歩いてくる。
「なんかいつもと雰囲気ちがうね」
そう言って髪を梳くようにわたしの頭に触れた。
「わ、わたし汗かいてる……」
「うん、急いで来てくれたんだなーっておもった」
「迅くんがもういるとおもわなくて」
「名字さんが早く来る気がしたから」
まるで言い訳のようなことをこぼしても返ってくることばはわたしをひとつも責めやしなかった。どうしてと訊きたくなるほど迅くんの声と目線はやさしいけれど、それを訊ねる勇気がわたしにはない。
胸がむずかゆくて目を伏せると迅くんの履くスニーカーが視界に映った。迅くんもスニーカーとか履くんだな、なんて感想が頭をよぎって、ほんとうにわたしは彼のことをなにも知らないのだと驚く。だって、こんなにわたしの頭の中や胸をいっぱいにしているのに、なにも知らないなんておかしな話だ。
わたしよりもおおきな足をぼんやり見ていたら頭上から「名字さん」と呼ぶ声がして視線を上げる。
「お腹空いてる?」
「えっと、そんなに……」
「食べれないものとかは?」
「とくにない、かな」
食欲がないのは緊張しているからだけれど、そんなことを言えるはずもなかった。というか、わたし自身の都合にすぎない。
「あ、でも迅くんがお腹空いてるならぜんぜん、焼肉でもなんでも……!」
夕食どきがちかいのだから、男の子であれば大層お腹を空かせているにちがいない。そんなわたしの下手くそな気づかいに迅くんが笑って言う。
「そんなとこ連れてかないよ。せっかくきれいな服着てるのに」
またそんな甘いことを吐く。落ち着きはじめていた焦りのようなものが蘇って、つい再び目線を下げた。
迅くんが「ボーダーの女子に聞いたんだけど」と前置きしておだやかな声で言う。
「ちかくに新しいカフェができたらしくて」
きっとそこへ行こうと提案してくれているのだろう。そのカフェのことなら知っている。行ったことはないけれど、友人との会話で話題に上がったから。店のSNSに載せられたスフレパンケーキやランチプレートの写真はわたしのミーハーな心をわしづかみにしたものだ。
でも、それってわたしが一緒に行ってもいいの?
そんな問いかけが口をついて出そうになる。だってそれ、その女の子が迅くんと一緒に行きたかったんじゃないの?
浮き立っていたきもちが一気に萎んでいくのがわかる。目の前の迅くんも、彼にカフェの話をした女の子も、なにも悪くない。迅くんが関わった途端に冷静でいられないわたしの問題だ。まったく面倒くさい。
「別のとこのほうがいい?」
あいづちも打たないでいるわたしに問う。きっと迅くんだって、面倒だとおもっているにちがいない。
迅くんと一緒ならどこだっていい。それこそ焼肉でも駅前のファストフード店でもなんでもいい。けど、ほかの女の子が迅くんと行きたかったカフェに、どんな顔をしていけばいいのかがわからなかった。
「……ごめん」
やっと絞りだせたのは謝罪のことばで、それを聞いた迅くんは微笑んだまま、困ったみたいに眉尻を下げた。
そんな立場じゃないのはわかっているのに視界がにじむ。勝手に好きになって勝手に期待して勝手に傷ついている。心だけじゃなくきっと顔もぼろぼろで、たまらずその場にうずくまった。
「わたし、そのカフェには行けない」
不甲斐ない小さな声を聞くために迅くんも同じようにしゃがみこむ。それから「うん」とだけ、否定も肯定もしなかった。情けないじぶんの顔を見られないよう両手でおおっているせいでその顔はわからない。でも見なくたってわかる、いつものやさしい表情を浮かべているんだろう。そのせいでわたしの口は余計なことまで喋ってしまうのだ。
「迅くんのこと、好きだから」
これ以上ないほど格好悪い告白だ。そう考えられるくらいの時間があった。長いのか短いのかわからない沈黙のあとで、迅くんがわたしの名前を呼ぶ。
「名字さん、顔見せて」
「む、むり」
ぐちゃぐちゃになった顔を見せられるわけがない。そんなわずかな乙女心は聞き入れてもらえない。首を振った拍子にみだれた髪を迅くんの指がすくって、真っ赤に染まっているにちがいないわたしの耳にかけた。おどろいたのは、その行為そのものだけではなくて、くすぐるように耳にふれた指が熱かったから。
迅くんはいつも鷹揚でいて、すべてを見透かすような青いひとみはひんやりと凪いでいる。だからわたしとおなじ、それ以上の熱を持っていることに驚いた。
ぴくりと肩をふるわせるわたしに構わず迅くんがことばを続ける。
「じゃあそのままでいいから聞いて」
怖い、聞きたくない。でも知りたい、迅くんがなにを考えているのか。
わたしの意思と関係なく、遮るもののない耳はやわらかな声をしっかりと受け止めた。
「おれも好きだよ、名字さんのこと」
甘ったるくてしかたない。あまりにもわたしに都合がよすぎる。疑いを抱くよりも早く、迅くんが「ずっと前から好きだったよ」と笑って言うのだった。