「十年後に本気出す」



「おかしい……私の様な可愛い女の子がにっこり微笑んで見せたら狙った獲物は即落ち二コマになるはずなのに……こんな世の中間違ってるよ……」
「……お前今年でいくつになるんだっけ?」
「ごさい」
「何もおかしくなんてなかった」
「年齢と恋愛はべつもの」
「アイツが五歳児相手にそういう感情を抱いたら俺の仕事が増えるだろ」
「いつおまわりさんこの人ですって叫ばれるかわからないドキドキ感がやがて恋愛のドキドキと混同しちゃうことが無きにしも非ず」
「そのつり橋効果リアル過ぎて怖い」
「お兄ちゃんはもっと夢を見るべきだよ……」
「お前はもう少し現実を見るべきだ」


椅子に座りながら足をぶらぶらさせ、隣に座るお兄ちゃんとそんな会話を続けているが中身を知らなければただの微笑ましい光景である。
例え幼女が『相手にとって不足なし……長期戦も辞さない』なんて続けて口走っていたとしても、だ。
外見があどけない美幼女って素晴らしいね!

何の因果か前世の記憶なんてものを引き継いだまま生まれてきて早数年。
どこに出しても恥ずかしくない愛くるしい美幼女に成長した私は日々猫を被って過ごしている。
あちらこちらに愛想を振りまいては大人たちから賛辞の言葉や、お菓子だったり玩具だったりを巻き上げることが今の私の仕事だ。
上目づかいで見上げて、にっこり微笑めば大体どうにかなる。
前世の頃から飼っている猫をすっぽりと被れば、精神年齢も誤魔化せるからありがたい。
ただ時々素の自分を出せないことをつまらなく感じるがどうしようもないことだろう。

そう思って過ごしていたある日のこと、私の親戚だという青年が我が家を訪ねて来た。
両親へと手土産を渡す青年の姿を物陰から観察していたら不意に目が合う。
私はいつものように上目遣いでにっこりほほ笑んでよいこのご挨拶を披露したのだが、その青年は私が想像した以上に人を見る目があったらしい。
じっくりと観察するような視線を向けられ、おや珍しいこともあるものだ。ロリコンかな?
なんてやや警戒しながらも彼からの言葉をじっと待てば彼は隙のない様子で口を開いた。
『子供が子供のフリをするなんておかしなことだ』
と猫を思わせる釣り目を細めながら笑った青年にひやりとしたのはほんの一瞬だけ。
すぐに猫を被らなくても良い相手が出来たと喜んだ私はそれ以来青年改めお兄ちゃんと二人きりでいる時はこうして素を曝け出している。
ちなみに青年のことをお兄ちゃんと呼ぶのは、私のまわりの人間が揃って微笑ましそうに笑み崩れるからだ。
お菓子や玩具を貰える確率も増える、これが噂のハッピーセットか。


約束しているもう一人が到着するまで、暇つぶしも兼ねてお兄ちゃんとの出会いを思い返していた私はそわそわと出入り口を窺った。
喫茶店の中は時間のせいもあってかそれほど混んでおらず、一足先にと注文したリンゴジュースとケーキ。それからお兄ちゃんが頼んだコーヒーは程なくして運ばれてきた。
わーい!お姉さんありがとう!
と愛想を振りまくことも忘れない。
私は出来る幼女なのである。


「あのねお兄ちゃん?
年の差なんてものはあと十年もすれば大した問題じゃないのよ?」
「……お前の考えでいくとあいつはお前が成長するまでかなり待つことにならないか?」
「多少の目移りはゆるします。最後に私の隣にいればよいのです」
「男前がすぎないか」


昔読んだ漫画で見かけたようなそうでないような言葉を拝借して胸を張れば、何故かお兄ちゃんは引きつったような表情を浮かべた。
ふふん、と得意げに笑う私を見てその顔腹立つなぁとぶつぶつ文句を言いながらコーヒーを口に運ぶお兄ちゃんの後ろから私の愛しい人の姿が見えて即座に笑顔を作り上げる。
あまりの豹変ぶりにか、普段よりも五割増しくらいある猫かぶりにか正面に座っていたお兄ちゃんがコーヒーを噴き出した。
やだ汚い。何やってんの子供じゃあるまいし。


