優しい直線



 駅前のせせこましい大衆居酒屋は、まだ週の半ばだというのに随分と活気づいていた。仕事終わりのサラリーマンから大学生まで、所狭しと詰めこまれたひとびとがひしめいている。
 その一角でひときわにぎわう10人ほどのグループの中に名字はいた。普段ボーダーの任務を理由に飲み会に参加しないことの多い名字だから、今日はシフトが入っていないとこぼせば大学のゼミ仲間たちが逃してくれるわけがなかった。夏休み前のグループ課題を終え、その打ち上げと称されたこの飲み会だが、そんな理由がなくとも彼らは普段からこうして騒ぐのが好きだ。
 飲み会のようなにぎやかな集まりが苦手というわけでもないが、特段好きというわけでもない。お酒は好きだが、大人数でというよりは親しい友人数人とゆっくり嗜むほうがいい。例えば、同年でありボーダーでも馴染みのある加古や太刀川のようなお酒を好む人間たち。それで言えば諏訪や風間なんかも都合が合えば居酒屋に連れて行ってくれる。半ば強引なときもあるが、奢りだと言われれば着いていってしまうのだから現金なやつだと自分でもおもっている。
「ねぇ、名前が飲み来るの久しぶりすぎじゃない?」
 友人がタッチパネルでカシスオレンジを注文しながら笑って言う。たしかに、いつぶりだろうと思い返してみてもはっきりしないほど前だ。
「つーか名字、ビールしか飲んでねぇけど」
「はは、彼氏の影響?」
 目の前の男たちが茶化すように言う。男の影響ではあるが、それは諏訪や太刀川に違いない。彼らはうわばみのようにビールを好んで飲むから、ついでに注文を頼むと同じくビールばかり飲むはめになるのだ。
「そうじゃん名前、彼氏の話聞かせてよ!」
 黙殺しようとした話題を逃すまいと隣の友人が食らいつく。
「え、まじで彼氏いんの?」
 対面の男子も驚いたように少し身を乗り出した。
 名字が飲み会に参加しない理由はこれにもあった。ここに集まる彼らはひとの恋愛話に目がない。ゼミの中でも男女のすったもんだが起きているとかどうとかで、そんなものに巻き込まれてはたまったものじゃない。
 周りから向けられる好奇の目に耐えかねて、ようやく名字はジョッキから手を離して口を開いた。
「いるけど、別に話すようなことないよ」
 これで話はおしまいだという意味を込めてそう言っても、それを汲みとってくれるような友人たちではない。
「ボーダーのひとなんでしょ?」
「まじ? いいなぁ、私にも紹介してよ」
「イケメン? 写真ないの?」
 矢継ぎ早に投げかけられる質問に答える前にわずかに残っていたビールを飲み干した。シラフではやっていられない。
「ビール追加して」
 投げやりに名字が言えば、カシスオレンジを注文していた彼女が「まかせて!」とパネルを操作している。彼女らも酔わせれば名字が簡単に口を滑らすということを知っているのだからタチが悪い。
 恋人のことは、客観的に見てイケメンに分類される人間だとおもっている。だけど名字から見れば子犬が後ろを着いて歩いてくるような感覚だ。それは恋人である辻󠄀新之助という男がまだ、17歳の高校生であることに大きく所以している。そして、ボーダーの外で恋人の話をしない理由も同じだった。
「名前が付き合う男ってあんま想像つかないかも」
「たしかに〜」
「筋骨隆々の男好きそう」
「ちょっとわかるわ、ウケる」
 届けられたビールを飲み下していれば外野が好き勝手言い始めている。自分ってそんなイメージだったのか、と驚いた。
 そうして向けられた視線たちはそろって「で、どうなの?」と訴えかけている。
「べつに、ふつうのひと」
「ふつうってなによ」
「ボーダー隊員って時点であんまりふつうじゃないんだよ」
「イケメンなの? どうなの?」
 ひとつ答えれば何倍にもなって返ってきていたたまれない。ここには名字に助け舟を出してくれる人間はいないようだ。逃げ場がないと諦めて口を開く。
