追憶に沈む




だれかに呼ばれた気がして、ゆっくりと意識が浮上していく。水底から水面へと近付くような感覚に、もうすぐ眠りから覚めるのだと理解する。そして同時に、悪寒が背筋を撫ぜた。

あぁ、こわいものが、待っている。

向かってはいけないと警鐘が鳴るけれど、覚醒に向かう意識はその浮力に抗えないまま。こわい、どうしてわたしは眠ったのだろうか、いつ、何処で。

「──レナ」

柔らかい声がした。冷たくてこわいものの向こう側で、わたしを呼んでいる。あぁそうか。だからわたしは眠ったのか。気が付けばこわいものを追い越して、水面に近付いていた。この声をわたしは知っている。追いかけてくるこわいものを振り払うように、穏やかでやさしいその声を求めて手を伸ばした。

大丈夫。目が覚めてもあの人がいる。



* * *


───ぶわり。
浮き上がるような感覚に、目を開けた。同時にまるで反射のような勢いで空気を吸い込んで、喉の奥がヒュウと鳴る。真っ先に捉えた天井は長年見てきたそれではない。最近やっと見慣れ始めた、ここは、そうだ、宿屋、箒星の部屋。わたしは独りで、あぁ、ああ、嗚呼、そうだ、独りきりだ、ここにあの人は───いない。思い至ってすぐ、呼吸が覚束なくなる。だめ、息を、吐かなくては。わかっているのに、吸うばかりで上手く吐けない。呼吸がどんとん浅くなる。苦しくてじわりと涙が浮かんだ。霞んでいく視界が、記憶と重なっていく。あぁもう、どうして今更。ぼやけた頭で、そういえばこの半年間はこんな風にならなかったなぁなんて、それこそ今更ながら考える。息が、くるしい、指先の感覚がなくなっていく、いつもみたいに手を握ってほしい、ちがう、いないんだ、あの人はいない、どうして部屋があかいの、ちがうここじゃない、みんないるのに誰もいないのはどうして、違うちがう、たすけて、だれか、


「レナ」


ぐっと握られたのは右手だった。感覚の鈍った指先に、じわりと熱が染みていく。誰だろう、あの人じゃない。けれどこの声を、この熱を、わたしは知っている。荒っぽく見えて、その実とても細やかで優しい。綺麗な見た目に反して力が強くて、加減がすこし苦手。この半年間、身寄りのないわたしの傍にいてくれたひと。
視界の端で、黒髪が揺れた。

「…リ、」
「あぁ」
「…ユー、リ」
「うん。レナ、ゆっくり俺に合わせて。吐いて、吸って、吐いて、吐いて、」
「…、……、」
「そう、上手。もいっかい吸って、吐いて、吐いて、」

狭まっていた視界が開けて、あかい記憶が遠ざかっていく。ここはあの部屋じゃない。だから大丈夫。こわいものはない。冷えきった指先が少しずつ温まる。息を吐いて、今度はゆっくりと吸えた。

「落ち着いた?」
「…うん。ごめん、ありがと」

わたしを覗き込むようにしてベッドに腰掛けているユーリは、どういたしましてと笑った。
いつの間にか日は落ちて、部屋の中は薄暗い。変な時間に寝てしまったらしい。

「夕飯の時間になっても下りて来ねぇから見に来たんだけど…食べれそうか?」
「…大丈夫、食べられる」
「んじゃ、ちっと用意してくる。偶には部屋で食べようぜ」

ぽん、と軽く頭に触れてから、ユーリは立ち上がった。離れる前に撫でるように左右に揺らして、彼は相棒を呼んだ。

「ラピード、見ててやってくれるか」

それはわたしに言ったのか、相棒に言ったのか。どちらの意味にも取れるけれど、たぶん後者だ。証明するように、ユーリの相棒はベッドの足元へ来て丸まった。わたしをチラリと見上げた彼は、鳴くでもなくただ寄り添う。それはまるで安心しろと言っているようで、そしてその通りに、わたしはすこしだけ笑った。ラピードは賢い。きっとこちらが思っている以上に、人間の意思や意図を理解している。ブランケット越しに伝わるラピードの呼吸に合わせて、ゆっくりと目を閉じた。

彼が来てくれなければ、きっと気を失うように倒れていた。あるいは泣き叫んで、喚いていたかもしれない。いつだって、こわくて眠れないから可能な限りあの人の傍で眠った。泥酔して誰かに叩き起されるまで眠ることもあった。けれどここで暮らし始めてからは一度たりとも見なかったそれを、忘れていたあの光景を、どうして突然思い出したのだろうか。

「…忘れていたかった、なぁ」

四六時中脳裏を掠めるわけではない。事あるごとに思い出すわけでも、あかい色を見て記憶を重ねるわけでもない。───それでも。忘れていられるのなら忘れていたかったと思うのは、心弱くはあれども悪ではないはずだ。たとえそれが、最後に見た家族の姿だとしても。





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花ひらく頃、想いこがれる