ぼろぼろの表紙と黄ばんだ羊皮紙の中は懐かしさで溢れている。視界を閉ざせば、どこからもなくさざ波が聞こえ潮の香りがしたような気がした。


 ざあざあと一定のリズムを刻む波打ち際の砂浜に近いこの酒場には、軽快な鼻歌やバイオリンの音が響く。海鳥が頭上を回旋し、グレートイナグア島は平穏というにぴったりの場所だった。
 久しぶりにジャックドー号がここ、グレートイグアナに立ち寄った。一人で昼間から酒場に顔を出したのはジャックドー号の副官・アドウェールである。アドウェールの姿を見つけて、名前は意気揚々とラム酒を運んでいった。
「アドウェール、久しぶりね!」
 ドンと行儀悪くラム酒をテーブルに置けば、アドウェールはやれやれといった風に眉を潜めた。
「元気だったか?名前」
「ええ、ここは相変わらず素敵な場所よ。まさに楽園のようだわ」
 今までの生活に比べたら、ここにあるのは自由、幸福であった。名前は口角を上げ、アドウェールに微笑んだ。アドウェールはそんな名前を見て、エドワードに聞かせたいよと小さく呟いた。
 しばらくジャックドーの航海の旅の話など下らない日常会話をしていると、名前は急にそわそわしだした。視線は下を向いている。「ね、アド…」急に(通常の名前からは考えられず気持ち悪いほどの)猫なで声でアドウェールを呼び、恥ずかしそうに顔を手で覆った。もごもごと口ごもる彼女はらしくない。何があった?とアドウェールは問い詰めれば、一呼吸したあと名前は口を開いた。
 いつもならハキハキと煩いくらいのがさつな女なのに、名前が何をいっているかほとんど聞こえない。しかもアドウェールが聞こえたのはエドワードという一言のキーワード。助けてもらった恩があるといえ、エドワード自身をあまり好いているようには見えない(寧ろ苦手だと公言していた)名前にしてはあり得ない“エドワード”。エドワードに続く言葉を考えてみれば恐ろしい結末だ。今の照れている状況とを照らし合わせれば、一番確率が高いのは…エドワードが好きなの!と大胆な告白を副船長のアドヴェールに伝えられることだろうと推察してしまってため息が漏れる。

「ねえ、エドワード・サッチと一緒にいる方、誰だか知らないかしら!」
「…エドワード・サッチか?」
 しかしアドウェールの予感は嬉しいことにスグに外れた。エドワード違いだったか、とホッとしたのもつかの間。
「あぁ、マスタージェームズ・キッドのことか」
「まあ、ジェームズというのね!…ねえアド、ジェームズさんは誰か気になっている人でもいるのかしら。彼の好きなものは何かしら。何をしたら喜んでくれるかしら? 笑顔をむけてもらいたいわ!」
「は?」
「だから! 他に女はいるのかって聞いてるの」
「…知るわけないだろうが」
 矢継ぎ早で問いかける名前にアドウェールは頭を抱えたくなった。名前は女のように黄色い声で騒いでいる。まさか名前がキッド船長に惚れるとはアドウェールにとって素晴らしいほどの想定外だった。エドワードなら何かあっても可笑しくはないと思っていたのだが。

「何をぎゃーぎゃー喚いてんだ。久しぶりだな名前」
「げ、ケンウェイ…」
「げ、とは何だ。げ、とは」
 気だるそうにゆっくりと酒場のスロープを登ってきた人物。噂をすればなんとやら。我らがジャックドー号船長のエドワードだった。名前はエドワードに気がつくと幽霊が出たように顔を青ざめた。船長は先程の名前の様子を見ていたのだろう(アドウェールのラム酒を仰いでから)、あろうことかアドウェールに先程のことを聞いてきた。
「ところでなんの話していたんだ? アド?」
「あー…その、名前が」
「ぎゃー! なんでそんなに軽率なの? 乙女の秘密じゃないの、アドウェール!」
「…で?」
 ジロリとエドワードと名前、双方の視線を受けるアドウェール。名前に肩を捕まれぐらぐらと前後に揺さぶられてながら、アドウェールは名前を売ることに決めた。

「キッド船長の、ことが、好きらしい、んだ」
「…ほう」

 ガクガクと揺さぶられたままで先ほどの秘密を落とすと、エドワードはからかいの甲斐ある獲物を見つけたようにニヤリと笑みを浮かべる。うって変わって名前は口を開いたまま絶句状態だった。が、口をもごもごさせた後、両手でテーブルを叩くと(ラム酒が零れそうになるほど)エドワードたちに牙を向いた。
「えーえー、そうよ。アンタみたいなんかちゃらんぽらんと違ってジェームズさんはとても素敵だわ! アンタと違ってね、」
「そうか名前……。おーいキッド! ちょっとこっちに来てくれ」
「なっ!」
「ほらほら愛しのキッドさまだぞ、俺様に感謝するんだな」
 いつの間にかキッドはサッチと離れ酒場近くにいた。大声でエドワードが声をかけると首を軽く傾げながら、キッドは名前たちの元へとやってきた。

「ケンウェイ? 何か用か」
「キッド、お前にお客さんだぞ」
「ひゃ、」

 名前はエドワードに背中を押されて躓きそうになりながらもキッドの前へ出された。間近で見るキッドに、名前の顔が徐々に赤くなっていく。
「あ、あの私名前と言います」
「あぁ」
「あの、その…」
 キッドに見られている事実に名前の声が上擦り震えたけれど、女は度胸である。覚悟を決めた。名前はキッドのチョコレートのような甘い瞳をじっと見つめた。
「貴方が、私の瞳にはとても…輝いて見えるの」
「そう」
「つまりね、私は貴方が好き」

「…君には、俺よりもふさわしい人がいるだろう」
「そんなこと言わないで!」
「君は確かに美しいけれど、ケンウェイの友人なら分かるだろう? 俺は海賊だ、恋にうつつを抜かしている場合じゃないんだ」
「…遊びでイイの!」
「名前、君はもっと自分を大切にするべきだ」
「恋に焦がれて死んでしまいそうよ…」
 キッドとの問答で自分の恋心を否定されたような、名前は悲しい気持ちとカッとこみ上げる衝動に駆られた。そして名前はキッドに近づき、傷痕が残る頬に手を添えて唇に吸い付いた。思いの外柔らかい感触に温もりを感じながら感触を味わっていた。
 ヒュウと口笛が響く。アドウェールとケンウェイがスグそばにいることすら名前は忘れていた。ハッと現実に、我に返った名前は、真っ赤にさせた顔をふるふると左右に動かしながら叫んで脱兎のごとく逃げだした。まるで夢の中にいるようだった。

「絶対に落としてやる」

 キッドは目を丸くして茫然と突っ立ったまま。後ろにいたエドワードが肩を叩く。
「キッド、名前はしつこいぞ。頑張れ」
「ケンウェイの友人は、その、よくわからないな」
 これからどうなることやら、二人に挟まれたアドウェールは未来に対してため息をついた。

14'0702