心臓ど真ん中一直線
ボーダー本部と私の住むアパートのちょうど中間あたりにあるラーメン屋。その店の看板メニューであるとんこつラーメンを私と迅はよく一緒に食べた。せまい店内のカウンター席、そこが私たちの定位置だ。
気づかないうちに誘ったほうが相手に奢るという暗黙のルールができあがっていて、奢られて終わるのも気が悪いと思うのは同じなのか、顔を合わせるとどちらかがこの店へ誘うのだ。
今日だってそうだ。防衛任務終わりの疲れきったからだで本部内を歩いていれば、野良猫のごとくふらりと現れた迅に連れられてとんこつラーメンを食べている。店内の時計の針は、未成年であれば家に帰らなくてはならない時間を指していた。日の入りが早くなってきたとはいえ、まだしばらくは半袖をしまえそうにないこの時期、こってりしたラーメンを食べていると額に汗がにじむ。
そんなことをずるずると続けていけば体重というのはおのずと増えていくもので、そろそろやめなきゃなぁなんてぼやきを迅は笑って聞いていた。別にダイエットとかしなくていいんじゃないのとか、そのままでいいとおもうけどとか、迅の甘い言葉に乗せられそうにもなったがそうもいかない。この貴重な20歳という時は二度と帰ってこないのだ。
「名前さんのこと太ったとおもったことないし、太ったって名前さんの魅力は変わんないでしょ」
「見えないところが太ってるんだよ、お腹とか」
「見えないんだからいいじゃん」
「そういうことじゃないんだってば」
それじゃあ今ここで私のお腹を見てみるかなんて言えるわけもなければ、自然に織り交ぜられたほめ言葉と捉えて良いだろうセリフに触れることもできない。なんだか急に恥ずかしくなって、ごまかすみたいにラーメンを啜った。うん、罪の味がする。
「そういうことじゃないって、じゃあどういうこと?」
「自分のモチベーションもあるし、あとは、あれだよ、いつ見せることになるかもわかんないし、」
変なことを口走ったと後悔した瞬間、迅の碧眼と視線がぶつかった。焦茶色の私のひとみは動揺に揺れていたにちがいない。やわらかく目を細めて微笑む迅は何を視ているのだろう。
迅によってきれいに割られた割り箸はどんぶりの縁に置かれていた。あーだこーだとさまざまな葛藤に苦しんでいるうちに、先に食べ終えてしまったらしい。こちらを急かすでもなく頬杖をついた彼の視線は、やはりこちらを向いたままだ。右手に持ったままの、うまく割れなかったいびつな割り箸さえ居心地の悪さを助長している。
「ま、まぁ、迅みたいにどんな見た目だろうと女の子なら誰でもってひとも、いる、だろうけど……」
失言に次ぐ失言。動揺していたなんて言い訳も効き目がない失言のダブルコンボだ。そんなことを喋っている途中に気づいたものだから、咄嗟に視線を逸らしてしまったのもよくない。これで3コンボ。言葉尻はガタガタと不穏な音を立てる換気扇に吸い込まれて消えていったが、目の前の迅に届かないわけがなかった。
ゆるやかに弧を描いたままだった迅の口から笑い声が聞こえた。わざとらしいそれは私へのアイロニーを含んでいるのだろう。
「餃子でも食べようかな」
迅の手がおもむろにメニュー表を掴む。それから餃子6個をオーダーしたその口で「名前さんも食べるよね?」と言った。それは問いかけであって問いかけではない。返事は「はい」か「イエス」か、それしか用意されていないから。
「……はい、食べます」
無駄な逡巡のあとに用意された返事を選択すれば、迅は満足気によりいっそう笑みを深めた。
目の前に残されたラーメンを平らげながら餃子を待つあいだ、隣のおとこはずいぶんと機嫌がよかった。鼻歌でも歌いだしそうなほど。言い逃れのできない失言、失礼な態度のコンボを繰り出した相手に何がそれほど愉快なのだろうか。
「べつに、女の子だったら誰でもいいわけじゃないよ。そりゃ女の子はみんなかわいいけどさ」
彼の中で、さっきの話はなかったことにはならなかったらしい。求めてもいない回答をつらつらと述べながら、注文の際にどんぶりを下げられてしまった迅は新しく割り箸を一本取り出した。かわいた音を立てたそれはまた見事なほどきれいに割られ、それに合わせたように焼きたての餃子が私たちの間に置かれた。餃子の届くタイミングまで予見して疲れないのだろうか。
「それって誰でもいいとは違うの?」
「全然違うよ」
小さな器に餃子のタレを垂らしながら言う。それから自然な流れで私の器には酢と胡椒を入れた。気が利くばかりでなく、私の好みまでしっかりと把握している。
「たとえばさ、名前さんだってアイドルグループ見てイケメンだなって思うでしょ。それと一緒だよ。おれの場合ちょっと守備範囲が広いだけで」
「アイドルくらいイケメンだったら誰でもなびいちゃうけどな私は」