「うーん……子犬? みたいな」
「えっわんこ系なんだ!?」
「意外すぎ」
「ビールばっか飲むわんこ系ってなに?」
「写真見たーい」
 怒涛のレスポンスに圧倒されつつも「いや、彼氏はビール飲まない」とだけ否定しておく。なぜならさっきも述べたとおり、辻󠄀は未成年だからだ。
「ビールはボーダーのうわばみたちのせいだから」
「ボーダーって飲みニケーションタイプの企業なんだ」
 ボーダーの株がぐっと下がったような気がするがおおよそ間違っていないため口をつぐむほかない。いや、一部に限った話ではあるのだが。
「あ、わかった」
 唐突に友人のひとりが言う。なにが? 全員の視線が彼女に集まった。
「年下わんこ系彼氏かぁ」
 至極穏やかな口ぶりでひとり納得する彼女も何杯目かわからないハイボールのメガジョッキを握りしめている。ふだんから優しい目をしている彼女は酔っているのかもわからない。ここにも厄介なうわばみがいたか、と名字は胡乱な目でいらないことを考えた。
「年下!?」
「未成年かよ!」
「えっめっちゃいい〜紹介して〜」
 かしましいガヤを聞き流しつつ、ずばり言い当てた本人へ目を細めて睨みつけるような視線を送る。へらりと笑う彼女は楽しげにジョッキを掲げてみせた。実に小癪だ。
 もう何も喋るまいと、これまた何杯目なのか考えたくもないビールを呷る。興味津々の友人が名字の肩を揺らしているが「もうおしまいだから」とかたくなに口を閉ざした。その様子にこれ以上の収穫は見込めないと思ったか、友人たちの話題はボーダーへと移っていく。
「そういえばさぁ、この間喋っちゃったんだよね」
 恥ずかしげに赤らんだ頬に手を添えて友人が言う。
「二宮くん! 英語一緒なんだよね〜!」
 思わぬ登場人物に、そのときちょうど飲み下したビールが気管に入り込んで「げほっ」と大きく咽せた。
「うわ名前、大丈夫?」
「だいじょーぶ」
「ほんとかよ」
 気にせず続けてくれ、という意思表示として手のひらを差し出すと、さほど気にする様子もなく話は続いていく。
「たまたま隣の席でさ、その日ペアワークだったの! ちょーかっこよかった!」
 そう言ってうっとりする彼女は知らないのだ、二宮匡貴という男がどれほど冷徹な人間であるかを。学科が違っているから当然知る由もないのだけれど。
 先日のランク戦で二宮に蜂の巣にされた記憶が蘇る。戦況はどう見ても名字が劣勢で、フルアタックで穴ぼこにされる必要はなかっただろうと隊室で恨み言を垂れたものだ。
「二宮くんってさ、ミステリアスでかっこいいよねぇ」
「めっちゃ落ち着いてて大人〜って感じだった!」
 バカバカしい。それはミステリアスなんていいものではなく、ただ無愛想で仏頂面をしているだけだ。
 辻󠄀と交際を始める前に何度口うるさく言われただろうか。二宮の「うちの部下にちょっかいを出すな」という台詞が今でもはっきりと音声つきで思い出せる。断じてこちらから手を出した事実はない。気づけば懐かれ勝手に子犬よろしく後ろを着いて回っていたのはお前の部下のほうだろう。名字のそんな反論に二宮が聞く耳を持つわけもない。
 世間一般の外野から見た二宮像をすべてなぎ倒してやりたいきもちを抑え込む。ランク戦においても名字は二宮より劣っていたし、加えて恋人の上司であるという弱みさえあるからだ。
 悔しい! そんなきもちをここで発散することもできず、みんなの意識が二宮へ向いているのをいいことに名字はスマートフォンを開いた。悔しさを乗せて滝のような涙を流す絵文字をひとつ、辻󠄀へと送る。するとすぐに既読のマークがついて、これまたすぐに返事が来た。酔ってるんですか、とシンプルな内容だ。
「彼氏?」
 隣の友人が画面を覗き込むようにして訊ねる。おもわず画面を隠すようにすれば、見事予想が当たったとばかりに口元をゆるめて「名前、彼氏と連絡してま〜す!」と大声で宣言をした。
