頭がガンガンと内側から叩かれるような痛みで目が覚める。
眠たい目を擦りながらベッドを下りた。二人サイズのベッドには、一人の…私のぬくもりしか残っていない。
あぁ、彼はまだ忙しそうに働いているのか。少し淋しい気もしながらも、寝る前に飲んでいたワイングラスを片付け、顔を洗う。身支度を整え、足早に部屋を後にした。
外に出ると町が浮き足だっているような感じがする。手を繋ぎながら幸せそうなカップルの姿がやけに目につき不思議に思ったが、町を歩いているとでかでかと貼られたポスターに納得がいった。
そういえば今日は2月14日…サン・ヴァレンティーノだったっけ。恋人たちの日、といっても私にはあまり関係のない日だと思う。
そんな関係に近いと個人的に思っている彼、ベルナルドは、毎日がとても忙しいから記念日があることなんて覚えてすらいないだろう。
それに私たちの関係はひどく曖昧であって、細い糸のように脆いものだから。私が一言「私たちの関係って何?」と聞いてしまったら、ただの他人になってしまうかも知れなくて、臆病なままズルズルとぬるい関係を続けていた。
嫌われないようにベルナルドにベタベタしたことはないし、束縛もすることもなく、そういう甘いことを期待するだけ無駄だと思うのだ。今回のヴァレンティーノだってそう、同じこと。
出来ることならベルナルドとベタベタしたいという願望も少しあるけども、彼も、私も、そんな風に触れることなど今更出来ないのだ。
カツカツとヒールを響かせながら、幸せそうな彼らの間を早足で通り抜ける。記念日といっても、私の仕事には休みは無い。
デスクに着くとコーヒーを飲みながら書類を取り出す。
「こんな日に出勤とは、お前も独り身かい?」卑下た面をして話し掛けてくるのは、同僚のアルフレッドという男だ。賢明の意味をも持つアルフレッドという名前だが、こいつには一欠片も似合わないだろう。
「なぁ、独り身どうし今晩どうよ?」だらしなく口元を緩めて気持ち悪く笑うアルフレッドに気持ち悪くなる。
「勝手に言ってれば。」最低限の言葉をやると「つれないなぁ。」口元は笑ったままあいつは眉を下げていた。
女性関係に悪い噂しかないあいつの作り顔に騙されるわけがない!Che palle!内心汚い言葉を吐きながら作業を進める。スルーを続けていると相手にされないことに漸く気が付いたのだろう、他の女性のデスクに向かっていた。その為私は仕事に集中することが出来、書類の内容を目に通しはじめた。
夜も深くなった頃、疲れた目頭をマッサージして伸びをする。固まった身体を解すのには十分だった。
辺りはがらんと人気がない。何人ものお先に、と切り上げていく人を見送りながら残業を続けていると、気が付けば一人になっていたのだ。
区切りの付いた書類をまとめ、帰る支度する。なんとなくコートに手を突っ込むと、かさりと紙の感触がした。取り出すとそこには、流れるような字で電話番号が書いてあった。
この紙って―、そう記憶を掘り起こせば。そういえば、ベルナルドと初めて会った時にもらったっけ?そんな記憶が朧気ながらにあった。
「いつでも連絡してよ」片目を瞑ってベルナルドは柔らかく言葉を紡いでいた。
そう言われたけれど自分から連絡したことはなくて、無くしていたと思ったその電話番号の紙はコートに入れっぱなしだったらしい。
「…電話、してみようかな。」無意識に零れた言葉は、臆病な私が初めて一歩を踏み出してみようかというのを後押しした。
何をやっているんだろう自分は、そう頭の片隅で思うけれど止まれなかった。電話を片手にドキドキと緊張している。コール音が始まると、それは格段に増しそれがいきなりプツッと途切れる。
「Ciao.」少し疲労感が垣間見えるベルナルドの声が聞こえた。
「こんにちはベルナルド。」自分の名前を名乗ると酷く驚いたように、ベルナルドの声色が高くなった。
「どうしたんだい?君が電話を寄越すなんて珍しいね。」
「コートに貴方の電話番号のメモがあったから電話してみたの。…もしかして忙しい?」