「名前さんらしいね」
くつくつと小さく笑ったあと、迅は大きく開けた口に餃子をひとつ放り込んだ。それからまたひとつたとえ話を提案する。
「じゃあ嵐山は?」
「嵐山?」
「うん。嵐山を見てイケメンだなーってみんな思うだろうけど、それだけで嵐山に恋したりしないだろ」
嵐山の人気を見ていると、そういう女の子も一定数いるような気はするが、自分はそこに該当しないため「まぁ、そうかも」と控えめに同意する。とはいえ嵐山は性格まで完璧にいい男であるので、判断は難しい。
「おれもそれと一緒だよ。女の子はかわいいなーって思うけど、誰彼構わず好きになったりしない」
「なるほど?」
「はは、あんまよくわかってないでしょ」
「うーん、だって、迅が好きにならなくても相手に言い寄られたら? 相手はかわいい女の子だよ」
それこそ、たとえば、嵐山が私のことを好きだと言ったとしよう。私はそれを断固として断ることができるだろか? いま現在、異性として恋愛感情を抱いていることはまったくないと言えるけれど、彼のことは非常に好ましく思っている。そういう相手に好きだのなんだのと迫られたら、私のような人間でさえ多少は心が揺らいだりするものではないか。
「名前さんは勘違いしてるみたいだけど、おれはおれが好きな子以外には興味ないよ。かわいいとは思うけど、それって犬にだって抱く感情でしょ」
まさか女の子と犬を同等に並べてくるとは。予想外の返答に餃子を口に運んでいた手が止まる。大きく口を開けたままの私を見て迅はいたずらそうに目を細めている。
「なんか迅って……」
「幻滅した?」
「……いや、べつに」
気を取り直してようやく餃子を口に放り込む。ここの餃子は餡がぎっしりと詰まっていて絶品である。
しかし、言われてみればそのとおりだ。私がはやりの女優を見てかわいいと思うきもちと、玉狛にいるカピバラを見たときに思うかわいいは同じなのかもしれない。迅の言うとおり、どうやら私は彼のことを勘違いしているらしい。
「たしかに、迅って意外と遊び歩いてないもんね」
「そうそう、実力派エリートは忙しいから本命の子以外と遊んでる暇ないんだよね」
「ふーん」
咀嚼の合間の適当な相槌には言葉は返ってこなかった。ついさっきまで饒舌だったくせにどうしたものかと迅の顔をうかがうと、思ってもみない表情をしている。呆れたような、不機嫌なような。口だってへの字になりそうなのをもにょもにょと動かして不器用に口角を上げようとしている。それから額に手を当てて「そっかぁ〜」となにかを嘆いた。
「名前さんには全然伝わってないみたいなんだけど」
「?」
「本命の子以外と遊んでる暇ないの、おれ」
「実力派エリートだからでしょ?」
「……そうだよ」
最後の餃子をつまみ上げてほおばる。それを迅は胡乱な目で見ている。なにが疑わしいというのか、今私の問いに対して同意したくせに。
それから「やっぱり名前さんにはストレートに言わないとだめか」と失礼なことを言う。まだ餃子をくちいっぱいに含んでいるから文句を言うことができない私を待たずして、迅が続けた。
「今の、名前さんが本命なんだって意味だけど、全く伝わってないよね?」
「……?」
ようやく餃子を飲みくだしたとき、ごくりと喉がおおきく鳴った。それを合図みたいに迅の言ってることが頭の中でぜんぶ繋がって、今までの会話が脳内を駆けめぐる。
「え」
実に間抜けな声だった。きっと顔だって間抜けな表情をしているに違いない。
私の間抜けな姿に迅は困ったみたいに眉を下げて笑った。
「いやー予想はついてたけど、本当にここまで気づかないと思わなかったな」
「な、なに、」
「なにってなに? おれは好きな子にしか興味ないし、時間も割かないよ、さっきも言ったけど」
本部で顔を合わせるたびに肩を並べてラーメンを食べる。それは多忙な実力派エリートの貴重な時間を割いているということだと、暗に彼は私への好意を自白していたらしい。だというのに私は失礼の3コンボを披露したうえ、迅の言いたいことも何ひとつわかっていないままラーメンと餃子を貪っていたわけだ。
これまで何度一緒にラーメンを食べただろうか。はじめてこのラーメン屋に来たのは? その最初から彼が私のことをそう思っていたのかは知らないが、私はそれを一切感じ取るとこができなかった。ただ私が鈍感なのか、迅のかくしごとが上手なのかはわからない。
つまり、私は迅のことを一度たりとも異性として見たことがなかった。いや、異性ではあるが、だからといって何かがあるとは思いもしなかったのだ。そう、それこそ嵐山のように、異性として恋愛感情は抱いていないけれど好ましく思っている──それで、もしそういう相手に好きだのなんだのと迫られたら?