「ばか!」
 反射的に出た暴言も届かない。盛り上がる友人たちは何がそれほど楽しいのか、ジョッキを手に何度目かわからない乾杯をした。
「ほら名前も、乾杯〜」
「……乾杯」
 カチンとガラスのぶつかる音がすこし鈍い。ぬるくなったビールを飲む気にもならず、もう一度スマートフォンに視線を落とせば、ちょうど辻󠄀から追加でメッセージが届いていた。
「彼氏なんて?」
 正面の男子が周りに聞こえないよう小さな声で問う。茶化すそぶりもないため「酔ってるんですか、大丈夫ですかって」と間延びした喋り方をもってメッセージの内容を読み上げた。
「彼氏敬語なん?」
「敬語だね」
「付き合ってんのに?」
「……そうだね、あんま気にしたことなかったけど」
 ボーダーは横のつながりに加えて縦のつながりも多いけれど、上下関係というのは割としっかりしたところがあるようにおもう。親しき仲にも礼儀あり、というのを弁えた子が多いのだ。名字と辻󠄀の関係もはじめは先輩と後輩、その上辻󠄀からすれば自隊の隊長の同級生であったからか、いまでも敬語が身に染みついている。
 気にしたことがなかったというのは本当だ。ただ、周りから見てそれがふつうでないことだとはおもいもしなかった。だって、ボーダーでは何も言われなかったから。
「もしかして、わたしたちって変?」
「変っていうか……まぁ、もし言いたいこととかあっても言いづらそうだなって」
 名字ではなく辻󠄀が、という意味だろう。きっと一方だけが敬語を使う関係が対等ではないと言いたいのだ。それから、もしかすると辻󠄀がそうおもっている可能性があるのだということを。
 急激に酔いが覚めていく感覚がする。言葉を失った名字へ「名字、大丈夫?」と向かいから呼びかける声がするが、それに反応する余裕もなかった。
 そういえば辻󠄀が名字のことを「名前さん」と下の名前で呼ぶようになったのも、つい最近のことだった。ずいぶんと時間をかけて意を決したようにそう呼びたいと言われて、でも、名字から辻󠄀への呼称はずっと変わっていない。手を繋ぎたいとかキスがしたいとか、辻󠄀がいちいち顔を真っ赤にして言うのがやけにかわいくて、名字から言ったことはないんじゃないだろうか。そんな小さなことがたくさん頭の中に湧いてくる。辻󠄀は、どうおもっているんだろう。柄にもなく不安になる。
「名字、外の空気吸いに行こ」
 そう言った彼がみんなに「名字ちょっと具合悪そうだから一回外出るわ」と知らせて、卓上に投げ出された名字の腕を引いた。
 たしかにすこし頭を冷やした方がいいのかもしれない、とおもった。さっきハイペースで流し込んだビールが胃の中で渦巻いているような感覚がきもちわるい。
「名字」
 何度目かの呼びかけに腰を上げたちょうどそのときだった、すっかり耳馴染んだ声が「名前さん」と呼んだのは。ただ、いつもの落ち着いたその声の中に、少しの焦りが混ざっている。
「……辻󠄀ちゃん?」
 名字の腕を引く男のさらに向こう。いるはずのない人物に名字は目をしばたたかせた。でもどれだけまばたきしても、そこにいるのは辻󠄀本人にちがいない。
「すみません、俺が連れて帰ります」
 男に握られていた名字の腕を辻󠄀がするりと絡めとる。それからいくらか代金をテーブルに置くと、座席に置いたままだった名字のバッグを手に取った。
「ご迷惑おかけしました」
 その流れるような一連の光景に呆然とするのみの級友たちに向かって──とくに名字を外へ連れ出そうとしていた彼へ──そう告げる。突然のことにだれもが「あ、どうも」だとか「はぁ」だとか気の抜けた返事をするのみだったし、名字でさえ何もできずただ辻󠄀の顔を見上げていた。いつもの涼しげな目元は変わらない。
 そのまま居酒屋の喧騒を抜けていくふたりを見送りながら、だれかが「ドーベルマン?」と呟いた。