「ちょ、何やってんだよお前……」
「こんにちは、研二お兄さん。
お兄ちゃんちょっと咽ちゃったみたいで……」


大丈夫?と心配そうな顔でおしぼりを差し出せば『誰のせいだと思ってるんだ』と言わんばかりの顔でじとっと睨まれる。
しかし前世+今世分の年月を生きた猫がその程度ではがれるわけがなかった。
私はこの猫の尻尾が二股になるまで大事に育てたい所存である。
研二さんは向かい合わせで座っている私たちを見て、一瞬どっちに座るか悩んだようだったがすぐさま私が嬉しさを隠すことなく浮かべた笑顔でもって


「研二お兄さん、こっちで一緒に座ろ?だめ?」


と椅子をぺちぺち叩いてみせれば私から懐かれているという自覚がある研二さんは柔らかく笑い『それじゃあお邪魔しようかな!』と私の隣に座ってくれた。
流れるような動作でメニューを渡しながら雑談をはじめる。


「今日はお仕事お休み?」
「うん、そうだよ」
「仕事があったら断ってるだろ……」
「お休みなのに我儘言っちゃってごめんね。
でもどうしても研二お兄さんに会いたくて……」


ややしょんぼりしながら言えば、そんなこと気にする必要はないと頭を撫でられる感覚がした。
私がこうして研二さんと一緒に会うのは初めての事ではない。
私とお兄ちゃんが出会って数か月経った頃に一緒に買い物に行った時偶然遭遇したのだ。


*********************************


「あれ?もしかしてその子が噂の『窓の内』?」


お兄ちゃんと一緒に出掛けた時に、そう声をかけられて振り向いた先にいたのが研二さんだった。
窓の内?と繰り返す私とは逆に、意味を知っていたらしいお兄ちゃんが『こいつがそんな可愛いものかよ……』と半眼で呟いていたのを今でも覚えている。
私は執念深いんだぞ。
不思議そうに繰り返した私の言葉が聞こえていたのか、研二さんは私と同じ目線になるように屈んでにっこりと笑いかけてくれた。


「初めまして、俺は萩原研二。
君がお兄ちゃんって呼んでるやつの友達だよ」
「初めまして……苗字 名前です」
「おっ!ちゃんと挨拶できるのか!偉いぞー!」


そう言って私の頭を一頻り撫でてから、さっき私の口から出た言葉への答えをくれた。
なんでも警察学校でお兄ちゃんが時々誰かと長電話していると噂になっているらしい。
人目を憚るようにして陰でこそこそと話している姿を偶然目撃した研二さんとそのお友達が、電話の相手が誰なのかとお兄ちゃんに聞いてもはぐらかされるばかり。
ならばお兄ちゃんと仲が良い降谷さんに訊ねてみれば、相手は親戚の子供だという。

何かと可愛がっているみたいだぞ。
それこそ窓の内……箱入り娘にでもするみたいにな。

そう言ってにやりと笑う降谷さんの言葉から取って私のことを窓の内と噂していたようだ。
何せ私の事を聞いても何一つ情報を漏らさない。
名前はおろか、年齢や会話の内容まで何一つ。
どんな手を使っても頑なに話さなかったお兄ちゃんをからかうように使われていた私のあだ名のようなものらしかった。

おそらく彼らの頭の中では、誰にも話したくないくらいに私の事が大切で可愛がっているということになっているのだろう。
実際のところは五歳前後の子供がまるで大人のようにぺらぺらとあれこれ喋っている、という事実を伏せる為に沈黙していたといったところか。
ちらりとお兄ちゃんを見上げれば『余計なことは言ってないからお前も言うなよ』と言わんばかりの視線を向けられたので、私はお兄ちゃんにだけわかる程度に僅かに頷いてみせる。
大丈夫だ、わかっている。
任せておけと言わんばかりに口の端を釣り上げてみせた。
そうして私は視線を目の前にいる研二さんへと戻して。


「ねえねえ研二お兄さん」


あのね、と恥ずかしそうに口元に手を添えながら小さく手招きする私を見て不思議そうな顔をしながらも『どうかした?』と私の意図をくみ取って近づいてきてくれた。
それなりの至近距離まで近づいてくれた研二さんを見て、私は可愛らしく微笑んだ。
その時の私の目はまるで獲物を狙うハンターのようだったとお兄ちゃんは後に語る。
内緒話でも始めるのかという顔で、何の疑いもなく私の想像通りの行動をとってくれた研二さんの首元に手をまわして。
私は素早い動作で研二さんの唇を奪った。
ちゅ、という軽いリップ音に自分が何をされたのか理解していない様子の研二さんが子供に向ける笑顔のままで固まる。