「名前さんってほんとうに考えてることわかりやすいよね。いつか騙されたりしそうで、なんか心配」
今にも私を騙して食べてしまいそうな顔をした男にそんなことを言われたくはない。そのせりふも喉に張りついて音にはならなかった。
この世の中のラーメン屋というのはどこも冷房が効きすぎている。それなのに私の背中はじんわりと汗ばんでいて、一度すべてを仕切り直すべく氷のすべて溶けたお冷を慌てて流し込んだ。
「あせらなくても取って食べたりしないよ、もともと長期戦の腹づもりだから」
「それなら、今言わなくても」
「じゃあいつ言わせてくれるの?」
私の声に被せるように投げかけられた問いに私は答えることができない。ずっと言わずにいてくれたら、この生ぬるい関係をずっと続けられたのに。そんなことを考えてしまう。
私は案外この習慣を気に入っていた。気の置けない友人と深夜にラーメンを食べる。その日の任務の話とか、私の大学の話とか、同期のバカに振り回されたことへの愚痴とか、そんなのを話しながら。
「帰ろっか」
迅が勘定を済ませている間も私は席を立てずにいる。そういえば、迅はこのあと必ず私を自宅まで送り届けてくれるのだった。ろくな防犯もなされていない質素なアパートの一室、私が扉を閉めるまで見届ける彼はどうやら心配性らしいと思っていた。けれど、それも違ったんだろうか。
「名前さん? 帰るよ」
「あ、うん」
連れ立って歩くこの帰路も、いつもとちがう景色みたいだ。夜半に吹く風は夏のじっとりとした重さを含んでいなくて心地いい。
「あのさぁ……そこまで意識されると、さすがに罪悪感あるんだけど」
迅が詰るように言ったのは、ふたりの間にある1メートルほどの距離についてだ。いつもなら何度か肩が触れあうほどの距離を歩いていたのだから当然の反応だろう。
「取って食べたりしないって言ってるじゃん」
「そんなの当たり前でしょ!」
噛みつくように叫べば、呆れた顔をした迅が自ら距離を縮めてくる。それをまた避けるように歩いてもおなじように近づく迅に「あぶないよ」と腕を引かれてはもう逃げようもなかった。
引かれた腕はそのまま離されて自由になったけれど、また距離を取るきもちにはならない。いつもとおなじ、ふとした拍子に肩がぶつかるような距離を歩いた。私だって迅を傷つけたいわけではないのだから。
「で、名前さんは嵐山みたいなイケメンに言い寄られたらなびいちゃうわけだけど、おれでは力不足?」
「ほんっと嫌味が上手だよね、迅は」
「嫌味じゃないよ、市場調査。名前さんこそそういう減らず口っていうか、へ理屈をこねるのが上手だよね」
「それが嫌味だって言ってんの」
迅がちいさくこぼした吐息が空気をゆらした。伏せられたまつ毛に街灯の明かりがちらちらと反射して目を奪う。よく冷えた冬の日は、呼吸が含んだ水分をそのまつ毛が受けとめて、今日よりもずっときらきらと光っていた。その度、私は彼に気づかれないよう光を見つめてきたのだ。
でもきっと、それもすべてお見通しだったのだろう。
澄んだ青色の瞳がこちらを向いてもまだ、光るまつ毛やうつくしい虹彩から目を逸らせない。まるで吸い込まれるみたいに──
「って、な、なななにしてんの!」
思わず絶叫する私が自分の口を隠すようにかざした手のひらには、迅のくちびるが触れていた。やわらかさとあたたかさを生々しく感じる。
「いやー、二分の一ってとこだったんだけど、ダメだったか」
くちびるがわざと小さなリップ音を残し、全く反省の色を見せないで離れていく。信じられない。思ったことをそのまま口に出せば、
「長期戦の腹づもりではあるけど、短期決戦で済むならそれはそれで願ったり叶ったりだからね」
と、悪びれたフリすらしないのだから再び私は「信っじられない!」と強く発した。そんなのもお構いなしで愉快そうに笑う迅を今度こそ撒いてやるように速足で自宅を目指す。けれど満腹のこの体で曲がりなりにも男である迅を振り切れるわけもなく、いつもどおり迅はアパートの目の前まで着いてきた。おやすみだとかちゃんと鍵閉めなよとか毎回のおせっかいを聞き流しながら古い階段を駆け上がった。
大きな音を立てて閉めた自宅の扉に背を預けてその場に座り込む。隣人からクレームが来るかもしれないと一瞬だけ脳裏をよぎったけれど、今は気にしている余裕などなかった。
自分の心臓が破裂しそうなほどに鳴っているのは一体何が原因か。少なくとも2階まで階段を駆け上がったせいではないことは、私が一番わかっていた。