 空調の効きすぎた店内とちがい、外の空気は重くじっとりと肌にまとわりついてくる。辻󠄀に握られたままの腕はすでに汗ばんでいた。
 駅の明かりへ向かって歩く辻󠄀の背中に名字が問う。
「辻󠄀ちゃん、なんでここだってわかったの」
「……二宮さんに聞きました、たぶんここだろうって」
 たしかに彼らとの飲み会はほとんどこの居酒屋だったし、帰り際に諏訪さんに絡まれる二宮と出会って飲み会の話をしたような気がする。とにかく、この状況があまりにも現実離れしていてよくわからない。
「それで、俺もさっきまでみんなで焼肉だったんで」
 みんなとは二宮隊のことだろう。きっと寿寿苑で食べたにちがいないけれど、あそこからこの店まではそれほど近くない。ついでだから迎えにきたと言いたいらしいが、そんなのは嘘だとすぐにわかった。
 居酒屋を出てからずっと辻󠄀の少し後ろを歩いていて、彼がどんな顔をしているのか名字には見ることができなかったし、辻󠄀も後ろを振り返ろうとしなかった。ただ、握られた腕はそのまま。
 言いたいことがあっても言いづらそう。さっき言われたことばを思い出す。いま、辻󠄀はどうおもっているのだろう。こんなに酔うまでお酒を飲んで、べつの男に腕を引かれていた名字は、辻󠄀の目にどう映ったのだろう。
「辻󠄀ちゃん」
「はい」
「いやになった?」
「……なにがですか」
 辻󠄀の歩みが止まる。名字はワンテンポ遅れて立ち止まり、ようやく隣に並んで立った。でもいまは顔を見上げる勇気はない。
「わたし、こんな酔っ払いだし」
「酔ってるところ見るのはじめてじゃないです」
「ちがう男子と一緒にいて」
「それは……ちょっといやでした」
 すこし拗ねたような声音で言う。
「辻󠄀ちゃんが、わたしに言いたいこと言えてないんじゃないかって」
「あのひとに言われたんですか」
 ちいさく頷きながら目の奥がじわじわと熱くなるのを感じた。酔っているせいだ、と自分に言い聞かせる。そうでないと情けなくてしかたがない。名字ははたちを超えた大人で、対する辻󠄀は子どもなんだから。
「とりあえず、どこか座りましょう」
 また歩き始める辻󠄀に連れられて駅まで歩いていく。平日の、帰宅ラッシュをとうに過ぎたこの時間のひと通りは多くない。薄暗い通りにふたり分の足音が大きく響いている。
 バスのロータリーにあるベンチに座るとようやく腕を離された。いまはそれさえ控えめな拒絶かのように感じるのだから、さっきの言葉が相当効いているらしい。
 隣に座る辻󠄀は項垂れるように両膝に肘をついて手で顔を覆っていた。それから長く息を吐いて、顔だけ名字の方を向いて言う。
「不安に、させましたか」
 語尾の上がらないその訊ね方は、辻󠄀の中ではそうさせてしまったのだとおもっているのだろう。責められるべきは自分自身だと考えていた名字だったけれど、辻󠄀もまたおなじように感じたらしかった。今まさに不安にさせているのは名字の方だというのに。
「ちがう、辻󠄀ちゃんじゃなくて、わたし」
 あわてて否定の言葉を口にしても辻󠄀の表情は曇ったままだ。無意識に浅くなっていた呼吸を整えるように深呼吸をして、もう一度辻󠄀に向き合う。顔を覗き込むようにすれば辻󠄀も顔を上げたけれど、いつもならピンとまっすぐなその背筋はゆるやかで小さく見える。
「わたしが辻󠄀ちゃんのことを不安にさせてる、よね」
「名前さんにはそう見えますか」
「あんまり、考えたことなくて……ごめん」
「さっきのひとに言われてそうおもったってことですよね」
 珍しく責め立てるような口調だった。今さら気づいた自分に怒っているんだろうと、もう一度「ごめんね」と謝る。
 辻󠄀が軽く目を伏せたときの案外長いまつ毛が好きだった。でもそれが今は切ない。その瞳がこちらを向かないことが悲しいとおもう。
「俺、そんなこと言ったことないです」
「……だから、それも言えないのかもっておもって」