「えへへ、奪っちゃったー」


きっとこの世界では通用しないであろう懐かしい言葉と共に頬を染める私。
頬を染め両手を頬にあてて照れます、というわかりやすいポーズで笑顔を振りまく私に先に我に返ったのはやはり付き合いの長さの賜物かお兄ちゃんが早かった。


「ちょ、おま、お前えええ!!何してんの!?」


同じ体勢のまま依然動揺している様子の研二さんよりも先に元凶をどうにかした方が早いと判断したのか私は捕獲された猫のようにだらりとした体勢で持ち上げられる。
あー、いいところだったのにぃ。
口を尖らせながら不満です、と顔いっぱいに書かれた表情でお兄ちゃんを見上げる。


「いや、日頃お世話になってるお兄ちゃんのシスコン紫の上計画実行中疑惑を払拭してあげようかなと」
「なんで!?それでどうしてああなった!?」
「別に窓の内でも箱入り娘でもないんだよアピール」
「そのよくまわる口を何故さっき使わなかった!」
「研二さんイケメンだったし正直好みだったから色仕掛けしようと、つい」
「つい!?ついで色仕掛け!?お前の年でか!?」
「五歳前後の幼女にファーストキス捧げられるとかその界隈の人間からしたら血の涙を流して羨ましがられる案件でしょ?」


さっきお前が心得た、と言わんばかりに頷いたのを見た時から嫌な予感はしてたんだ。
とため息をつくお兄ちゃんに、察するのが一歩遅かったね!と軽い調子で返す。
研二さんには聞こえない程度の声量でのやりとりをしていたら、ようやく再起動したらしい研二さんが苦笑しながら私たちに近づいてきた。


「いやぁ、びっくりした。
名前ちゃんあんまり気軽にそういうことしたら駄目だよ?」
「ええー?なんで?」
「世の中には悪い人もいるんだから」
「じゃあ研二お兄さんは良い人だからしても良いってことだね!」
「……ん?」
「研二お兄さんは将来警察官になるんでしょ?
お兄ちゃんと同じ学校のお友達ってことはそういうことだもんね。
それに研二お兄さん、優しいから大好きー!」


にこにこと邪気のない様子でそう言えば、研二さんは私の言葉に少し考えた後にお兄ちゃんの方を見て小声で


「……なぁ、この子警戒心がなさすぎて俺ちょっと心配になってきたんだけど」


なんて言っているのが聞こえてきた。
私には聞こえないだろうと思っているようだが、お兄ちゃんに抱え上げられている今その言葉はしっかりと私の耳に入っている。
なんだか私にとって都合の良い展開になりそうだったので聞こえていないふりをしよう。
例えお兄ちゃんの『警戒心がないどころかこいつのこれは計算づくだぞ』という心の声が聞こえてきたとしても追及しないでおく。
私は今、純粋無垢で可愛らしいけどちょっとおませさんな幼女であるからして。
私の本性を知っているお兄ちゃんは研二さんの言葉に、ああ、まあそうだな……?という曖昧な言葉しか返すことが出来ない。
そんな態度を研二さんがどう思ったのか納得したように一人呟く。


「これは確かに、定期的にこの子と連絡をとるのがわかるなぁ……。
ロリコンほいほいじゃないか?これ」


難しいことはわかりません、といったつぶらな目で研二さんを見上げれば大きな手で再び撫でられる。
さっき撫でられた時にも思ったけど研二さんの手は男の人にしては指が綺麗で、器用そうな雰囲気を感じる。
撫で方も乱雑なものではなく子供とはいえ女の子である、ということを理解しているような控えめで丁寧なものだ。
私の中で彼への好感度がうなぎ上り。
私が被る猫を見て素直に微笑ましいと評価しているところも好ましい。
大好き、なんて軽口を言っていたもののその言葉は嘘偽りない本心だ。

そもそも転生者である私は、この世界のことを知っていた。
それはもうよく知っていたのだ。
目の前の彼も彼の友人達も、そしてお兄ちゃんも放っておけば死んでしまう運命にあるということも。
救済とか世界の意思とか小難しいことが頭を過ったが、それらを幼女に求めるには過剰すぎる。
私は私が思うとおりに動いてバタフライ効果とやらを狙うだけだ。
悪化してしまったらその時に対策を考えようじゃないか。
私は今後来るべき日を思い浮かべながら、まずは好感度を上げることが最重要であると判断してお兄ちゃんとあれこれ雑談をした後にその場を離れようとする研二さんに引っ付いて泣いて別れを惜しみ定期的に会う約束をもぎ取ったのであった。