なら、後で掛け直すわ。と言葉を続けようとしたが、「大丈夫さ。」ベルナルドに遮られてしまった。
「……」
「……何かあったのかい?」
何を話したらいいか分からなくて暫く沈黙が続く。それを見兼ねて突然掛けてきた私を欝陶しくあしらうのではなく、ベルナルドは問い掛ける。
「ベルナルド、…会いたい。」
言い終わってからハッと気が付く。女々しいことを言ってしまった、と思う。今度こそ呆れられる。ぐ、と息が詰まりそうになりながら「何でもないわ気にしないで!」早口で平然を装った。
「俺も、会いたいかな。」
けれどベルナルドの答えは、私にとって予想外なものだった。「へ」と間抜けな声を出し、呆然としてしまう私。
「俺の仕事も一段落したからね。今どこにいる?」ベルナルドの問い掛けに私はあっさりと答えてしまって、外に出て待ってて、と言われ電話を切られた。切られた電話を片手に暫くつっ立っていた私は、時計の0時を告げる音に漸く動きだす。
言われた通りに外に出てベルナルドを待ちながら、時間は0時を回っていたことを思い出しヴァレンティーノの日は過ぎてしまったことに気付く。
どうせ会うんだったら花束の一つでも買っておけばよかったかしら、と後悔した。どのみち、今の時間では開いている店はないだろうけど。
人通りの少ない道に一台の車がやってくる。車のライトに照らされて私は眩しさに目を細める。その車は、私のすぐ近くで止まった。
「久しぶり。」相変わらず綺麗な緑髪がドアから降りてきた。
久しぶり、そんな言葉が喉に貼りついてしまって声が詰まった。
「さ、どうぞ? signorina.」
「…お嬢さんって年じゃないわ。」
私の為に右ドアを開けて、軽く頭を下げる姿は執事のよう。Grazie.と一言、車に乗り込んだ。
車内はラジオも何もかけてなくてエンジン音のみ響く。
「どこいくの?」と問い掛ければ「秘密。」ウインク付きで返されてしまった。せっかく会えたのにシートに身体を預けると、日頃の疲れか眠気が襲ってくる。目を閉じると車の振動が以外と心地好くて、私の意識は深く沈んでいってしまった。
「ぅん…?」ふわふわした感覚に微睡んだまま、上から声が降ってくる。
「全く君はこう無防備に…。」優しい手つきで髪を撫でられて、ゆっくりと目を開ける。視線は宙を漂い、私を見下ろしている緑髪に焦点を当てた。
「ベルナルド…。」
「おはよう。よく眠れた?」
身体を起こすとカーテンから日が漏れていた。しかも私のいる場所はベッドの上で、キョロキョロとあたふたしながらここはどこ、という意味を込めてベルナルドに視線を向けるとベルナルドは肩を竦めた。
「ここは、俺の家。昨日は車の中で寝ちゃっただろ?疲れていたそうだからベッドに寝かせた、それだけさ。」
「そう、なの。…迷惑掛けてごめんなさい。」
「いや、君の寝顔を見れただけ役得かな。」
その時電話のコール音が鳴り、ベルナルドはベッドから立ち上がって部屋から出ていってしまった。
私ものろのろベッドから抜け出しベルナルドの後を追う。リビングにベルナルドの後ろ姿が見えて、ガラス製のドアを開けようとしたけど足が竦む。それはベルナルドの纏う空気が見たこともないものだったから。
少し経ってからガチャンと受話器を置いて、ベルナルドは振り替える。視線が絡み、私はドアを開けた。
「ねぇベルナルド。…私、貴方のこともっと知りたいわ。――ダメ?」
ベルナルドが口を開くより早く、私は言葉を紡ぐ。
私は貴方のこと何も知らない。誕生日も血液型も身長も、仕事も―。
「…、戻れなくなるよ?」
いつもより低い威圧感のある声で問われて背筋が震える。
けどこんな曖昧な関係でも、いつの間にか、
「もう貴方から抜け出せないんだもの。」
「そう、か。長い昔話になる。…そしたら君のことも教えてくれるかい?」
ベルナルドと向かい合うようにソファーに座ると、「eh.」と力強く頷く。そしてベルナルドはゆっくりと語り始めた―。
貴方のことを「知る」ことによって、曖昧にぬかるんだ関係はだんだんと固まってくれるのかしら。
初ベルナルド
2010.02.11