 名字の言葉を聞いて、辻󠄀が眉間に深いしわを刻む。咄嗟に「あと残っちゃうよ」といつものような軽口がまろび出てまたすこし後悔した。そうしたら辻󠄀の涼やかな目線が名字を捉えて、指で眉間を揉みほぐすようにしながら辻󠄀が静かに語り始めた。
「すごく悔しいきもちと、嬉しいきもちで、ちょっと動揺してます。
 あのひとが言ったことが名前さんにとってすごく影響力があるんだってことと、そうやって悩ませるくらい俺が言うべきことも言ってなかったってことが悔しくて。勝手に、伝わってるとおもってました。傲慢ですね」
 口を挟む余地もないまま、辻󠄀の言葉は滔々と続く。
「でも、そうやって俺のことを考えて悩んでくれることが、その……嬉しいです。ずっと無理に付き合わせてて、いつも俺ばっかり名前さんの優しさに甘えて欲張って、困らせてるとおもってたので」
 言い終わる頃にはさっきの眉間にしわを寄せた顔とはちがって、ずいぶんと柔らかい表情をしていた。いつも名字に向けられているやさしい目だ。
「俺、ちょっとだけ自惚れてもいいですよね」
 すこし首を傾げて見せるその仕草は恋人になる前から変わらない。年下ということを前面に出したようなこのそぶりを、子犬みたいだと名字はずっとおもっているし、今では愛おしいとおもう。
 そして、そうだった、辻󠄀はいつもすべて言葉にしてくれていたじゃないかと気づく。
「わたしも、言わなきゃいけないことちゃんと言えてなかったみたい」
 お互いの膝を突き合わせるように向き直る。すこし驚いたように辻󠄀の体が逃げるのを追いかけて言った。
「わたし、ちゃんと辻󠄀ちゃんのことが好きだよ。最初は全然そんなふうに考えたことなかったけど……辻󠄀ちゃんが、ずっと真っ直ぐにわたしを追いかけてくれたから」
 改めて伝えるのは面映い。顔があつくてしかたがないのは、夏だからでもアルコールのせいでもないだろう。気取られないために軽く俯いていた名字だったけれど、いくら待っても辻󠄀からの返答はない。そろそろと顔をあげた先には、名字よりも顔を真っ赤に染めた辻󠄀が目を泳がせていた。
「……辻󠄀ちゃん」
「ひゃ、はい」
 裏返ったその返事はまるで知り合って間もない頃みたいだ。さっきまであれほど饒舌だったのが嘘のように鳴りを潜めた辻󠄀は、時おりちいさくうめき声を上げている。
「なんか言ってよ」
 名字のいじけた言葉に「すみません、ちょっと、うれしすぎて」と答えるその声は今にも消え入りそうだった。
 目の前の恋人を安心させるためならば恥も外聞もない。自身の膝の上で力強く握られている彼のおおきな手に汗ばんだ手で触れた。辻󠄀は驚きを隠すこともできずに「っ、名前さん、あの」と狼狽している。
「辻󠄀ちゃん、好きだよ。今までの分、ちゃんと伝えるから」
「う、うれしい、です」
「辻󠄀ちゃんが嬉しいなら、わたしも嬉しい」
「えっと……俺も、好きです」
「うん、伝わってる。ありがとう」
 上から重ねた名字の手を辻󠄀がおそるおそる握って指を絡めた。きゅっと結んだ唇は彼が照れているときのクセだ。
「あの、名前さん」
「なに?」
「ひとつだけお願いしてもいいですか」
「うん、どうしたの」
 絡めた指を何度もやわやわと握りながら辻󠄀が言う。
「もう俺以外の男のひとに触らせないでください」
 ちょっといやだった、なんてさっきの言葉は大嘘だ。彼がこんな束縛めいたわがままを言う姿を見るのははじめてで、愛おしいというきもちでいっぱいになる。
「じゃあ辻󠄀ちゃんが側で見張っててよ」
 いたずらっぽい返事に辻󠄀は目を瞠った。それから心底満たされたような表情で「わかりました」とやさしく笑った。その表情は名字を好きだという想いをまっすぐに届けている。



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