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そうして今に至るわけだが。

嬉しそうに最近の学校での話をしたり、研二さんのここ最近の出来事を聞かせてもらったりしながら考える。
かなり好感度は上がってきているのではないだろうか。
ただの知り合いの子供、というレベルから自分に懐いてきてくれる可愛い子供というレベルくらいには。
私が目指す関係に至るにはまだまだ努力が必要だろうが……。


「あれ?研二お兄さんこれどうしたの?」


彼の指先に巻かれた絆創膏に目敏く気付いた私が心配そうに声をかければ、研二さんは言われて思い出したといった風に手を持ち上げてみせる。


「たいしたことじゃないよ。
ちょっと引っ掛けて怪我しただけだ」
「お前そんな小さい怪我よく気づくよなぁ……」


どういう観察力だよ、と呆れたような目を向けてくるお兄ちゃんの言葉にさらりと『だって研二おにいさんのことだもん』と当然のように返せば隣から少し照れたような気配を感じた。
いい傾向だ。
研二さんの方を見ずにニヤリと笑えば、こんな邪悪な笑顔を浮かべる幼女は見たくないとでも言うようにお兄ちゃんがそっと視線を窓の外に向ける。
誰もが認める美幼女に対して失礼な。
しかしこれはチャンスだとばかりに、テーブルの下のお兄ちゃんからは見えない位置にある研二さんの手をなぞる様にしてそっと触れてみる。
大人の駆け引きを楽しむ女性のように、悪戯にゆるゆると研二さんの手に他の怪我はないかと確かめるかの如く。
思いの外私の好きなようにさせてくれていることをいいことにそっと指先を重ね、安心したように目を伏せながら思わずといった様子で呟いた。
勿論彼に聞かせることを前提としたものだったが。


「大きい怪我がなくて、良かった」


心底ほっとしたという気持ちを言葉に滲ませながらぽつりと零した言葉は、それなりの効果をもたらしたらしい。
研二さんは私の呟きに一瞬ぐっと言葉を詰まらせたがやがて指先が触れる程度だった私の手を包み込むように握りしめた。


「心配だから気をつけてね?研二お兄さん」
「……ああ、ありがとうな名前ちゃん」


そうして笑い返してくれるその目が、自分に懐いている子供を見るような微笑ましいものだけじゃない熱が含まれていると気づいているのはまだ私だけだろう。
無邪気に自分に纏わりついてくる子供だと片付けるには、時折見せる大人びた何かがそれを許さない。
じわじわと、ゆっくり侵食されるかのように私の存在が研二さんの中で大きくなればいい。
テーブルの下での私の一連の行動を見ていないはずのお兄ちゃんが、頑なに窓の外から目を逸らさないまま『女ってこわい』と呟いた。




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マンションに爆弾が仕掛けられた。
そう通報を受けて駆け付け、どうにか解除することができた萩原はほっと安堵のため息をつく。
もう爆発の心配はないと片手を上げてまわりを囲む他の警察官たちに伝えれば、空気が緩んでいくのを感じた。
爆弾の解除に成功して安心した萩原だったが、そうなると今自分が着ている防護服の存在が気になって仕方がない。
爆発の衝撃から身を守るためとはいえその重量は四十キロにもなり、隙間なく作られている防護服の中は冬でもサウナ状態。
五分以上の着用は不可能と言っても過言ではない。
それらを脱ぎ、未だ爆弾の前ではあるものの解除済みであるという安心感も手伝って一服でもするかと煙草を取り出した時だった。

ふと、どこからか子供の泣き声が聞こえてくる。

空耳かと思ったがその声が聞き覚えのあるものだと気づいた萩原は驚きながら立ち上がる。
子供の泣き声自体は他の警察官にも聞こえていたようで戸惑ったような雰囲気はあったが、その声に一番に反応したのが萩原であったことが物珍しく感じたのか自然と視線が集まった。


