寂寥の始まり
「下町、慣れてきたか?」
向かい合って夕飯を食べている途中、ユーリに訊かれた。咀嚼しながら頷いて、水を飲む。
下町にやって来て、もうそろそろ半年が経つ。
ユーリとその周りの人達のフォローのおかげで予想していたよりずっとすんなり馴染めた気がする。初めの頃はユーリを通して伝わってきていたような情報も、今では逆にわたしを通してユーリに伝わるくらいだ。
「みんないい人だし、良くしてもらってるよ」
「そりゃよかった」
下町の人は本当に優しい。どこから来たのか、家族は居ないのか。その当たり前の疑問を誰も私に聞かないのは、初めにユーリが『ちょっとワケありなんだ』と説明してくれたおかげだ。それでもたったそれだけの言葉で受け入れて、自分から話すまではと踏み込まずにいてくれるのは、優しさ以外の何でもない。粗暴な印象を与えがちなユーリがその実とても優しいのは、きっとこの町で育ったからなんだろう。
「レナもやたら評判良いぜ」
グラスを傾けながら、ユーリはわたしに視線を寄越した。
「え?なんで?」
「下町の問題児に器量良しの嫁が来たーって」
「は…、なん、え!?」
「はは!いーい反応だねぇ」
ユーリの笑い声は周りの喧騒に掻き消された。
酒場は今夜も賑わっていて、あちこちで食器のぶつかる音や笑い声がする。
「待ってよ、誰が、誰の、何…?」
「お前が。俺の。嫁」
「…なんでよ…」
くつくつと笑うユーリはお酒片手にご機嫌だ。ユーリは、意外と酔いやすい。呂律が回らなくなるわけでもないし真っ赤になるわけでもないけれど、飲み始めてから少し経つと平時よりもご機嫌で、饒舌になる。ほんのり甘いお酒でも度数が高いお酒でも、どちらを飲んでもさほど変わりはないから、そこまでお酒に弱いというわけではないようだけれど。今もきっと、気分良く酔っている。
「いつまでもフラフラしてる問題児には下町の連中も手を焼いてるみたいだからなぁ」
「なに他人事みたいに言ってるの」
「噂によると、手料理に飢えてる俺はかわいい嫁さんに飯作って貰いたくて毎晩必死に酒場で口説いてる、らしいぜ」
「……いや、ご飯についてはむしろ、ユーリがお嫁さんだよね…」
「だよなー」
けらけらと笑いながら肯定して、左手に持ったグラスを揺らすその姿がなんだか色っぽい。
…美人は得だなぁ。
「今日のパスタも最高です」
「そりゃどーも。…お前に食わすために頻繁に料理してたから、レパートリー増えたしな」
「えっ、すごい。なんか嫁っていうよりもはやお母さんですね?」
「いや娘にはいらねぇ」
「ひどい」
ユーリがご飯を作ってくれるようになってから3ヵ月半くらい経つだろうか。わたしだって、料理が出来ないわけではない。得意なんです、なんて胸を張れるほどではないけれど、楽しく食事が出来る程度には美味しく作れるし、失敗だって殆どない。ただ、作ることに問題がないのは、食べるということには直結しなかった。
「料理が出来たって、食わなきゃ意味ねぇの」
「わかってるよ、ちょっとその、食事に対して拘りが、ないだけで」
「どーだか。そもそも、食べないって選択肢があること自体、拘り云々の話じゃ治まんないのわかってるか?」
…正論すぎて何も言えない。
元々のわたしの生活スタイルが、食事にあまり重点を置いていなかったせいだろうか。多分、お腹が空いていると脳が認識するのが遅いのだと思う。だから食べられるなら何でもいいし、何なら数食くらい食べなくても、水さえあれば問題はない。料理が出来ないわけでもないのにこうして彼が食事を作ってくれるようになったのは、つまるところ、それが理由だ。わたしの不食や偏食を知ったユーリが食事管理と称して半ばキレながら肉を口に捩じ込んできたのが、始まり。あの時のユーリは本当にこわかった。食欲不振だとかそんな繊細な理由ではなくて、単に食事に対して執着がないだけのことだったから、ユーリの鬼の形相から逃れるべく、これまでにないというほどの量を必死に食べたのを覚えている。
…そういえば、前にあの人にも怒られたなぁ。仕事で何日か会わない間に食べないでいたのがばれた時、いつも飄々としているあの人が声を荒らげたから本当に驚いた。あの時は結局どうなったんだけっけ。一緒になにか作って食べたような気がするけれど、思い出せない。
「レナは、…」
「うん?」
「…いや。レナは時々、どこ見てんのかわかんねぇなと思って」
「えっ、わたしそんなやばい顔してる?」
「わりと」
「えっ」
ユーリの言葉に、過去に飛んでいた思考が引き戻された。どこを見てるかわからない顔なんてさすがにそれは女としてだめな気がするのに、ユーリは笑っていて、それでいいとまで言う。
「ははっ!ま、どんな顔しててもこうして俺の飯食ってるなら、いい」
「ユーリさん、言ってる意味がよくわからないんですが。さては結構酔ってるね…?」
「わかんなくていいんですよ、レナさん。あとそんなに酔ってはない」
わからなくていいと、彼はよく言う。わざわざ説明するほどではないという意味なのか、理解する必要はないという意味なのか。彼の真意がどうであれ、わたしにわかるのは閉め出されたということだけだ。これ以上は話さないという柔らかな拒絶が、細い針のように胸に刺さる。
からん、と彼の持つグラスの氷が音を立てて、騒がしいはずの店内に響いた気がした。