その思い出はいつも、肌を刺すような冷たい風と雪が降る冬の日だった。
カランとベルがなり、わたしは寒風とともに入ってくる古びたドアの方へ視線を向けた。
最近、無理に頼み込んで雇ってもらったこの古い酒場は、新規の客はほとんど足を踏み入れることはないだろうというような、入り口が分かりにくく、店なのかどうかも怪しいところだった。
入り口のあたりは薄暗く、誰かが入ってきたということしか分からなかった。わたしはその客がカウンターについたのを見計らうと、ドアに向けた視線を手元に戻す。深く息吐きだしたあと、ゆっくりとピアノを弾きだした。
歌には自分の心も、他人の心も癒す力がある、と思っている。
とにかく人前で歌いたかっただけ。低賃金でも、最悪無給でもいいからと手当たり次第に頼み込んで、唯一了承してくれたのはこの酒場だった。
この雰囲気のようなゆったりしたテンポ。でも悲しそうなそんな曲ではなくて、ひだまりのような暖かさを持った音楽。それにわたしの歌を乗せる。
ピアノとわたしの声が共鳴するかのような、この瞬間がわたしは一番好きだった。
ピアノの後奏が終わった瞬間、の静けさ。それが特に好きで。余韻に浸っていると、奥の方からパラパラと拍手が聞こえた。
「綺麗な歌だ!」
青年のハスキーな声が酒場に響く。まさか拍手を貰えると思っていなかったので、その声に、わたしは舞台上でスカートの端を持ちお辞儀する。
「あ、ありがとうございます」
「美しいお嬢さん、こっちに来て少し話しませんか?」
「お、おい」
初めて声をかけてきたのは、ぱらぱらといる客のうち、薄暗い奥のテーブルに座っていた二人のうちの一人だった。
これ以外の仕事、というか役目はない。雇ってくれた主人は、好きな時間に来て勝手に弾けばいい。というある意味ピアノを貸してくれていた。賃金は皆無に等しいが。
彼に手で招かれてので、わたしはロングスカートをなびかせつつ奥のテーブルに向かった。
話し掛けてきた彼の、第一印象は、笑顔が素敵な男性。
笑いえくぼが人柄の良さを感じさせる。
「綺麗な手をしているね」
左手を彼に取られて、甲に口唇を落とされた。
突然のことに戸惑いながらも、「手入れの行き届いていない無骨な手ですよ」とわたしは笑った。
言い終わってからしまった!と気づく。自分を卑下してしまう癖が出てしまったのだった。
「ごめんなさい、あまり褒められることに慣れていなくて…」
「お嬢さんの初々しい姿に、俺の心は差し詰めキューピッドの矢に射貫かれて砕けそうさ。良かったらお嬢さんの名前を教えてくれないか?」
怖ず怖ずと自分の名前を口にする。彼はわたしの名前を一回口にすると、手をギュッと握った。
「名前通り、なんて素敵な女性なんだ!君はひょっとして地に舞い降りた女神様なんじゃないのかな?君の魅力に負けを悟って、太陽がへそを曲げてしまったよ 」
「それは、素敵ね。ちなみにあなたのお名前は?」
「俺のことに興味を持ってくれたなんてこれ以上の嬉しいことはないよ、天にも昇ってしまいそうだ…!アレッサンドロだ、天使のような君からはアレックスと呼んでほしいな」
そっと頬に手を当てられ、彼の、アレックスの蜂蜜のような澄んだ瞳を見つめてしまう。
ああ、この胸の高鳴りはなんなのだろう!
わたしは名前を呟くと、彼がにっこり笑うから。釣られるように笑みを零した。
テーブルに着いていた他のもう一人が、またかというような視線を送っていたことに気づくはずもなく、わたしは彼の瞳に吸い込まれたかのように動けないまま。恍惚とした視線を向けていたのだった。
20111213