「……泣き声がする」
「避難し遅れた子供でもいたのか……?」


そんなまさか、と誰かが笑い飛ばそうとした次の瞬間物陰から現れた子供の姿を見て萩原は思わず声をあげた。


「名前ちゃん!?」


しゃくりあげながら痛々しいほどに泣き痕が残る顔でゆっくりと萩原を見たその子供は、見知った顔がいたことに驚いたのか安心したのかくしゃりと顔を歪める。

名前とはまだ自分が警察学校にいたころからの知り合いだ。
友人である男が何かと気にしていた子供で、彼にも自分にも随分と懐いている。
やや警戒心が薄いものの好意を全面に押し出してくるきらきらとした笑顔に絆され、今では定期的に顔を合わせる仲だ。
どこに配属されたのか知らされなかったが、最近お兄ちゃんと連絡がとれないと寂しそうに自分に言う少女に笑ってほしくて間に友人はいないけれど会うことはやめなかった。
二人で会っている現場を目撃した松田からは『手を出したらその時点で犯罪だからな……?』と言い含めるような言葉をもらった。
そんなことはしない、と反論しようとしたのだが初めて名前に会った時の唇の感触を思い出してしまい思わず言葉に詰まる。
そして念を押すように同じ言葉を繰り返される、という事件はわりと最近のことだ。
いやいや。
そんな馬鹿な。
自分はそういった趣味はない。
ごく真っ当に綺麗なお姉さんが大好きだ。
なのにそこで名前の顔が浮かんでしまうのだからどうしようもない。

ゆえに可愛がっている名前が危険な現場で、しかも泣きながら現れたという事態に即座に駆け寄り流れるような動作で名前を抱き上げたのは当然のことだった。
少なくとも、萩原の中では。


「何してるんだ!こんなところで危ないだろ!」


思わず口から飛び出した言葉は名前を咎めるようなもので、今まで自分に対して声を荒げたことがない萩原の言葉にびくりと肩を震わせる名前の姿を見て冷静になる。
いや、今大事なのはそうじゃない。
爆弾は解除したとはいえ危険であることに変わりはない。
現に名前は視界の端に入ったであろう爆弾に怯えたような様子を見せている。
縋るように自分の首に両手をまわしてくるその姿が、初めて会った時と重なり眩暈のようなものを感じた。


「ここやだ、こわい。
研二お兄ちゃんもう帰ろ……?」


ぐすぐすと泣きながら怯えた声で言う名前に、まわりの警察官たちも顔を見合わせていたがとりあえず一般人を安全なところまで避難させることで一致した。
名前を抱き上げた萩原を先頭に、足早にマンションを降りていく。
もうすぐマンションから出られるくらいまで降りて来た辺りで名前がようやく顔を上げた。


「あのね、なんだかすごく嫌な予感がしたの」
「嫌な予感……?」
「研二お兄さんの仕事の邪魔になるだろうなってわかってたの。
でも、どうしてもじっとしていられなくて」


同じ年頃の子供に比べれば名前という少女は随分と大人びている、ということを知っている萩原は少女の言葉に珍しいなと目を丸くさせた。
手を繋いでほしい、一緒に遊んでほしい。
なんて可愛らしい我儘は言うものの、本当に萩原や友人を困らせたことはほとんどなかった。
その名前がこんな危険を冒してまでわざわざ来てしまう『嫌な予感』とやらの詳細を聞こうと口を開いた瞬間だった。
建物を大きく揺らす振動と、耳を劈くような爆発音。
咄嗟に自分の頭と腕の中にいる少女を庇うように体勢を低くした萩原は、はっとした表情で上を見上げた。
この状況で考えられるのは一つだけ。
つい先ほど解除した爆弾が、なんらかの原因によって爆発したのだ。
長くここにいるのは危ないと判断した萩原たちは急いでマンションから脱出する。
もし名前があの場所に姿を現さなければ。
そう考えると寒気がした。

マンションから誰一人欠けることなく脱出した自分達に、爆弾の解除に失敗したのかという視線がほんの一瞬送られたが萩原の腕の中にいる怯えた様子の少女を見てざわついた。
念を押すように名前が『助けてくれてありがとう』と泣き痕が残る顔で笑ってみせたので、それもすぐにおさまったのだが。

生きて帰れたということ。
名前が自分の腕の中で無事でいるということ。

少し前までは必死だった萩原だったが、じわじわと実感すると怖くなった。
もしほんの少し名前が自分のところに辿りつくのが遅ければ、彼女まで死なせてしまうかもしれなかった。
そこまで考えて、ふと無意識に自分よりも彼女の身の安全を優先している事実に気づく。
警察官の本分として市民の安全を第一に考えるのは間違っていない。
けれどそれは腕の中にいる少女を離しがたく思い、未だ抱き上げたままでいるという理由には少し足りないような気がした。


