「あんたいつまでフラフラしてるつもり?」
「フラフラはしてねぇだろ」
聞き覚えのある声がした。喧騒の中でもわかるほど聞き慣れたそれは、裏通りに続く路地に差し掛かったところで耳が拾った。思わず立ち止まって、何故か声を掛けられずにそのまま盗み聞くように息を潜めた。
「惚けないで。まさか、このままでいいとか思ってないでしょうね?」
「思っ…………てないとも言いきれねぇな…」
「あのね。他の女に構う暇があるなら、もっとちゃんと向き合って」
真っ直ぐに彼を見上げるその女性は、少し怒っているように見える。彼は、ユーリは、困ったように首に手を当てて息を吐いた。
「他の女、つっても頼まれてちょっと面倒見てるだけだろ」
「下心のない相手ならね。あんたに好意を抱いてるってて知ってて関わってるんだから、そういうことでしょ」
「だからって、はっきり言われたわけでもねぇのに断るのもおかしくねぇか?」
「……おかしくて何が悪いのよ。ねぇ、言わなくてもわかってくれるなんて思わないで。傲慢よ。女はね、はっきり言葉にしてくれないと、不安になるわ」
これは一体、誰の話だろうか。
思い当たることが多すぎて、冷や水を浴びた気分だ。ユーリに最も近い場所に居るのは自分だと、今この瞬間まで当然のようにそう思っていたのだという事実を突き付けられて、手が震える。わたし以外の誰かが彼の隣に立つことなんて、考えてもいなかった。初めは、彼はきっと引く手数多だろうと確かに思っていたのに。 ───あぁ、なんて浅ましさだろう。わたしはこんなにも卑しい人間だったのかと、嫌悪と羞恥が込み上げてくる。彼はとても真っ直ぐなひとだ。捻くれてはいても、その芯は曲がらない。だから彼の目に映る熱がわたしに向いているのならば、それは確たる事実。だというのにこんなにも冷えた心地がするのは、
彼の隣に居るのは自分だと思っていながら、わたしは未だあの人を忘れられない。だから彼の熱を信じきれないで、こんなにも揺らいでいる。そんなはずはない、彼はそんなひとじゃない。でも、だけどわたしがこうなのだから、ユーリだって、もしかしたら。───あぁ、駄目だ、混乱している。本当ならわたしは、こんな風に取り乱す資格すらないのに、そんなこと解っているのに。それでも、つまり、わたしは。
「……やだ、な」
結局、そういうことだ。わたしは今、ユーリの傍に彼女が立っていることが、嫌なんだ。この感情の根本は、ただの嫉妬だ。けれども彼だけだと心に定められないわたしに、妬く資格などない。そうして、あの人を忘れたくないのに、あの人を忘れられない自分が嫌だとさえ思う。もう、わけがわからない。頭の中がぐるぐるして、何が何だかわからないまま濡れた目元をぐっと押さえた。鼻を啜って、視線を上げる。いつの間に座り込んでいたのか、視界に映るのは通りを行く人達の足で、誰かと目が合うことがなくて安心した。
「──……っ、」
震える息ををゆっくり吐いて整えたとき。少し後ろで誰かが立ち止まって、息を呑む気配がした。その音は路地の方から聞こえてきたから、きっとユーリだ。今更逃げ出すことも出来なくて、仕方がないと諦めて振り向く。
「…ごめんね」
「……な、ん………待て、話を───、ッ」
言いかけてから盛大な舌打ちをして、彼はわたしの腕を掴んだ。そのまま引き摺られるように歩きながら、こんなに急ぎ足で着いていくのは初めてだなぁなんて逃避じみたことを考える。いつもはわたしの歩幅に合わせてくれていたのだと改めて思い知る。すこし息が上がり始めた頃に、ユーリはぴたりと足を止めた。彼に合わせて止まったそこは、裏通りを抜けた先の小高い丘。周りに人はいなくて、代わりに下の道を行き交う人達が見えた。何から話そうか思案しているらしいユーリは、難しい顔をして黙り込んでいる。わたしの方こそ立ち聞きしてしまったことを謝らなければと思うのに、何故だかちゃんと言葉が出てこない。そうして幾らか時間が経って、柔らかい風が2人の間をすり抜けた時、ユーリは真っ直ぐにわたしを見つめて口を開いた。
「お前に、大切な奴がいるのは知ってる」
「…うん」
「その上で気持ちが揺れてるのも、だけどやっぱりそいつが大半を占めてるのもわかってたから、正直はっきりさせる気はなかった」
「……うん、」
ユーリは小さく息を吐いた。
そして、ひどくやさしい顔で。
「なかったんだけど、な。…そんな顔するってことは────期待、してもいい?」
だけど何だか泣きそうにも見えて、つられてわたしも泣きそうになる。
「そんなかおって、どんなかおなの」
「ユーリはわたしのなのに、って顔かな」
冗談めかして事実を告げる彼は、やっぱりすこし意地が悪い。だけどその声は今まで聞いたどの音より穏やかで、そして色付いていた。
「…わたし」
「ん?」
「忘れたくない人がいるの、」
「…知ってる」
「でも、わたしはユーリだけって言い切れないのに、ユーリにはわたしだけがいいの、そんなの酷いし、ずるいのに、どうしても、いや、で、」
喉の奥がひくついて、上手く声が出せない。目の奥が熱い。伝えたいことがきちんと言葉にならなくて、ぐっと息が詰まる。なくな、泣くな、子どもじゃないんだから、しっかりしないと、
「───お前だけだよ」
それは。
ほんとうに温度が灯っているように感じるほど、その音はあつくて。耳の奥が熱を持つ。そこからじわりじわりと拡がって、耳朶も、頬も、火照って、あつい。
「レナにも俺だけがいいんだけど、まぁ、そいつと俺の2人だけならいいよ」
「そんなの、」
「いーんだよ。俺だけだって言い切れないってのは、つまりそいつだけだとも言えなくなったってことだろ」
「そ……う、だけど」
「俺だけ選べって今言うのは酷だろうしな。レナはそのままでいい。けど、これだけは言っとく。───俺はレナしかいらない」
真っ直ぐに、ピタリと合った視線はわたしだけを捉えていた。触れているのは握られた指先だけだというのに、まるで全身を包まれているような気分だ。あんまり面映ゆい心地がするものだから、逃げるように俯いて強く目を閉じる。
「俺たちの噂。俺が1度も否定しなかったの、知ってる?」
「……しってる」
ふ、と笑う気配がした。
「…そろそろ肯定してもいい?」
「───…ッ、」
喉が震えてうまく声が出せなくて、何度も何度も大きく頷いて応える。その言葉が、彼の想いが、すきだと言われるよりもずっと素直にわたしの心に染みていった。