「研二お兄さん」


名前を呼ばれ、ゆっくりと腕の中にいる少女を見下ろせばいつかのあの日のように自分の手をとり怪我がないかと心配そうに見ている。
大きな怪我がないことに安心したのか名前は萩原の手を自分の頬にあてて、まるで猫がそうするかのようにすり寄った。


「助けてくれてありがとう。
……無事でよかった」


心底安心したような少女を見て、萩原はまるで。
そう、例えるならば心臓を撃ち抜かれたような衝撃を受けた。
なんだそうか。
松田の言葉は正しかった。
自分と彼女の間にある年齢は縮まることなどない。
それでも名前が成長するまで他の男が近寄らないようにと牽制しない自信はなかったし、どうやったら自分をそういった意味で好きになってくれるだろうと考えてしまう。


「名前ちゃんは俺の命の恩人だな」
「研二お兄ちゃん、それ私の台詞だよー?」


額をくっつけるように言えば、お礼を言っているのは自分なのに何故そんなことを言われるのかと首を傾げている名前の姿が至近距離で見て取れた。
きょとんとしているまだまだ幼い少女に向けるにしては重く、似つかわしくない言葉だったがそれは萩原の口からするりと零れ落ちる。


「つまり俺は名前ちゃんのもの、ってことかな」


冗談めかして言ったつもりなのに、少女の反応を見逃すまいと見つめている時点で本気であるとわかってしまうだろう。
自分たちのまわりに人がおらず、またこの会話が聞こえているのが自分達だけじゃなければという前提があるが。
まだ理解は出来ないだろう。
ただ、言っておきたかった。
そういった思いからの言葉だったが、萩原の予想に反して名前は少し驚きはしたもののやがて彼女の年齢とは似つかわしくないような蠱惑的な笑みを浮かべ


「じゃあ、私がちゃんと責任とらないとね!」


と心底嬉しそうに言い放った。
頑張ってあと十年くらい待っててね、なんて可愛らしく言ってのける少女の姿に萩原は思わず天を仰ぐ。

マンションから降りる間中何度も鳴っていた携帯電話を緩慢な動作で取り出した萩原は、再度その存在を主張する携帯電話を耳に当てる。
そして同時に友人である松田から安否を確認する言葉が鼓膜を揺らした。
あれこれと怒鳴りつけるように言われているのがわかるが、その内容がどれも頭に入ってこない。
やがて反応がない萩原を訝しく思ったのか『おい、どうした?大丈夫か?』といった言葉に変わりその時になってようやく萩原は口を開く。


「……なあ、松田。
お前が言ってたこと当たってたわ」


思いの外懺悔にも似た響きに、腕の中の少女だけがくすくすと笑っていた。




*********************************


「恋する幼女は無敵、そして正義。
つまりはそういうことだね」


暫く仕事で忙しくなるから会えないと言ったきり連絡が途絶えていたお兄ちゃんから電話があったのは、念の為にと病院に検査入院した後だった。
予め私の状態を調べていたようで大丈夫か?という言葉は最初に言われただけであとはすぐ雑談に変わったのだが。
ふと会話が途切れた時に私が放り投げたそれが、正しく爆弾の様な発言であると理解したらしいお兄ちゃんは『はぁ!?』と叫び出す。
耳元で叫ぶとか私どうかと思うな!


『ちょ、お前まさか』
「大丈夫だいじょうぶー!!
あと十年待つって言ってたから!お兄ちゃんの仕事は増えないから!!」
『何も大丈夫じゃなくないか!?』


俺の友人が名前の毒牙に!
と電話の向こう側で騒ぐお兄ちゃん。
一般的に考えたら私の方が騙されてて毒牙にかかってるって思うのが普通なのでは。
さすがに私の事をよくわかっている。


「本当はね、あと数年くらい時間をかけてじっくりやるつもりだったんだけど……」


満更でもなさそうだったし、もういいかな?って

上機嫌に言う私の言葉にお兄ちゃんは『萩原……お前の尊い犠牲は忘れない……』と電話の向こうで合掌している雰囲気がしたので、次に会った時には覚えておけばいいと思うよ。
こちら側から攻めていっても良いけれど、研二さんにはまだまだ私のことで頭を悩ませてほしい。
他の女に目移りしても構わないとは言ったものの、自分だけを見てくれているのであればそれに越したことはないのだから。



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